必要な時、ただそこにいた。なんでもないように見せかけた運命のようで、やっぱりなんでもない繋がり。私とチリを繋いでいたのは、特別とは呼び難いものだった。
 私は家の電気を点けないまま、スマホの画面を無言で見つめる。

『チリちゃん、いま昼休憩もらったんやけど喋らへん?』

 彼女の声が聞こえてきそうなチリの喋り口調そのままのメッセージ。すぐ下に続くのは私のツボをくすぐると知られてるスタンプだ。
 昼休憩と言いながら、送信時間を見ると15時を過ぎている。どうやらチリは今日もランチも取れないほど仕事で忙しくしているらしい。

 といっても、もう何時間も前に届いたメッセージだ。現在時刻はもう20時を過ぎている。チリの昼休憩はとっくに終わっているだろう。
 チリは今日の仕事を終えられただろうか。ご飯ちゃんと食べたかな。思いは遠いテーブルシティまで飛んで行っているくせに、目の前のメッセージに返事をする気にはなれなかった。自分の足元でくたびれているオフィストートに、私はスマホを投げ入れた。

 昔、毎日のように遊んでいたチリは、今やチャンピオンクラスのトレーナーを束ねる四天王だ。トレーナーを見る目や、人の上に立てる懐の深さ。ただバトルの腕が強いだけ以上の、ポケモンリーグ運営に必要な資質を彼女は持っていた。確かに彼女は人の注目を集めて決して裏切らない、ヒーローのような一面があった。
 彼女の持つさまざまなものを見込まれて、チリは瞬く間にパルデア地方のトレーナーの前を歩くようになってしまった。

 私にとって、チリは昔から少し不思議な女の子だった。私と同じだねとは簡単に言えないものをたくさん持っていた。
 彼女の不思議で特別な部分を上げ出したら切りがないのだけど、私にとってとにかく不思議だったのが、彼女が私の面倒を見たがるところだった。

 例えば早起きや、ボールを投げることや、おやつをみんなと同じように食べ切ることとか。私がたくさん持ち合わせている”できないこと”を見つける度に、「まかしとき」と微笑むのは彼女しかいなかった。
 両親が「あの子は面倒見がいいんだね」と感嘆するのを聞いて、私はチリの性格が面倒見が良いと呼ぶことを学んだ。
 チリは面倒見が良い。だからもっと、必要とされる場に行ってしまったのだ。私がいた場所には今は別の存在が輝いている。例えばそれはたくさんのトレーナーや、同じ四天王のポピーちゃんだ。

「あー……、着替えなきゃー……」

 自分を鼓舞する意味も込めて、次にしたい行動を声に出して言ってみる。だけど効果はなかった。むしろ疲れた体に急にどーんと、落胆が乗っかってきた。
 チリが必要とされて、輝かしい場所に立っていることは、良いことのはずだとわかっている。だけどここにいない彼女のかけらに触れるたびに、私は傷ついてばかりいる。チリが優しさは誰にでも向けられている。私への微笑みは特別じゃなかった。その現実が突き刺さってくるからだ。

 チリが連絡なんてくれなきゃこんな気持ちにならなかったかも。いよいよ逆恨みし始めた自分に、自己嫌悪が膨らんで私は立っている気力を無くした。
 ベッドに身を投げ出して、目を閉じた。それしかできなかった。

 今寝てしまうと、0時過ぎにちゃんと眠れなくなる。だけど容赦なく意識が現実から逃げ出していく。そんな私の弱気な意識を引き戻したのは、家のチャイム音だった。
 誰かが家の前まで来て、私を呼び出している。
 玄関までの距離がだるいな、と思っているうちに、ドアは勝手に開いた。

ー」

 一度はチャイムを鳴らしてくれるけど、渡してある鍵を使って勝手に入ってくる。その流れだけで相手は予想していた。

「チリちゃんがゼリー買おてきたで。ほら、が一日三個食べても飽きひんかったやつや」

 予想通りの声の主が、私のいる、真っ暗な部屋に響く。猛烈に会いたくて、会いたくなかった声がドアを潜って来ているのだ。
 返事をしないで、私はベッドの上で身を丸めた。
 彼女の足音がまっすぐこちらに向かってきて、私の強張った顔を見下ろして、やっぱりチリは微笑んだ。

「何してんの、電気もつけへんで」

 鬱屈した様子の私に呆れているのかと思いきや、声は存外柔らかい。
 だったらチリが電気つければ、と心の中で捻くれたことを思っていたら、彼女の指はスイッチではなく私のおでこに触れていた。

「チリちゃんに顔、見せて」
「……グローブ、とってよ」

 一瞬、優しげな声に起き上がって、チリに抱きつきたくなった。でも私の唇は、おでこの触感へと憎まれ口を叩いていた。羅針盤の紋様が描かれた黒いグローブは、今一番見たくないものだったからだ。

「生きててよかったわ」

 チリは嫌な顔ひとつしない。というよりも、私の返事が聞けたことの方を喜んだ様子で両手のグローブを取り、ポケットへしまいだした。

「なんか悩んだり調子出えへんかったりしとるんやろなとは思っとったけど。昼休憩、返事待っとったのに。なんで返事せえへんの?」
「気づかなかっただけ」
「嘘。、通知は見てるし、チリちゃん相手ならなるべくはよ返してくれるやろ。何か思うことが無い限りは、な」

 チリの言う通りだ。数ヶ月前の私なら、何の戸惑いもなく彼女へ返事を返しているし、意味のないメッセージだって送っていた。推し黙ると、チリはそれを答えとして受け取ったらしい。質問はおしまいにして、私を抱き起こす。

