小さな出版社に勤続してもう何年目になるのだろう。数えるのは少しまだるっこしいくらいの時を重ね、仕事の経験をいくらか積んだが、趣味や生き方は変われないまま。そんな私を上司はついに見かねたようだ。
 昨夜の帰り際のことだった。私を引き留めて編集長は言った。

『明日はちょっと大事なお客さんが来るから、きちんとした格好をしておいで』

 大事な情報は伏せられたままだったが、私は出された指示に従った。来客があっても動じないでいられる服装に髪型も整え、ひとつふたつアクセサリーを身につけて出勤した。
 そして待っていたのが彼であった。ふわりとしたブロンドの後頭部が印象的なズミさんだ。

「こちらはさん。さん、彼はズミくんだよ」

 知ってます、という声は内心に留めつつ、ズミさんへ会釈をする。
 そして私は状況を理解する。カジュアルに展開されているが、これは結婚適齢期の男女が上司の紹介で知り合う、という場面に他ならない。

「……、どうも」

 眉根を深く深くしかめているあたり、ズミさんも戸惑いつつ、状況は理解しているらしい。そしてどうやら、彼は騙し討ちのような形で呼び出されたようだ。”不本意”という時が顔の横に見えるようである。
 我が上司よ、こういうのは本人同士の意思確認が大事なんじゃないですかね。けれど編集長は私が貼り付けた笑顔にも、ズミさんの周りに漂う微妙な空気にも気づかない。

「去年、彼の料理をまとめた本をうちから出版してね」
「ええ、知ってます。フルカラーで刷ってた、画集みたいな本ですよね」
「そうそう! 好調だから次回の企画も立ってるところだよ」
「へ〜、そうなんですかぁ〜」

 全く編集長は。私がここにいつからいるか、すっかり忘れてしまっているらしい。
 四天王でありながら伝説的料理人のズミさんの料理をまとめた本を出版する。その企画が立ち上がった時には私はもうこの出版社にいた。
 だからちゃんと、知っている。最初に担当した編集者がズミさんの相手にならず、編集長に泣き縋る事態になったこと。交代した編集者も三日で心折られて帰ってきて、結局、編集長がバトンタッチすることになった。
 その弱音を私に吐いていたことさえ、編集長の頭から抜け出てしまったようだ。

「ああ、ズミくん。さんはね、出身は確か南の方だっけ? 仕事ぶりはまじめだけど、頑固なところもあってね……」

 編集長は、今度はズミさんに向けて私のプロフィールを勝手に話し始めた。っていうか頑固はあまり褒められた気質では無いと思うのだけど、それも編集長はペラペラと開示していく。私は気づかれないようため息を吐くのが精一杯だ。

 時間にして恐らく10分程度だった。けれど、始終困り顔のズミさんと上司の両方に気を遣ってばかりの、なかなか辛い時間であった。

 上司の顔を立てて、とりあえず交換した連絡先。消すのはあと何日後だろう。ズミさんの方はここから出るなりすぐ消すんじゃないだろうか。それとも消すことすら面倒で、データは入れっぱなしのまま記憶の方が消される方が確実か。
 ああもう、自分のデスクに戻ってカフェオレが飲みたい。カフェオレを猛烈に飲みたいと願うものの、上司はそれも許してはくれなかった。

「それじゃあさん、こっちの用事は終わってるから、ズミくんをそこまで送ってあげて!」

 連絡先の強制交換を終えて、極め付けは二人で少し歩いておいで、と来たか。
 上司は最後の最後まで気を利かせたつもりなのだろう。こんなのに急に巻き込まれ、ズミさんも可哀想である。次の本の企画、流れないといいですね、と内心で毒づきながら私は上着を羽織ってズミさんの先を歩いたのだった。




 私の横でコツコツと、粒の揃った足音が立つ。ズミさんのものである。
 横を少し見上げて、私はため息が出る思いがした。ほとんどは編集長に対してだ。
 四天王という肩書きだって、彼がカロスで指折りの優秀さであることを表している。もちろん才能に見合った報酬も得ていることだろう。
 加えて、切長い涼やかな目元の印象通り、足も手指も細長い印象を持つズミさんは、ひょっとしたらその見た目だけで食べていけるのではないかと思えるほど、美男たりえる要素を持っている。もし彼が持ついくつもの肩書きを知らないまま出会ったとしても、ズミさんに一目で惚れ込む女性は存在することだろう。

