気づいたら赤ワインに野菜ジュースを混ぜていた。本当は、フルーツジュースを混ぜるつもりだった。けれど冷蔵庫の棚から全く想定外の紙パックを手に取ってしまっていたようで、青臭い汁をふんだんに割り入れた後でパッケージがいやに健康的であることに気がついたのだ。
 こんな間違いを犯したのは今が夜中で、アトリエの電気が落ちていたせいである。いや、私が酔っていたせいである。再度訂正。私が正気では無かったから、である。

 カップの中で赤ワインは酷い色に濁っている。本当はヤマブキ色のジュースと混ぜて、深紅は鮮やかなカーディナルになるはずだった。
 だけど実際は何度も絵筆を落とした水のようだ。見た目はほとんど汚水。喉の渇きも引っ込むが、まあ元はワインなのだからと口をつける。

「まっず……」

 鼻の奥まで、ひどい味がする。だけれど意外に乙な気分になった。どうにもならないキャンバスを目の前にして筆を洗った後かのような汚水を啜る。おしゃれじゃないか。にへへときみの悪い笑い声が出たが気にならなかった。深夜のアトリエには私の他には誰もいないからだ。
 アトリエには私しかいない。けれど意外なことに訪問者はいたようだった。

「まだいるのか」
「コルサさん」

 エントランスのライトを背にして立つ、当時から茨のような立ち姿をした男。コルサさんは暗い中で見るとますます陰気が際立つ顔立ちをされている。
 そう、この時から芸術家としてのコルサさんは出来上がっていた。年齢差だけでは言い訳の効かない、才能と情熱を養分にして私よりずっと前を歩くのがこのひとだ。

 点けるぞ、と確認されてからアトリエに明かりが灯る。蛍光灯の白々しい眩しさに照らし出されるのは雑然とした景色だ。
 立てかけられた大小様々なキャンバス、端へ寄せられたイーゼル、耳打ちし合う彫刻に、椅子に引っかかるエプロン。着地点の見えない、私の絵。

「帰りたくないので居まーす。鍵も預かってますし」
「そうか。寒くないのか?」
「寒いです、なので飲んでます」
「……帰る方が得策だと思うぞ」
「ほら、私、もう少しでここやめちゃうから。寂しいんですよ」
「ああ、その事なら聞いている」

 言いながら、その辺の椅子を引き寄せコルサさんが座った。どうやらここで小休憩していくらしい。
 ワインいりますか、と聞いたら彼は頷いたので、ワインの残りをボトルごと渡した。私はまた、汚水を一口あおった。

「ナマエがここを去ってしまうのはとても残念だ」
「ありがとございます。でもタイムアップです。お金が尽きました。このアトリエにも、コルサさんにも大変お世話になりました」

 行く宛が無く、絵の先生が所有するアトリエに席を作ってもらい、面倒を見てもらって数年。ここではたくさんの時間を過ごさせてもらった。先生を通して知り合ったコルサさんからは特に多くの刺激をもらったし、私の絵がコルサさんを刺激できた時は何より興奮させられた。
 けれど私は、コルサさんのようにアートだけで生きていける身では無い。
 生活費さえも尽きた私は、ここを去る日を目前に控えていた。

 特に珍しい出来事では無い。先人を見ていれば分かる。こういったお金が尽きて芸術活動の今後を問われるような分岐点は幾度となくやってくる。食えない芸術家は山ほど存在する。だからコルサさんは私の一文無し宣言にも重たい沈黙を貫くのだ。
 引き止めては、もらえないのだ。憧れはかくも儚い。夜に冷えた鼻を突く、ペインティングオイルの匂い。嗅ぎ慣れた匂いがツンと突き上げてくる。

「そうだ、コルサさん。この絵に一筆いれてくださいよ。最後だし」
「最後……」

 本気で良いことを閃いたと、その時の私は思っていた。
 コルサさんが合作アートと称するポケモン勝負みたいなものだ。私はポケモン勝負はしないけれど、キャンバスの上で同じようなことをやったらきっと面白い。
 心は子供のように跳ねていた。だけどコルサさんは座ったままぴくりとも動かない。

「誰かの絵に手を加えるなんてタブー感あります?」

 作品を制作中のコルサさんは命を燃やすかのようにエネルギッシュな人だ。だけど目の前に座った男は、その時の姿を忘れてしまいそうなほど、凍りついたかのように見えた。

「大したことじゃないですよ。私はこれからも絵を描く、死ぬまで描く。何枚になるかわかりません。1000枚くらいは超えられるかな、それともこの先1枚も描けないかも。まあでも、その中の一筆です。筆は握り続けますから」

