復習がてら作ったサンドイッチを食べ終えると、今度は私がペパーに勉強を教える番だ。
家庭科は無敵と言っていいほど知識が豊富なペパーだが、実は出席日数はギリギリ。出席日数が少ないということは、出ていない授業が相当数あるということだ。
私はサワロ先生以外の授業なら普通程度に聞いている。なのでノートを見せつつ、解説を交えて、授業でやった内容をかいつまんで補ってあげるのだ。
「ってさ」
数学のノートを移し終え、集中力が切れたのだろう。ペパーが私の名前を呼ぶ。
「なんで筋肉フェチなんだ?」
「んー、なんでだろ? 生まれつきかも。ポケモンでもたくましい方が好きだし」
筋肉フェチになったきっかけを見つけ出そうと過去の記憶を掘り返してみる。だけど、コレがきっかけだ、という記憶は一向に見つからない。
「子供の頃はイルカマンのぬいぐるみとよく寝てたなぁ」
「イルカマンかぁ。はシブいコワモテポケモンでも平気だよなぁ。……例えば、マフィティフ、とか」
「マフィティフ! かっこいいよね、あのがっしりした胴回りの筋肉!!」
「はは、やっぱりは筋肉見てるんだな」
「あのがっしり感とか重量感とか、マフィティフって最高にいいと思うんだけどなぁ。そういえば……結構前に、誰かにマフィティフに触らせてもらったなぁ。アカデミーに通う前の、学校説明会とかだった気がする……」
最後にマフィティフを近くで見たのっていつだっけ。記憶を遡ると確かにそこには、マフィティフを触らせてもらった記憶がある。
笑みはニヒルで、オラチフたちを統率する親分らしい迫力がある。けれど、人間を見つめる思慮深い眼差しが印象的な、そんなマフィティフだった。あと毛皮の下の筋肉の触り心地も素晴らしかった。
「もんのすごく良い子のマフィティフで。愛情たっぷりで育てられてた」
「……それ、オレ」
「え!うそ!覚えてない!」
「だと思ったぜ」
「なんで! 言ってよ!」
「思いっきり忘れてるやつに言えるわけないだろ!?」
「それはごめん! でも言ってよー!」
小突き合いながら、笑いながら、悲鳴を上げながら。ペパーのいろんな表情と一緒に、この部屋の時間が過ぎていく。
数学が終わったのだから、次のノートを持ってこなくちゃいけないのに。私はペパーとのこんなやりとりが楽しくって、仕方がないのだった。
次のテストは、おそらく食材と調味料の組み合わせ、発揮される効果から出題される。ペパーの予想はばっちり当たっていた。
今度こそサワロ先生に苦笑いをさせない。とにかく直視できるレベルの成績になる。そう決意して質問文に目を通す。
予習でもやった問題を前に、すんなりとペンが走り出す。
確かな手応えと共に、私はテストを提出した。
翌週、テスト用紙が返却された。ぱっと見だけでもわかる。こんなにバツが少ない家庭科のテストは、私史上初めてだ。
目の前にはサワロ先生が立っている。今日もとても素晴らしい胸筋と上腕二頭筋をお持ちである。
よくやったな、というサワロ先生の声がする。だけど、どこか遠い。
憧れのサワロ先生に褒められて、私はもっと濃い幸福感に包まれるはずだった。だというのに、なぜか私は喜ぶことができずに、今までで一番、真っ白な家庭科の時間を過ごした。
家庭科の成績は劇的に改善した。ペパーのおかげで。だからペパーにまず、結果と感謝を伝えにいかなければならない。なのに私は、教室の椅子から立ち上がれずにいた。
体の力が、次から次へと抜けていく。このまま、私の中身だけどこかに浮かんでいっちゃうんじゃないかなと思えた。
「!」
目の前の机を叩くのは、最近うんと見慣れてきた大きめの手。爪は短めに切ってある、ペパーの手だ。
「テスト、どうだった? オレ流の予想はばっちり当たってたみたいだけど……、実力は発揮できたか?」
「う、うん……」
私はふわふわと、揺れてるみたいに頷く。
「ペパーのお陰で成績、グロくなくなりそう」
「じゃあなんでもっと嬉しそうにしないんだ? 一体どうしちゃったんだよ?」
「んー、どうしたんだろうね……」
目の前ではペパーが青い瞳に、溢れんばかりの心配を浮かべてくれている。でも今の私には彼の気持ちに応えることはできなかった。
「ごめん。ちょっと、今は無理……」
「あっ、おい!」
私は立ち上がる。自分の荷物を乱雑にバッグへ詰め、駆け出した。バックの口からはきちんと入れられなかったペンが何本も落ちた。
おい、これ落ちたぞ。どうしたんだよ。無理ってなんだよ。気になるだろ。
