気楽な気持ちだった。もしくは、安易な考えだった。
グルーシャってやたら私の心配するよね。後ろをついてくるグルーシャにそう投げかけたのが始まりだった。
だって彼は、私がちょっと外へ出るだけで無言ながらついてくる。歩いて数分の距離だよと言ったこともあるけれど、グルーシャは引いてくれなかった。
同じようなことは今まで何度もあった。その日も、私がアルクジラと散歩に出かけようとすると、後からグルーシャが追いかけてきたのだ。
そういえばジムスタッフのバイトに興味があると言った時も「やめておきなよ」ってしつこく言われた。彼自身が迷惑だから止められているのかと思いきや、理由は「にそんなことして欲しくないから」だった。だから彼は私を心配して、無駄に見える行動に出ているようなのだ。
「なんで? 私、そんなに危なっかしく見えるかな?」
生まれてからずっと、この街に住んでいる。街の周りに生息するポケモンや、付近にそびえ立つナッペ山の歩き方も身についている方だ。何よりも私にはアルクジラがいる。周りの友人たちとよく勝負してるおかげで、アルクジラは甘えん坊ながら頼れるパートナーだ。同じ街に生まれたグルーシャだって、そのことはよく知っているはず。
むしろ私よりグルーシャの方が危なっかしいことばかりしてきたじゃないかと思う。だけどグルーシャは静かに、目線を横へとずらして言う。
「危なくは見えないと思うよ、ぼく以外には」
「へ? じゃあグルーシャが特別心配性なんだ?」
「あんた相手だけにね」
「え、それって……」
思わず顔を赤くしてしまった。
グルーシャの向けてくれる感情が、周りの友人らがしてくれるものとは何か違うことがわかったからだ。
誰か、特定の相手だけが妙に気になる。それは友人たちが巻き込んでくる恋愛トークにはよく出てくる、恋愛感情のわかりやすい特徴である。
グルーシャって、まさか私のことを。ゆっくりと手繰り寄せたのは甘ったるい期待だ。
「そういうこと、なの?」
眉の根元に小さい氷が入っているのかな。そう思わせる、グルーシャの顰められた顔がゆっくりと、マフラーに埋もれるようにして頷いた。
「えっ! じゃあ私と付き合いたい、みたいな気持ちがあるってこと……?」
「わからない……」
グルーシャの返事に足元から滑りそうになる。なんだ、相手から好意を向けられて、結構どきどきしていたのは私だけのようだ。
だけどその返事のおかげで、私は理解した。グルーシャの気持ちが存外、淡いもののようだ。例えるなら降り始めの雪。薄く地面を覆ったかと思えば、数時間後には溶けているような儚いもの。彼のはっきりしない言動は、私に目にそう映ったのだ。
「自分でもなまぬるいことを言ってると思う。けど、ぼくは……わからないんだ」
「うん、了解」
「え……?」
「だから、了解だってば。グルーシャが持ってる気持ちがよくわからないってこと、わかった」
ポケモン勝負では攻撃のコースを見極めたり、技のタイミングを読み切ったり。判断力なら誰よりもずば抜けているはずのグルーシャが困惑している様子は少し面白い。
私たちはまだまだ若者。何か行動に移そうと思えない、それくらいの気持ちなら、グルーシャの抱くものはきっと時間の流れと共に溶けてなくなってしまうようなものなのだろう。
今しか抱けない、気の迷いにも似た何か。大人になったら目が覚めるもの。
そんな思いに戸惑うグルーシャへ、私が抱いたのは、彼のお姉さんになったかのような気持ちだった。生まれたばかりのベイビィポケモンに抱くような、愛しさが胸をくすぐる。
同じ街に生まれた、不器用なところもある彼を見守ってあげようじゃないか。なんだか不思議な高揚感に包まれて、数メートル先をとことこと歩くアルクジラの元へ、走り出そうとしたところだった。
「」
くん、と後ろに引っ張られる。グルーシャが私の腕を掴んでを引き止めたからだ。
「ん?」
「その、付き合うっていう話はどうなるの」
「ああ、別にグルーシャが興味ないんなら私もその気はないかな」
「もうだめ? 間に合わない? ……ごめん。こんな風に必死に聞くの、サムいよね」
グルーシャはどんどん私に詰め寄ってくる。口を挟む隙がなくて返事ができない。と思えば、こちらを掴んでいた手が離される。
