「同窓会には行かないよ。私が行ったら、ハッサク先生、来ないと思うから」

 みんなはハッサク先生に会いたいでしょ。私がそう言えばアカデミー時代からの友人は見たこともないあんぐりとした表情を見せてくれたのだった。
 友人の顔には、わかりやすく”信じられない”と書いてあるが、私にとっては歴然とした事実である。

 アカデミーで学生だった頃、ハッサク先生は美術教師でありながら、私のクラスの担任だった。目の下は柔らかく垂んでいるのに、目力が不可思議に強い。それがハッサク先生の第一印象だった。
 実際のハッサク先生は、どの生徒にも負けないくらい感受性が豊かだった。それでいてポケモン勝負への知識も、単なる美術教師と思えないほど深い。懐もパルデアの大穴より深いと評判で、生徒にも人気の先生だった。
 もうひとつ、ハッサク先生と言えばとても涙もろい性格だ。威厳もどこかに吹き飛ぶような熱い泣き姿は、一部の思春期を迎えた生徒には煙たがられていたが、私は好きだった。私も、多くのクラスメイトと同じく、ハッサク先生が好きな生徒だった。

 そのハッサク先生の態度が、かすかに自分にだけは違うと気づいたのは、かなり早い段階だった。
 好きな先生の名誉のために断っておくが、ハッサク先生から時たま感じる違和感が、私の成績に影響を及ぼしたことは基本的に無い。思い返せば、他のクラスメイトが贔屓されていると不満を覚えたこともないのだから、なんだかんだ良いクラス、良い担任に当たったなという感覚がある。
 ただ、卒業の時に少し虚しくなった。私が一対一で話そうとすると強張るハッサク先生。皆に慕われ先生と呼ばれる人にも、どうしようもなく相性の悪い人がいるのだと思い知った、最後の学びでもあった。
 その顔の下を、私はついぞ見せてもらうことはできなかったなと、青春の最後に苦い思い出がひとつ、足されたというだけの話である。



 今週も仕事が始まる。すでに儚く散ってしまった休日を恋しく思いながら出勤したところ、朝一番で上司が私を呼んだ。そして伝えられた業務内容に、私は予想外に大きな声を出していた。

「先輩と一緒にアカデミーに出張、ですか?」
「そう、社長の意向でうちの商品をアカデミーに寄贈することになったんだ。君はアカデミー卒だったよね」

 確かに私はテーブルシティのあのアカデミー卒ではある。ぎこちなく頷くのを流して、上司は仕事の説明を続ける。

「最終的にはうちの社長と、アカデミーの校長先生である……なんて言ったかな」
「お変わりがなければクラベル校長先生ですね」
「そう。社長と向こうの校長と軽い贈呈式を予定しているんだ。それまでの連絡と調整を、卒業生であるくんに頼むよ。ちょうどいいし、母校に顔を出して来たら」

 ちょうどいいのは会社だけだ。数年前の卒業生と来れば向こうの態度もある程度良いことが期待できる。また、卒業して何年も経っていない私自身も、学校の構造などはまだ体が覚えている。
 ちょうどいい人材が私であることは理解ができる。けれど私は肩を落とさないようにするのが精一杯だ。
 私の反応は思ったより芳しくないことを察しつつも、有無を言わさない笑みで上司が言う。

さんが通っていた頃と同じ先生がまだ在籍されているといいね。例えば、担任の先生とか」
「……そうですね」

 仕事なのだから行くしか無いのだし、どうにかなる、大丈夫。そう気張ろうとしていた私へ、上司の余計な一言が、唯一無二の苦味を呼びこす。
 担任の先生。ハッサク先生とは卒業式の祝賀会でも、同窓会でも顔を合わせていない。なのに私は先生の瞳の橘色や肩のかたちを、やたらリアルに思い出し始めてしまったのだった。




 テーブルシティは大きな街だから、大人になっても来たことくらいはある。だけど母校のアカデミーは、下の広場から見上げるだけにとどまっていた。
 全く行く気になれないのはあの地獄のような階段を登りたく無いからだと思っていた。だが、ここに来て私はアカデミーを無意識に避けていたのだと気付かされる。