ペパーが後ろでいくつもの声をかけてくれている。おかしくなってしまった私に対して。けれど、それも無視して私は教室を飛び出した。
廊下を抜けても、階段を駆け下りても、グラウンドに出ても、ペパーが追いかけて来てくれていることは分かる。彼のバックパックに吊り下がっている、ステンレスの食器がカチャカチャと賑やかな音を立てているからだ。
3メートル後ろで息を上げながら
「無理って言ったじゃん、まだついてくるのっ!?」
「こういう時、オレはほっといて欲しくなかったぞ!」
「は!?」
「嫌なら嫌って言えよっ! それか、ばっちり大丈夫なところをオレに見せてからにしろ!」
大丈夫なところは見せられそうにもない。
足を進めて、周りに人気が無くなっていくにつれて私は気付きつつあった。テストを返却された瞬間から自分にかかっている、状態異常の名に。
多分、私の溺れるほど喉になだれ込んでくる、この風味は失恋の味だ。
「おいっ、!」
ペパーの声がさきほどよりも強く私を呼ぶ。
「とりあえず部屋に戻らないか? このままだと雨降ってくるぞ。しかもじゃんじゃん、たっぷり降りそうだ」
「……、いい」
「え?」
「ここでいいよ、別に」
「………」
雨くらいなんともないし、どうでもいい。意地を張ってグラウンドに立ち尽くせば、ペパーの言葉通り、雨が降り出す。思ったよりずっと、強い雨が。
しとしとと降り注ぐような雨じゃなく、雨粒がベチベチと頬を横から叩く。雨が体に当たるたびにほんのりと痛い。え、何これ。修行の滝に打たれてるみたい。こんなん、雨というより暴風雨と言う方がよっぽど正しい。
同じ雨に打たれてるペパーも思わず叫びを上げている。
「ほら、言っただろ! じゃんじゃん降るって! やっぱ、どっか入るぞ!」
「………」
「木の下でもだいぶ違うぜ、ほら」
自分だけ先に雨宿りをしていればよかったのに、私なんかを気にするから、ペパーもずぶ濡れだ。
自分のためにも、ペパーのためにも。意地を張るのはやめにして、私たちは屋根のある場所へと避難したのだった。
屋内に逃げ込んでも、嵐が扉を叩き続けている。
雨に打たれたのは数分程度だったはずのに、思ったより雨水を浴びてしまったようだ。私とペパーの足元には水溜まりができていて、大きく広がって、次第にひとつに繋がっていった。
「待ってろ、。確かこの辺にふわふわのタオルちゃん、いれてあるんだ」
ペパーはそんなことを言いながら、バックパックの中身を探っている。私のためにタオルを探す前に、自分の髪の毛くらい絞ったらいいのに。しっとりと濡れて、ぽたぽたと雫を垂らすペパーの後ろ髪に、私はぽつりと言った。
「……サワロ先生がね、優しかったんだ」
さっきまでは自分に何が起こったか、理解できていなかったし、上手く言える気がしなかった。
でも今は、ゆっくりとだけれど、ペパーに伝えるための言葉を見つけることができる。雨に打たれたおかげで、頭がいい感じに冷えたようだ。
「私が良い成績とっても、サワロ先生はいつも通りだった。まぁ、良い先生だよね、授業ちゃんと聞けてなくても優しいし、テストで結果を出したらちゃんと褒めてくれるし」
「ああ、そうだな……」
「でも、私は無意識にそれ以上を求めてたんだと思う。テストの点は良かったのに、サワロ先生があんまりにいつも通りだったから、限界というか、壁が、見えちゃった」
私の恋した人は、いつも最大限”先生”をしてくれる。
だからこれから私が上位の成績を修め続けても、もっと別の方法でサワロ先生にアプローチをしたとしても、得られるものは昨日今日のサワロ先生と何も変わらない。その先へは、生徒である私は辿り着けない。今日のサワロ先生に対面した時、笑みの向こうにそんな事実が透けて見えてしまったのだ。
「相手は先生だし、好きの中に憧れがたくさん入ってことだってわかってた。だから報われるなんて思ってなかったはずなんだけど、でも無理なんだって実感したら、意外なくらい、ショック、で、……。分かったふりして、分かってなかったんだなぁ……」
サワロ先生に褒められた。頑張りを認めてもらった。この結果のためにペパーまで巻き込んで頑張っていた。だから泣くのはおかしい事なのに、目の周りがかあっと熱くなって、頬や鼻先が濡れていく。さっき浴びた雨とは、違う温度の水が、次から次へと溢れて止まらない。
「すげー見覚えがあるよ、その気持ち」
「え……?」
「分かったふりして、分かってなかった、ってやつな」