 敢えて軽薄に喋り、私はコルサさんの関心を誘った。誰でも良いわけではない。コルサさんは知らないだろうけれど、あなたが相手だから筆を入れることを許せているのだ。
 不意に熱を込めた目線を送れば、彼の目の奥に火がついた、ような気がした。

「ワタシがやって、いいんだな」
「一枚くらい、そういう気の迷いが封じ込められた絵があった方が、落ち着きます。心配しなくとも、人生はこれからも狂っていくんだから」

 ワインボトルを床に置き、立ち上がったコルサさんは筆を手に取った。私のパレットに何度か筆先を滑らせると、コルサさんは私より細そうな足でキャンバスの前に仁王立ちをした。そして一筆だけ。私の絵に一本の線だけを描き足した。
 縦に一閃。なぞれば指に隠れてしまいそうな細さなのに筆致は暴れ出しそうなくらい力強い。一見すると彼の髪色と同じグリーンに見えるが、近づけばいくつもの原色が練り込まれている。
 私の絵に馴染ませる気の無い、串刺すような重たい一筆だった。

 コルサさんの制作物は立体造形がメインだ。絵画は専門外のはずである。なのにコルサさんは、私のごちゃついたパレットからあのいつまでも忘れられないグリーンを掬い、練り上げた。
 すごいな、あの人は。幾年もたった今も、私の中を感動が突き刺さっている。


 だから。

 彼が私の目の前に現れても、一番に思い出したのは何年も前の不可思議なグリーンだった。

「わあ、コルサさん。会うの何年ぶりでしたっけ。二年くらい経ってます? 三年でしたっけ? お久しぶりです」

 ボウルタウンに着き、ジムにて受付を終え、さてこれからジムチャレンジのため会場へ向かうかと外へ出た瞬間だった。太陽の熱視線を背に、上の方から降ってきて、私の前へ立ち塞がったのは芸術家でありながらジムリーダーとなったコルサさんだった。
 彼の突然の出現や、数年ぶりの私を認識していることは驚くところではなかった。ハッサク先生が連絡を入れておくと言っていたからだ。ただその第一声は予想を大きく外す。
 いつぞやよりさらに頬が深く痩けた、けれど変わらず私の憧れを湧き立たせるその人はスタスタを私に詰め寄るなり声を張った。

「結婚したんじゃなかったのか!」

 鬼気迫る顔で何を言うかと思えば。コルサさんは一発目、随分懐かしい話を引っ張り出したのだった。

「あー、そんな話もありましたね?」
「ワタシとキサマには積もる話があるぞ。そうだな?」
「え? そうでしょうか」
「ワタシにはある」

 悪いがジムチャレンジは後日にしてもらうぞ。そう言うなり私はコルサさんにがっしりと抱え込まれ、連れ去られたのだった。

 この人は昔から、細身に見えて力が強い。握力もしっかりしてるし、体幹も強い。その人に腕を回されれば抗えない拘束力が発生する。有無を言わさず抵抗は許されず、私はジムの裏手へと連れ込まれたのだった。
 到着したのは人払いをしたジム内の一室。
 コルサさんはしっかりと扉側に座った上で再び、同じことを口にした。

「結婚したと思っていたぞ」
「その話、コルサさんがご存知とは思いませんでした」

 結婚というワードで思い当たる出来事が、私にはひとつだけある。絵の師匠のアトリエに通わせてもらっていた頃の話だ。
 当時私には、熱く想いを寄せてくれる風変わりな男性がいたのだ。その人は全く私のタイプでは無かった。が、いかんせん当時の私にはお金なさすぎた。そいつの「好きなだけ絵を描いていい」という甘言に流されそうになっていたのだ。
 生活のための結婚もありかもしれない、っていうか貧乏辛すぎ私には無理無理ぬくぬく生きていたい、などと周囲にこぼしていた記憶がある。が、それがコルサさんの耳にも届いていたとは。多分二年目、もしくは三年目の衝撃の事実である。

「そうですね、あの時はお金がなさすぎて結婚という選択肢は確かにあったんです。けど、コルサさん、リーグペイってあるじゃないですか」
「ふむ」
「実家帰った後で、貯金はないけどLPは貯まってたことに気がつきまして!」

 食えない芸術家こと私を救ったのは、そう、ポケモンリーグが支給するLPだった。

「そういやキサマはタギングルを育てていたな」
「はい。あの子はバトル、案外向いてるみたいで。あと、野生ポケモンのスケッチは毎週欠かさず取り組んでいたので、スケッチのためにあちこち出かけていた結果LPが思ったよりいただけていまして」