 好きだと思った先生に、柔らかく拒絶され続けた。その思い出が、アカデミーが迫るにつれて息を吹き返すような心地がした。
 しきりに話しかけてくる男性の先輩と、身に纏うスーツがかろうじて、私の気を紛らわせてくれた。だが内心は常に胃の中をぐるりとかき混ぜられるような不快感に満ちていた。

「あら、貴女はもしかしてここの卒業生じゃない?」
「はい、そうですが……」

 アポの時間に合わせて、受付に申し出ようとすると、向こうから話しかけられて驚く。受付の女性が私のことを覚えていたようだ。

「そうよね。面影があるし、覚えてますよ。元気そうな姿を見て安心しました。立派になりましたね」

 あまり変わっていないということだろうか。嬉しいのと恥ずかしいのが合わさって、思わず顔を赤くしてしまう。
 かくいう私も、受付の女性には見覚えがあった。

「あの、私もあなたのこと覚えています。お変わりなくて何よりです」
「嬉しいわ。担任は確か……」
「ま、待ってください!」

 受付の女性が思い出話に話を咲かせようとしたのを、私は慌てて制止をかける。

「先生の元へはまた後で挨拶に伺いたいと思っています。なので、まず電話でお伝えした要件について、担当の方へ確認お願いできますか?」
「それもそうね。わかったわ、少々お待ちくださいね」

 今日、ここへ来たのは仕事のためだ。ハッサク先生のためでもないし、先生に会うつもりはない。先生も、私には会いたくはないだろう。
 職員室や、美術室には近寄らない。ハッサク先生が歩きそうなルートも絶対避けよう。そう誓って、私は記憶の山に埋めた校内マップを必死で掘り出すのだった。

 もし私が来ていると聞いても、ハッサク先生は顔を見に来たりしない。
 その予想はあっさりと外れた。担当者への挨拶や説明を終えて、応接間を出たすぐのところで、ハッサク先生が私を待ち構えていたのだから。

「は、ハッサク先生……」

 考え込む彫像のように伏せ目で佇んでいたハッサク先生が、ゆっくりと顔をあげ、私を見据える。

くん、お久しぶりですな」

 声も、意志の強そうな眉も、深緑色のスーツ姿も変わっていない。それから私にだけ向けられる、やや硬い表情さえも変わらぬハッサク先生が私に語りかける。
 ああ、先生のその顔。またあいまみえる日が来るなんて。ひきつる私の顔に気づかなかった先輩が、無邪気に聞いてくる。

、そちらの方は? もしかして……」
「はい、ハッサク先生です。私の、在籍当時の担任で」
「へえ! よかったな、。恩師に会えて」
「はい……」

 失礼がないよう挨拶だけ済ませて、早く帰りたい。そう思ったが、先輩は私とハッサク先生の間で凍る空気なんてつゆしらず、余計なセリフを言い放ってくれる。

、そういうことなら少し先生と話してきていいぞ!」
「えっ」
「俺は別件で少し手が離せなくなるんだ。一時間後に、テーブルシティ内のカフェで待ってる。じゃあ、ゆっくりな。それでは先生、をよろしくお願いします」

 さらに余計な言葉を置いて、何も知らない先輩はいち早く抜けていく。私と先生という、当事者だけを置いて。

 私と先生の間には、すぐさま沈黙が広がった。ハッサク先生の唇はぴったりと閉じている。何も喋り出そうとしない。
 もしかして、奥の部屋にいる誰かに用事なのかと思ったが、その考えはすぐに否定された。ハッサク先生の眼差しによって。先生の瞳は、しかと私へと向けられていた。今や学生服を脱いだ私へ注がれるまじまじとした視線からは、おかしな話だが、慈しみのようなものを覚えた。
 そういえば、と私は思い出す。ハッサク先生は私に対していつも少し怖い顔をしていたのに、意外と目が合うことと、その目が反らされることが多かった。

 無言で、先生からの眼差しを受ける。先生と元生徒と関係において、発生するはずのない空気で、私の息は詰まりそうだ。

「……先生、すみません。お忙しいところを来てくださったのなら、ありがとうございます」
「いえ、小生は……。小生は、あなたに謝りたくてですね。先日の同窓会で元生徒たちから聞きましたですよ。小生のせいで、くんが同窓会に来ないと」
「えっ」