ペパーの言うそれはやけに重たい。何かしらの経験が、ペパーのリアルな感情がそこには乗っかっていて、私の涙を余計に誘った。
両開きの扉の向こう。嵐を背にした私たちは、二人して、落ち込んでる。励まし合うことはしなかった。ただひたすらに、私たちはそこに在る物悲しさに浸ってた。横に、お互いの存在と、その中に渦巻く悲しさを確かに感じながら。
失恋の悲しみが深過ぎて、もう何も言えなくなってしまった。このまま、もう言葉を喋られないかもしれないと一瞬思ったが、すぐに静寂は破けた。ぶるぶるっと体が震えたと思ったら、くしゃみが出たからだ。
「っくしゅん!」
「おい、大丈夫かよ」
「た、多分。ペパーも体冷えてるんじゃない……?」
「ああ、このままだと風邪ひいちまうな」
「すっごい濡れたし、ね……」
私の言葉が不自然に途切れたのは、ペパーが急に上を脱いだからだ。未だたっぷりと水分を含んでるシャツを絞るためだろう。
ベストをバックパックに引っ掛け、ネクタイをぐいとひっぱる。そして目の前に現れたものに、私は息を呑んだ。
「え、……!?」
声にならなかった。脱いだペパーが思ったより、いい体をしているからである。
しっかりとした首の太さ。その下には鎖骨や、丘のような肩の僧帽筋に目が釘付けになる。と思ったらメインディッシュの腹筋の悩ましい窪みが目に飛び込んで来て、気づけば寒気が吹き飛んでいた。
雨に濡れたせいかもしれないが、上半身の全部がもちっとした肌に包まれている。きっとその奥には硬い筋肉が彼を覆っているのだろう。
触りたいな、ペパーに。そんな気持ちがいつの間にか指先まで走っていて、愕然とした。
自分じゃコントロールできない何かが血液に乗って、ぎゅんぎゅんと駆け巡っては、心臓を打ち鳴らしている。ばくばくばく、と。
「……?」
「ちょ、こっち見ないで……!」
そしてペパーと目が合った瞬間に、それは起きた。
世界が、フワフワしてる。ソフトフォーカスって言うんだっけ、とにかくぼやけてる。ペパーの体の動き、瞬きさえも全部がスローモーションに見えるし、あとペパーの声だけエコーかかってる。
いつしかサワロ先生にだけかかっていた効果が、今はペパーを包み込んでいる。
ペパーの言ってたことがまざまざと蘇る。これは、重傷ちゃん、というやつである。
「は? なんでそんなに顔が赤……」
「これは違う! 違うから!!」
「いやどう見てもチリソース、がぶ飲みしたみたいな赤さだぜ」
きっとペパーの言う通りの赤さなんだろう。自分の顔の暑さからもわかる。それでも私は違うの、と繰り返した。
私の筋肉フェチ、それは正真正銘、本物だ。だけどとにかく、目の前のペパーに嫌われたり、気味悪がられたりするのが怖くて、否定を口にすることしかできないのだ。
「あのね、ペパー。本当にごめん! 自分でも馬鹿すぎるって思うんだけど、私ってその、筋肉フェチなのよ! だからペパーが思ったより、いい筋肉してて、びっくりしたって言うか!! ほんと、気持ち悪いよね、ごめんしか言えない。私って最低だよね、ちょっと筋肉見ただけでこんな馬鹿みたいに惚れっぽくて!!」
「ほ、ほれ……!?」
「そう! でもこれはただ、私が筋肉フェチなせいだから、気にしないで! でも、自分じゃどうにもできなくて……、っごめん!」
言い訳と謝罪を交互に並び立てながら、私はとある事実に直面していた。
ペパーに対して異常に上がっていく心拍のリズム。これが始まったのはペパーのシャツの下を見てしまったからだ。
けど、どうやらただの筋肉フェチがこうさせてるわけではないようだ。
だってペパーの良さが、後から後から見つかって、私の後頭部にぶつかってくるのだから。
料理が上手なとこ、手つきが綺麗なところ、ポケモン大好きなところ。自分でやると決めたらやりきるところ。ずっと昔に会った私のこと覚えてくれていたし、全然話さないのに名前だって覚えてくれてたとこ。
良いことがあったら両手を上げて喜んでくれるところ、落ち込むことがあったら一緒になってガックリ肩を落としてくれたところ。勉強教えると真剣に聞いてくれたところ、勉強会の途中で他の友達に誘われて私が行ってしまいそうになると、口では平気だと言いながら、なんだかとっても寂しそうな顔をするところ。
筋肉が最後のひと押しになって、ペパーへと落ちてしまった。
これから続いているのは、きっとサワロ先生に恋してた時よりも、ずっとヤバい日々だ。なのに私はすでに抜け出せないところまで来ている。