「ゼリー、食べよか」

 私のぼさついた髪を直してからチリは私から離れていく。裸になった手が取り出したのはベッド下に置いていたゼリーの袋だ。
 電気はつけないままだった。部屋が暗いことは私にとって都合が良かった。今はまだ直視する元気が私には無いからだ。チリのこと、チリのどんな部分でも、なんとなく、目に入れるのが怖い。そう内心で震えている私にお構いなしに、チリはベッドを揺らし、私の横に座った。
 私の横に細長い脚が投げ出されるのを見ていれば、ゼリーのカップを視界を遮った。

「はい、の分」
「え? ここで食べるの? ベッドの上でなんて、お行儀悪くない?」
「お行儀は悪いなぁ。がテーブル行く言うんなら、チリちゃんも行くで」
「いや……、それは面倒……」
「それならここでええやん」

 手渡されたのは確かに、一時期好きで好きでたまらなかったゼリーだった。すっきりとした甘過ぎない味が好きだったけれど、食べるのは久しぶりだ。
 使い捨てのスプーンを手に、ゼリーのふたを引っ張って開ける。
 横に座るチリが、明らかに私が食べるのを今か今かと待っている。仕方なく、先に一口食べる。悔しいけれど、やっぱり好きな味と柔らかさ。私の弱点を突くような味覚が口に広がって、微かに表情を変えてしまう。
 私の嘘のつけない反応を見届けてから、チリもゼリーを食べ出した。食べ始めるのはこれからだと言うのに、その横顔は不思議と満足げだ。

「……うち、遠かったでしょ」
「タクシー券もろてるから平気平気」
「ふーん……」
「自分、なんで拗ねてるん?」
「いえいえ。ポケモンリーグ勤務は優雅で素敵だなぁと思って。……なんで笑うわけ?」
も皮肉言うようになったんやなぁと思うと感慨深くて」

 なんだそれ。チリは何目線でそんなことを言うのだろう。あなたは私の何にもなってくれないだろうに。腹立たしさを抑えるように、またゼリーを口に運ぶ。とげとげした気持ちをどうにか柔らかいものの中に埋めようとしてる最中、ぽつりとチリは言った。

「あのな。遠かったで、の家」
「………」
「タクシー使えるから、んち来るまで体力は辛くなかったけど、気持ちは辛かった。早く会いたかった」
「私が、返事しなかったから?」
「それだけやない。、チリちゃんから離れようって思おとるやろ。顔見るまでタクシーの中、どんな気持ちやったか」
「……離れていくのは、チリの方でしょ」

 チリは、もしかしたら私の弱音と本音を待っていたのかもしれない。
 ぎゅっと自分を守るように膝を抱き寄せて、だけど目はチリから離せないままでいれば彼女は弾けたように笑った。さっき会いたかったと溢したチリはもう隣から消えていて、代わりに細身な手足に揺るがなさを宿したチリが、楽しげに言う。

「あほ! チリちゃんがから離れるわけないやろ!」
「でも、チリが必要な人、もっとたくさんいるよ」

 もっと可愛い人、もっと頭がいい人、もっと新しいことをしてくれる人、もっとパルデアのためになる人。みんなみんな、チリのことが好きな人たち。
 私はたった一人なのに対して、相手は大勢。天秤の傾きは明らかだ。それが、私がこの数ヶ月ずっと考えて突き当たって来た答えだ。
 伝えた声は少しだけ震えていたと思う。だけどチリは楽しげな表情を崩さない。

「でもチリちゃんにはが必要やからなぁ」
「そ、そんなことある?」
「ある。うち、このゼリーそんな好きやないねん。でもの横で食べるこのゼリーは好きや」

 知らなかった。私の好きなこのゼリーを、チリもよく、私の横で食べていた。記憶を遡れば、チリは結構もりもり食べていたと思う。
 でも確かに、彼女の食の好みを思い出せば、このゼリーの存在は浮いている。

「別に嫌いでもないけど好きでもないもんを食べても、隣にいるだけでいい気分にさせてくれるんはだけや」
「本当に隣にいるだけじゃん……」
「ん。でもこうやって肩くっつくだけで、やばいもんな。毎度思っとるんやけど、自分、危ない成分の塊なんか?」
「……もしかして、私の横で食べたいからベッドの上で食べてるの?」
「もしかしなくてもそうやで」

 暗い部屋。
 私にあるのは好きなゼリー、大好きなチリ。それからチリが言う甘い言葉まで揃っている。
 チリにあるのはなんだろう。チリにとって隣にいる私はなんだろう。
 好きでもないゼリー、不機嫌な私と拗ねてて可愛くない言葉。
 いいこと、何もないように私には見えるけれど、チリは深く、私をあたたかな底へと沈めるような声で言う。

が生きとって良かった。こんな可愛い幸せをチリちゃんに語らせられるの、だけやで。チリちゃんにはが必要なんや。もっと誇りいや」
「……うん」

 そうだったんだ。チリは、そんなふうに考えていてくれたんだ。誰だっけ、チリが面倒見がいいと言ったのは。ゆっくりと理解に痺れていく私は、ぽろりと言う。

「チリ、私のこと好きじゃん」
「そうやでぇ」
「………」

 多分部屋の電気がついていたら、チリにはしっかり見通されることだろう。今、私の表情が、キスくらいしちゃってもいいかなの顔になっていること。
 チリが好きだ。このままキスくらいしちゃってもいい気がする。私はゼリーをそっと置いて、ようやく部屋の電気をつけたのだった。


(「ダイゴさん一筋だったのに… チリちゃんが頭から離れません…」というリクエストありがとうございました!ダイゴさんのことも忘れないで…!!!)