 すぐに思い当たった。同窓会へ私を誘ってくれた彼女だ。彼女がハッサク先生へ漏らしたに違いない。
 私が行ったら、ハッサク先生は同窓会に来ない。私がぽろっとこぼしたセリフは、冗談として流されると思っていた。なのに、あの子がまさか先生本人にそのまま伝えるとは思わなかった。先生がいるから同窓会に行かないなんて、失礼にも程がある話なのに、それを本人に伝えるとも思っていなかった。
 迂闊だった。後悔で、私は思わず下唇を噛んだ。

「話を聞かせてくれた教え子には、そんなわけないですよと伝えておきました。けど、くんにはちゃんと全てを伝えた上で、謝らなければなりません」
「じゃ、じゃあ……」
「はい。確かに、小生はくんには会わないようにしていましたから」

 やっぱり、そうだったんだ。学生である間、私だけがずっと感じ取っていた違和感。先生も言葉にしてこなかった、不可思議な態度。誰にも相談できなかった、私だけが感じる皆に向けるものとハッサク先生の顔。それがようやく、たしかに存在したと、自分以外の誰かに言ってもらえたのだ。

「予め言いますと、ひどい話ですよ。聞いたら忘れてほしいとも思う内容です。だから、確認なのですが。くん、この先を聞きますか?」

 少し迷ってから、私は頷いた。
 私がずっと抱え、アカデミーを避ける理由にもなっている苦い思い出。それが紐解かれ、言葉で語られるのは、おそらくこれきりだろう。
 正直、知るのが怖い。けれど目の前にあるのがたった一度のチャンスだと思うと、私には頷く以外の選択肢は無いのだった。

 ハッサク先生は、深い息を一度吐き切ってから、ゆっくりとその場で語り始めた。

「……あなたは覚えてはいないと思いますが、小生とくんは涙を見せた仲ですな」

 そんなこと、あったっけ。きょとんとした私の反応に、ハッサク先生は、ハッと一息だけで笑った。

「入学したばかりの頃ですよ。雨が降る窓辺で、あなたはやむなく休学した友のために泣いていましたね」

 ハッサク先生の言葉に導かれて、私もゆっくりと埋もれていた記憶を思い出す。
 ああ、そうだった。入学したばかりの頃、ある日クラスメイトが一人減ったのだ。

「小生は泣いている理由を聞きました。すると、あなたは涙ながらに教えてくれました。アカデミーへ通えなくなった友のために授業の内容をまとめたノートを送ろうとした、と。だけどそれを友人にあえなく断られたと。そしてくん、あなたは自分の思い上がりを恥じて泣いていました」
「そう、そうでした……」

 家庭の事情で自主退学を決めたそのクラスメイトに、未熟な私は憐れみを送ったのだ。せっかく学校に入ったのに、辞めてしまうなんて可哀想に、と。
 だけどクラスメイトはそんな私を嘲笑した。その子は故郷で家族を助けながらも、すでにポケモントレーナーとしての準備を整え、別の地方へ旅に行くことを決めていたのだ。

「友人の休学は不幸によるものでしたよ。だけれども、あの子はすでに誰よりも自由に歩き出そうとしている。そんなあの子を身勝手に憐れんだ自分を、その想像力を持たなかった自分を、くんは悔いていました」

 未熟な自分の過ちを思い出すと同時に、私はもうひとつの大事な記憶をも取り戻していた。
 あの時のハッサク先生は、とても普通だった。あの時の先生はまだ、皆に接してるのと同じように、私にも平等に接してくれていた。
 だから先生は、あの時、私に泣き顔を見せてくれた。