私とグルーシャの間を冷たい風が吹いた。マフラーの下で口をつぐんだ彼は、困り果てた子供みたく見えた。
「別に、いいよ」
グルーシャと付き合ってもまあいっか。本音の私がそう言っている。彼のすがるような姿には少し驚かされた。けれど彼の存在がもっと近くなっても、嫌な気分はしない。
グルーシャなら例え別れることになってもサッパリしてそうだし。きっと上手に恋愛できなくてもグルーシャは友達に戻ってくれる。そんな未来さえも見えた気がして、私は彼に笑顔で答える。
「じゃあこれからは私がグルーシャの彼女ってことで!」
私は気楽な気持ちだった。もしくは、安易な考えで彼の提案を受け入れたのだった。
「だめ」
「なんでえ!?」
グルーシャのにべない言葉に、私の悲鳴が続いた。
驚愕しながら、私は冷や汗をかき始めていた。グルーシャが言う「だめ」は実に厄介だからだ。
軽い気持ちで恋人同士になってから知ったことだった。グルーシャは頑固なところがある。彼がだめと言ったら、私の主張はほとんど勝てない。氷塊に向かってるようだと思うくらい、彼は一歩たりとも譲ってくれないのだ。
むしろ恋人という関係になって、グルーシャはぐいぐい来るようになった。遠慮がなくなって、今までは見守るくらいだった心配性が、さらに悪化したようにも思える。
彼にそんな一面があるとわかっていた。なのに私はグルーシャに週末の予定について聞かれて、「その日は泊まり込みのバイト入れてるんだ」と迂闊にも言ってしまったのだ。
「だめに決まってるよ……どうして良いと思ったの? 考えがぬるすぎるよ」
「でも、すっごく割の良いバイトで……!」
先日スマホを見ていたら、目に飛び込んできたのは短期バイトの募集だ。
ボウルタウンで開かれるアートイベントの臨時スタッフ。バイト期間中は宿泊場所も用意してもらえる。つまりバイトの間に観光もできるし、三日間を乗り切れば美味しめの臨時収入が手に入るとの募集要項で、私は即決で応募した。
すでに申し込んで、うきうきと荷造りも済ませている。ボウルタウンは一度行ってみたい場所だった。この辺りには生息しないキマワリたちの群れに会ってみたいのだ。
あとは週末、ボウルタウンへ向かうだけというところだ。
だけど大きな大きな壁が、眉根をきゅっと寄せて私を見下ろしている。厳しい現状だ。
「まず三日は長すぎだよ」
「長いかなぁ!? 一生懸命働いていれば三日なんてすぐだと思うけどな」
「どうしてそう、何もかもうまく行くって思ってるの?」
「確かに、慣れない街でのバイトだから失敗もあるかもしれないけど……」
「そもそもぼくの知らないところで泊まるのがありえないでしょ」
「ありえないかなぁ……?」
「ぼくの知らないとこで、誰とも分からないやつと知り合うっていうのもおかしいよ」
「でも仕事だしなぁ」
不機嫌を隠そうともしないグルーシャの横で、私は困り果ててしまう。
グルーシャの感覚が、正しいのか間違っているのか分からない。だって私にとって初めての恋人がグルーシャだからだ。
何か別に、比べられる存在があったなら良かった。比べることができれば、グルーシャの行動や考え方が、いわゆる束縛に当たるのか、それとも恋人として当たり前の願いなのかの見極めがつくからだ。
だけど私には彼しかいない。彼しか知らないのだ。
「バイト、したい」
「しなくていいと、ぼくは思うな」
「なんで」
「ぼくの目の届かないところにいて欲しくない」
「危ないことはしないって約束する! それでもだめ?」
「だめ」
「グルーシャのわがままやろう……」
「だめなものは、だめ」
「あー、もう……」
譲らないグルーシャに、私はため息を吐いた。それから目を伏せ、ごつんと彼の肩におでこを押し付けた。
「どうしたの? 大丈夫?」
途端にグルーシャは私のことが心配になったようだ。手袋をとって、裸の指を私のおでこや首筋に当ててきた。体調不良を懸念して、体温を測ろうとしているのだと思う。
手袋に守られていた指先はふわふわとした優しい触感だ。発熱がないことを知った指先は、今度は私の頬を撫でる。ここでもし私が顔をあげれば、そこには真っ直ぐに私を案じるグルーシャの顔がすぐそこにあるのだろう。