 絵のため、私は習慣的に野生ポケモンのスケッチに出かけている。野生のポケモンは相手によっては向こうから攻撃をしかけてくる場合があり、その時は子供の頃から一緒に暮らすタグンギルに勝負をお願いしていたのだ。
 そんな日々の積み重ねは、私の知らぬうちにちょっとした財産となっていたようだ。

「LPに頼ればどうにか食べていけそうだと思って、とりあえず週に何回かバトルをすることにしたんです。あとポケモンのスケッチもアカデミーに提出して出来が良ければLPをもらえたりすることがわかって。何点かはテキストの挿絵にも使用してもらえてまして、今はおかげで飢えずには済んでます!」
「そう、か」
「ポケモン勝負の戦績もいい感じにのびてきたので、腕試しとして各地のジムにチャレンジしているところなんです」

 絵を描くことしか考えていなかった私の人生は、どこからか様変わりした。ジムリーダーに三人挑めたら御の字。そんなハードル低めのチャレンジに取り組んでいるうち、私はこうしてボウルタウンジムへとたどり着いたのだ。
 アートの分野でも、ポケモン勝負の世界でも、コルサさんは私の前に立つ。その巡り合わせは、少し面白い。
 ただ、当のコルサさんは色の見えない、考え込んだ目をしている。

「あの日のキサマは、ワタシにとって触れてはならぬ若い芽に思えた。成長を見ると、エキセントリックな興奮が迸る。ナマエがいたから、あのアトリエに行くのは一番の楽しみだった」
「ほ、本当ですか!」
「本当だ」

 くっ、とコルサさんの口端が片方だけ上がる。

「だからこのパルデアで行く宛が無いなら、遠慮なくワタシの元へ貰うつもりだったぞ!」
「そう、だったんですか……」

 褒められて舞い上がった気持ちが、瞬く間に萎んで行く。コルサさんの元へ行けるかも知れなかった。それはあの夜に聞きたかった言葉だった。何百日も過ぎ去った今では効力の無い、単なる思い出話だ。

 私が結婚するものだと思っていたコルサさんは、私の事を思い、言い出せなかったのだろう。
 その優しさには敬意を表したい。だが、死んだ魔法を見るのはこんな気分なのだろうと思った。

「私の事を、心配してくださってたんですね。嬉しいです。でも私はタギングルと、なんとかやれていますので……」
「心配などでは無いぞ。これは正統なるリビドーだ」
「リビドーって」

 馴染みない言葉なのにどうも生々しい。ガツンと来るワードに、思わず怯んだ。
 コルサさんは先ほどから浮かべている笑みをさらに凶悪に深めて言い放つ。

「すなわち、性愛を含んだキサマへの執着だ」

 もっと可愛い、私に良い印象を抱かせる言い方もあなたは知っているだろうに。リビドーに性愛。赤裸々な言葉選びだが、己の中の感情に向き合い、極力そのままを捉えようとした言い方が、コルサさんの本気を伺えた。
 私は思わず唇を噛み締めていた。ニヤついてしまいそうだからだ。同時に泣いてしまいそうだからでもあった。

 良いんだろうか、憧れを叶えて。あの夜、本当はコルサさんに縋りたかった。居場所も明日の行先も失うこととなった私は、叶わぬ夢を見ていたのだ。このままコルサさんについて行って、そこで枯れ果てられたらいいのに。命も才能も全部、散らすならそこが良い、と。

 熱い何かが込み上げてくる。それをこの身に堪えていればコルサさんは見当違いのことを言った。

「ああ。心配せずとも、キサマがどのように答えようとも、ジム戦は容赦しない」

 至極真面目なコルサさんに、私は笑い出しそうになっていた。あなたがそう言うひとだってこと、とうに分かっている。やることなす事全てに、まるで魂を分け与えるかのように本気になるのがコルサだと、私は知っている。
 だってあなたは私が何十時間と向き合い苦しんでいたあのキャンバスに、遠慮なく、緑を突き立てたひとなんだから。

 あの夜は、今日までが過去になる、その境目だった。私はコルサさんを思い出にするために、彼に筆を握ってもらった。
 人生はこの後も淀みなく、狂っていくと分かっていたから。
 狂って、回り回って、そうか、今巡り合おうとしているのか。気づいたら、私の中に欲求が生まれる。

「コルサさん。私、今、猛烈に絵が描きたい」
「……よかろう」

 コルサさんがどこまでも楽しそうに笑って、今度こそ私はリビドー、或いは性愛を含んだ執着の中へ帰結したのであった。めでたしめでたし。