「気づけば小生はおいおい泣きました。今も思い出しても、胸の熱くなる話です」

 皮肉にもそう言う先生の目元は乾いている。そうだ、あの日が、私が先生の涙に最初で最後に触れた日だ。

「小生の涙に、くんは驚きながらもすぐハンカチを差し出してくれましたね。ハンカチの色もかたちも、よく覚えています。とても、綺麗でしたから。しかし一枚のハンカチがなぜ綺麗なのか、知り得ているのが、この世界で小生ただ一人だという事実にも同時に恐怖しましたですよ」
「………」
「ハンカチも、雨も。あの瞬間の全てが、綺麗でした。あなたは自分を恥じる涙は流したままにして、他者には拭うためものを差し出していた。あの時から、小生はくんにもう一度涙を見せてしまうのが怖かったですよ」

 怖かった。その言葉が、私の目の前を照らすように響く。
 先生が私に向ける強張ったような表情を、私はずっと言い表せずにいた。嫌いとも、憎いとも違う、感情の強張り。そこにようやく、ぴったりとくる表現が今、先生の声によって与えられたのだ。

「もしかして、先生は、私が怖かった……?」

 はい、という先生の深い声がその場に落ちる。

「あなたが恐ろしく綺麗だったから、怖かったです。生徒だから、好きになりたくなかったんです。もし好きになってしまったらと考えるのも怖かった」
「好きにって、そんな……」
「涙脆い性分ながら、至難の業でしたよ」

 私は分かりやすく狼狽えた。
 ずっとハッサク先生の態度の意味を知りたかった。だけど示されたのは、まったく予想していなかった答えだった。
 信じられないし、ありえない。そんな感情が先に来るのに、私の意識にはゆっくりと理解が広がる。二つの意識の温度差に、私の肌表面はぞわぞわと粟立っていた。

くん、本当にごめんなさいですよ」
「………」
さんが来るなら、小生は同窓会には行きません。もし今後、同窓会があるなら小生は欠席しますですよ。理由は多忙ということにしますが、ささやかな罪滅ぼしです。たまには同窓の友と、楽しい時間を過ごしてください」

 未だ理解が追いつかずに、私の目は右往左往している。だけどそこで揺れるハッサク先生は、変わらない、先生の顔をしていた。

「……門まで送りましょうか。それとも小生はこのまま去る方が良いかもしれませんね」

 話したいことは話し終えたのだろう。
 ハッサク先生は、どうしたら私が楽にここから出ていけるかと考えているようだ。

「大丈夫です。ここから、ひとりで帰れます」
「そうですか」

 慣れ親しんだ校舎で迷ったりはしない。何よりも、まともに先生の横を歩ける気がしない。だから私がここから歩き出せば、それが先生と私の別れになるだろう。
 お別れは寸前に迫っている。だから私は、最後に、と口を開いた。

「……先生」
「はい」
「先生はそうやって数年間、私の先生でいてくれたんですね」

 ハッサク先生の、私だけに向けられる表情。それに何年も、意味がわからないまま相対しては、胸を傷つけていた。
 生徒に恋をしないためという理由が明らかになった今も、積み重ねて来たわだかまりはすっきりと消えてくれない。怒りたいような、ものすごく悲しいような、安心したような、様々な感情。どれもが混在して私の中にはあるものの、ぶつける勇気は出てこない。

 長年距離を測られていたハッサク先生へ、なんと言ったらいいかわからない。
 だけど、先生が生徒である私を好きにならないよう必死でいたと言うのなら、これだけは確かめたい。

「先生……」

 問いが私の口から泡のようにこぼれた。

「先生は私を、好きにならずに済みましたか?」

 返事はなかった。薄く唇を開け、立ち尽くしたままの先生の姿に悟る。
 こうやって、私は彼を困らせ続けて来たのだ。先生で在ろうとするハッサクという人を。

 私はここを去るべきだ。どこかすがすがしさを胸に抱きながら、私はひとり、廊下を歩き出した。





 すっきりとした気分だった。長年の謎が解けたせいであろう。
 ハッサク先生の告白とも言える話は、聞く前は恐ろしさのほうが強かった。まだ胸にわだかまりは残っているものの、なぜ、という部分が消えたせいで胸の重りが消えたように軽い。