気分が悪くなったわけじゃない。むしろ私は彼に降伏していた。
付き合いを続けて、グルーシャをより知るようになって、分かったことがある。グルーシャは思った以上に私のことを考えてくれている。危ない目に遭わないように、怖い思いをしないように、日々笑っていられるように、と。本人はなかなか笑わないくせに、私が笑顔でいられるようにと、グルーシャは惜しみなく行動をしてくれるのだ。
グルーシャの行動のいくつかは、面倒だなと思う。だけど、どうしてもグルーシャへの気持ちが、彼を憎めない気持ちが勝るのだ。
そろそろと顔を上げると、何度も見てきたグルーシャの表情がそこにあった。不安にゆらゆらと揺れている。
たった三日間のことなのに、グルーシャの目の奥に浮かぶ願いが見てとれる。そこには、遠くへ行かないでと、書いてある。
仕方がないな、わかったよ。私は諦めを、ため息に乗せて吐いた。
「もう……。バイトしてお金が入ったら、グルーシャともっといろんなデートができるじゃない? だからバイト、したかったんだけどな……」
「……、そうなんだ」
「そうだよ! 当たり前でしょ、お金のためにバイトしたかったんだよ」
いつの間にかすっかり好きになってしまった人と、思いっきり楽しい時間を過ごすために、お金は必要だ。
旅行をしたり、美味しいもの食べたり、やってみたいことをやったり。お金を得たら私はグルーシャと自由な時間を過ごすために使いたかったのだ。
だけどグルーシャ本人がダメだと言うからバイト計画は取り消しだ。ボウルタウンに行けないのは残念だがグルーシャには勝てない、と思った時だった。
「……行くなら、いつも以上に連絡して欲しい」
「えっ!」
「メッセージだけじゃいやだな通話かけてよ」
途端に目の前が、きらきらと明るく開ける。まさかグルーシャが、一度だめと言ったことを覆してくれるとは。凍り切った世界にひだまりが差したような気分だ。
私の期待を込めた視線にたじろぎながらもグルーシャは、バイトを許可するための条件を追加していく。
「最低2回はかけてほしい。毎日、仕事始まる前と終わった後に」
「いいよ! 休憩時間もする! あといつもみたいに、起きた時と寝る前も絶対連絡入れるから!」
「あと勝手に街から出ないで。バイト先まで送るし、迎えに行くから」
「うん!」
「ジムが忙しくなければ、毎日行きたいんだけど……。あと知り合った人は全員、ぼくに報告して。連絡先は誰にも教えたらだめ」
「うんうん!」
グルーシャが私を許してくれた。その嬉しさが先走って、私はグルーシャの言うことを次々に飲み込んでいく。
まるでおバカなウッウになった気分で、グルーシャが口にする、たくさんの身勝手な優しさを飲み込んでいく。
「それから……、………」
グルーシャの言葉が途切れた。
少し考え込んだ様子のグルーシャはそのまま何も言わなくなってしまった。代わりにぎゅっと抱き込まれる。ふかふかとしたウェアに包まれた中身には、硬い両腕が走っている。
また、うまく言葉にできなくなったのだろう。自分の胸に広がる不安の矛先や、私へ向ける気持ちの掴めなさが彼の中で吹雪いている。
彼が抱える感情は朧げなもので、きっといつの間にか消えるようなもの。そう思ったから気楽に付き合ってもいいかと考えた。お試しで付き合ってみて、だめでもサッパリと別れられるとも、思っていた。
ふと、スノーウェアの下のグルーシャの肌が怒っているような気がした。彼は何も言わないままなのに。私は少し怖くなって、許しを乞うようにグルーシャを抱きしめ返した。
彼の肩に鼻の先をうずめながら私は思った。発言には気をつけよう。バイトの話だって、彼に教えるべきではなかった。簡単に別れられると思っていたなんて、もしグルーシャにちょっとでも勘付かれてしまったらどうなるか。考えるのも恐ろしい。
すっかり彼を好きになって、グルーシャに慣れてきた私にはわかるのだ。とにかく何かきっと怖いことが起こるから、気をつけよう。
(「実は執着心が強いグルーシャさんとそれに気づいてしまった夢主」というリクエスト、ありがとうございました!)