 ズミさんのような人が、交際相手不足に困っているわけがない。そこに興味のない女を紹介され、さぞ迷惑したことだろう。ますます、自分の上司がしてくれたことが重たく私の肩にのし掛かった。

「ズミさん。今日は色々と困らせたと思います。本当にすみませんでした」

 足を止め、私はズミさんへと頭を下げる。彼が何かを言う前に、私は次のセリフを継ぎ足す。

「今回のことは何も気にしなくていいので。今日は気分を害されたかと思いますが、どうぞこれまで通り振る舞っていただけたらありがたいです」
「これまで通りというのは?」
「また次の本を作るんですよね? だから今日のことは忘れてそっちに全力を注いでもらえたら、会社としてはありがたいと言うか……。その……、私もまた、ズミさんの数々の料理を納めた本が読みたいですし」

 最後のはお世辞、もとい社会人としてのなけなしのフォローだった。前回の本がよく売れたと言うのなら、次の本もまたウチから出してもらわないと会社の損になる。
 ズミさんの返事を恐る恐る待ったが、本人はふむ、と言いたげに口元に手をやっている。

「今日のことは私も驚きました。事前には何も言われていなかったので」
「本当にすみません……」
「でも貴女が思うほど、私は嫌な気持ちになっていませんね」

 私には痛いほどわかる。ズミさんが気を遣ってくれていることが。あちゃあ、と手で顔を覆いたい気分だ。

さん。ぜひ私と、もう一度会っていただけませんか。別の日に、別の場所で。できれば今週末がいいですね」
「いえ、ズミさん。お気遣いは結構ですよ」
「気遣いの類では無いですね」
「……、あの、ズミさん」
「はい」
「その辺、今のうちにはっきりさせておきませんか?」

 ズミさんの鋭い目元が私を見下ろす。ズミさんは薄い唇を閉じたままだが、説明しろ、という意思が聞こえてくるようだった。

「もしズミさんがうちの上司の面子を思って私を誘ってくださったのなら、今後のお気遣いは不要です。だって時間の無駄じゃないですか。お互いに」
「本当にはっきり言いますね」

 この時の私は、正直言って苛立っていた。編集長が余計な気を回すから、私はわざわざ自分が興味を持たれてないのを確認しなければならない。
 ズミさん相手に期待を抱いたわけではない。それでも結んでもらった縁をひとつ、自分の手で潰そうとするのは、惨めな行為に思えた。

「紹介されて、もう一度会おうとする行為は、その気があるんだと思われても仕方ないです」
「その通りですね」
「うちの編集長にも間違った印象を与えますし、期待してしまって違った、なんて。そんな週末はお断りです」
さんは、期待外れは怖いですか」
「そういうわけじゃ……」

 迂闊な物言いをしてしまった。ズミさんの眼差しが、急に自分の弱点の横をかすめていった心地があって、カッと体温があがる。

 誘われたら期待をする。社交辞令に対して舞い上がるのは恥ずかしいから嫌だからやめてほしい。
 シンプルに言えば、確かにそれだけの申し出なのだ。なのだけど、柔らかい本音を見透かされてしまうのは自尊心に障った。
 唇をもごつかせていると、ズミさんに私の弱い部分に迫ってしまったという自覚はないようだった。

「私は職業柄か、期待が空振ることはあまり怖いと感じませんね」
「はあ」
「料理もポケモン勝負も、限りない挫折の繰り返しですから。だからもしさんが今週末が忙しいと言うなら、その次の週末を待ちます」
「えっと……、本気なんですか……?」

 はっきりと言葉にして伝えた。気遣いは要らないと。それでも次回の話をしようとするズミさんが信じられない。だが目の前のズミさんは、むしろなぜ私がそこまで驚いているのかが理解できないというふうに眉を上げている。

「だって、今日まで私たち喋ったこともないですよね? なのに、なんで? ……ズミさんって、わ、私みたいなのが、趣味なんですか?」
「そうなんだと、思います」
「うーん、言わせたみたいでなんかスミマセン……」
「いえ、本気です」