「はあぁ……」

 すっきりとしている。なのに、ひとつだけ、堪えきれなかったため息が出る。重たく長いものが出て来てしまうのは、自分の中に馬鹿な考えが生まれて消えてくれないからだ。

 好きになってくれても、構わなかった。一度くらい、ハッサク先生からの贔屓を感じてみたかった。自分でも馬鹿な考えだと思うが、みんなの大好きな先生から、特別に愛されてみたかったと思ってしまったのだ。私も、先生が好きだったから。酷く幼稚な考えではあるが、寵愛はきっと甘い味がするのだろうなとも思うのだ。
 でも彼が私に与えようとしたのは固執された平等な扱いだ。ハッサクという人は、きっと利己的な贔屓を許せる先生ではなかったのだろう。
 ふと思った。次の同窓会がもしあるのなら、顔を出そう。元クラスメイトの近況や思い出話はもちろん、ハッサク先生の話を皆としたくなった。

 さて、私は未だ勤務中だ。アカデミーの敷地を出て、テーブルシティのどこかにいる先輩に連絡を取らなくてはと、相変わらず地獄呼ばわりされている階段を降り始める。
 そのまま振り返らず、母校を去ろうとした時だった。

「私の詭弁を一瞬で砕く! そういうところが! 本当にずるい!!」

 口をぽかんと開けて振り返った私に、先生はダメ押しのように言う。

「ずるいですよ!!」

 唖然としている私に、先生はきいっと言わんばかりに悔しげに歯を噛み締めている。

「ええ、ええ、好きですよ! 好きになるのも一瞬でしたよ! 必死に矜持を守ろうとしなければならない時点でもう敗北でしょうよ! 常に腹に力を入れてないと太刀打ちできないくらい、くんが好きですよ! みっともないことを聞きますが、同行していた男性はただの同僚ですよね、随分仲が良く見えましたけどね!」
「え、えっと……」
「言葉に詰まるって言うことは小生には言いにくい間柄ということに聞こえますですよ、そっちがその気ならこちらも全力ですよ!?」
「ひゃっ!」

 悲鳴のような声が出たのは、ハッサクさんが私の両肩に触れて来たからだ。
 ハッサク先生は私を怖がって近づかないようにしていたという話だし、私も感付いて先生とは先生と生徒の距離を保っていた。もちろん触れ合ったことだってなかった。
 だから初めてなのだ。ハッサクさんがこんなに近いのは。そして熱い感情を発露させる先生は見たことあっても、それが私に向けられたのは今が初めてだった。

 何から答えるべきか。それを見定める前に、私の心臓は、馬鹿正直にどきどきという音を立て始めたのだ。
 だけど感情を爆発させているハッサクさんは私の様子には気づかない。

「ああくん、一度にあれこれ言い過ぎって思ってますね。その通りだと小生も思いますですよ。でも仕方がないじゃないですか! あなたの言う通り、たくさんの生徒の中の一人じゃなくなった、あの一瞬で落ちた恋を今日まで引ぎずっでまずがらねえ゛!」
「ハッサクさん、危ないですよ。あんまり押さないで……!」

 少し落ち着いてほしいところだというのに、いよいよハッサクさんは大泣きを初めてしまった。
 こんなところで揺さぶられ続けたら転がり落ちてしまいそうだ。もちろん転がり落ちるのは足元から遥か下へ伸びる、この階段からだ。

 そうだ、ここはアカデミー前の階段を一段降りたところ。周りには他の生徒も、生徒が連れるポケモンもたくさんいる。すでにたくさんの純粋な眼(まなこ)がこちらを見ている。
 だというのに、先生は構わず泣いている。なんといくつも年上のこの男性は、私への恋心に震えて、声を上げて泣いているのだ。
 全く。もし私がハッサクさんのことをなんとも思っていなかったら、この人はどうするつもりだったのだろうか。

「お゛ぼぉっお゛ん゛……!」

 本泣きでえづき始めたハッサクさんに、私は小さなため息をつく。
 感情にかき乱された様子のハッサクさんの頭には、きっとこの先のことなんて無いだろう。
 後先のことなんて知るもんかと言うように、ハッサクさんはただ素直に心を震わせている。
 その姿に私は、ああ、ようやくこの人に恋ができる。そう思えたのだった。






(「リクエストもしよろしければ、なみさんの書かれるハッサクさん夢が読んでみたいです。」というリクエストありがとうございました!)



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