明日から、ペパーとは気まずいことになりそうだ。サワロ先生に対しては呑気に惚けていられたけれど、きっと今日気づいてしまった恋はそう簡単には行かないだろう。
待ってるのは地獄だな。もう泣きそうになりながら、私はとにかくここから抜け出そうと決めた。
「とにかく、ほんと、ごめんね! 忘れて! じゃあ!!」
この場から立ち去ろうとした最後、ペパーと目が合った。
片方だけ見えている目に浮かぶ多量の寂しさの中、小さな願いを乗せた光が、私をほんの僅か引き留める。風向きは、その一瞬で変わった。
「オレに……、チャンスあるのか……?」
ペパーの唇が、そこから出てくる声が今までにないくらいに震えている。
扉の外の嵐は、いつの間にか消えていた。
びしょ濡れになったのと、それと考え過ぎて知恵熱に似た状態に陥ったのだろう。次の日の私は見事に風邪をひいていた。
今は私の部屋のキッチンで、ペパーが楽しげにスープを作ってくれている。お鍋でコトコト煮えているのは授業も自習も何も関係ない、私に食べさせるためだけのスープだ。
毛布からそっと顔を出すと、彼のシルバーブロンドが機嫌良さそうに揺れているのが見えた。
「おっ、具合はどうだ? さすがにあんな濡れたまま喋り続けるのは無茶だったよなぁ。気づけなくて悪かったよ」
「ううん、私は多分だいじょうぶ……すぐ治るよ」
「そうか! でも油断するなよ? 栄養満点オレ特製スープ、もうすぐ出来上がるからな!」
「あ、ありがとう。それよりも、ペパー……」
「ん?」
「昨日言ってたこと、本当?」
熱に浮かされているせいか、私はまだ昨日の急展開が信じられないでいる。
もちろんサワロ先生に失恋してしまったことも、その日のうちに今度はペパーへの恋心が生まれてしまったのも、超スピード展開だった。けれど一番気になっているのは、ペパーが打ち明けてくれたことだ。
『お前がサワロ先生好きすぎるのは知ってた。けど諦めたいのに諦めきれなかったんだ。きっかけがなんであっても、オレにチャンスあるなら、悪い気がしないっていうか……、嬉しいよ……』
思い出して、また熱が上がってくるようだ。と同時に、罪悪感に頭が痛くなってくる。
ペパーに勉強を教えてくれと声をかけた時。私はペパーの気持ちなんて何も知らずに、自分の一方的な気持ちだけをぶつけていたのだ。
「なんだ、何にも気づいてなかったこと、申し訳なく思ってんのか?」
思ってます、思ってますとも。私は同意の返事代わりに枕の上で首を縮ませる。
「ペパーはさ、今までの私に対して、怒りとかないの?」
「ない!」
「そ、そうなんだ」
「でもが気になるんなら、罪悪感の分、これからの行動にして欲しいっていうか。スパイス程度でいいからさ、オレのことを少しでも考えてくれたら嬉しいよ」
「ペパー……」
私がしてきたことは結構、罪が重たい気がしている。無自覚にペパーを何日も苦しめていたと思われる。だからペパーにはもっと、遠慮なく要望をぶつけて欲しいのに。彼が口にした願いはささやかすぎて、私の胸は締め付けられる。
「あと……。もうひとつ」
「なんだなんだ? 言ってみろ!」
「その服装は、わざとなの?」
私は下心のまま曲がってしまいそうな口元を隠しながら、本日のペパーに視線を走らせた。
看病に来てくれたペパーの服装はかなりラフだ。学校指定のダウンジャケットどころか、試験明けの休みということでネクタイさえも外してる。
前のボタンがひとつ開いているだけで、良い感じに盛り上がった魅惑の胸元がちらちらしているのだ。首元もいつもよりよく見えるし、横から見たペパーの胴の逞しさは私の好みをがっちり捉えている。
「そういうの、本っ当に私に効くんだからね!」
サワロ先生には届くことのなかった気持ち。失恋の痛みは全く消えていない。
それより深いところからやってきたこの恋が敗れてしまったら、サワロ先生の時以上のショックに私は見舞われるのだろう。
だから、恋をすることが怖いと思う。戻れなかったら困るどころの話じゃない。なのに、ペパーという男の子は持っているもの全てを使って、容赦なく私を引きずり落とそうとしてくるのだ。
「! 早く俺と同じくらいのところまで来いよな!」
そう言って彼は笑む。お玉を片手にほんのり照れた仕草で、そして私を射止める威力を持って、彼は笑うのだった。
(「ペパーと筋肉フェチちゃんのお話が読みたいです」とのリクエストありがとうございました!)