 本気ですと言われても、信じ難い。ズミさんがさらりとした口ぶりで肯定するのも、信用の無さを強調している。

「私はどういう女性がタイプだっていうのは持っていなかったんです。が、自分があまりにさんに対しては色々とアレなので、そういうことなんだろうなと」
「アレ?」
「……話が長くなりますが、立ち話のままで良いんですか?」
「良いです、このままで」

 話は長引かせたくない。このままどこかお店に入って帰りが遅くなりでもしたら、編集長が「長話だったねぇ〜!」と邪推するところが目に浮かんでくるからだ。

「去年の話ですが。前回の本について打ち合わせをしていた時、貴女は私に客用のコーヒーを淹れてくれました。酷く、つまらない味でした」
「はあ。それはすみませんでした」
「こちらこそすみません。でも本当に、つまらないとしか言いようがない味だったんです。風味も、香りも。私にはつまらないコーヒーを出した後、貴女は自分のためにカフェオレを作っていました」

 自分のことだ。ミルクをレンジに温めて、コーヒーメーカーに残ったコーヒーを合わせる己は簡単に想像がつく。

「ミルク、温めるのをしくじっていましたよね」
「……、あの……」

 さっきは耐えたが今度は我慢ならず話を止めてしまう。さっきから酷くないだろうか。淹れたコーヒーの味がつまらなかったとか、ミルクの温めを失敗してただとか。そんなところを目ざとく見て、覚えているズミさんも、はっきり言ってどうかしてる。

「私、てっきりズミさんが私を気にするようになった時の話を聞いてると思ったんです。けど、私の良いところがひとつも出てこないから」
「そうですね」

 しらっと同意をするな。苛立ちすぎて、私の社会人としてのペルソナが破ける寸前である。

「確かに美談ではありませんよね。キッチンでそんなことをする料理人がいたら、私はその相手を許せませんし、怒る価値も見出せません」
「わぁ……」

 人間誰しも間違うだろうに、ズミさんはかなり厳しい言い方をする。しかも言い方に鬼気迫るものがあって、私は正直少し引いてしまった。
 そういえばズミさんはうちの社員を二人ばかり泣かせていたな、と思い出している時だった。
 ずっと、私の目には呑気に見えたズミさんが、急に切なげに顔を伏せたのだ。

「そういう過ちを許せたのが貴女が初めてだったんです」
「………」
「レンジの前の貴女が一心不乱に考えている間にミルクの良さを殺してしまっているところは、どうしてだか、忘れられなかったんですよ」

 息が詰まる思いをした。今まで、ただの仕事関係の人でしかなかったのに。ズミさんが急にプライベートな表情を私の前に曝け出している。

「家のレンジでミルクを加熱することは出来ますが、きっとどうやってもさんのミルクと同じにはならないと、やる前から分かってしまう。いえ、加熱しすぎたミルクがどうなるかなんて、頭ではわかっているんです。子供でも知ってる、基本中の基本です」
「そう、ですね」
「それが貴女への気持ちを自覚した瞬間です。気づいたのがその、貴女が雑な風味をしているであろうカフェオレと共にデスクに戻ったのを追いかけたくなった時でした。気になり始めた時の話はまた別にあるんですが、聞きますか?」

 私はふるふると首を横に振る。そこまでは、今は受け取れない。私は拒否を示したと言う。なのにズミさんは数秒、思案した後にはもう喋り出す。

「あの本を作る過程で、私は編集者を二人交代させてしまったんです。私が出してもいいと思ったのは芸術としての料理を取り扱った本であり、レシピ本では無いと一喝したら、交代になりました」
「その件は存じ上げてますね」
「ええ。流石に私も出版の話は無くなるかと思いましたが。でも本は無事に出版されました。……貴女が編集長に言ってくださったんですよね」
「……、さあ?」
「ズミさんの本気に向き合えなくて何が編集者だ。そう激励されたと彼が言ってました。……嬉しかったです」

 多分この人、結構自分勝手な人なんだなと思うに足る、身勝手な愛の告白だった。
 きっとめんどくさい恋人になるんだろうなという未来がズミさんの顔に透けて、重なって見える。私は胸中で嘆く。嗚呼とも、あーあ、とも。嘆息しているうちに、未来と言わず、それはすぐそこに迫っているらしい。
 ズミさんが顔をあげる。

「それで。いつの週末なら、会っていただけますか?」





(「ズミさんのお話が読みたいです!」というリクエストありがとうございました!)