審神者になった時の私に、本丸へ向ける理想と言えるものは無かったかのように思います。こうなったら良いとか、いかなる結果に向け日々精進しようだとか、様々蠢くであろう情勢の中で自分がどのような審神者ありたいだとか。そう言った類の高くを望む願いは私にとってどこか遠い幻で。戦への緊張と、いずれ降りてきていただく付喪神様たちのことを私は受け入れる他無いのだそれが使命なのだと、ぼんやりとただ、考えていたように思います。
襟巻きを首にかけながら、私は空を見上げました。今日はこれから陽は暖かくなるのでしょうか、それとも風は涼やかなままでしょうか。肌寒いのはきっと耐えられるでしょうから。私は上着を取ることなく表へ向かいます。
「主ー? まだー?」
「はい、今」
玄関に座った包丁藤四郎さんが、私を振り返りながらも待ちきれないと足をばたつかせています。
多く誉をとった上位六振りに、街へ買い物へ連れて行く。そこで欲しいものをできうる限り、私が買い与える。いつからでしょうか。これも時間の流れとともに、自然と本丸に生まれた決まりでした。
皆の士気を上げるためというよりは、私が際限なく与えてしまうのを防ぐために決まったことのようでした。
『こうしとけば大将が褒美であれこれ悩むのは六振りまでで済むだろう?』
随分前に薬研藤四郎くんにそう言われ、納得し、感心してしまったのを覚えています。
一月に一度、繰り返し行われるようになった休日のお出かけも、もはや慣習の一つとなっています。
買い出しへ行くのはもちろん強制ではありません。また、ご褒美は六振りまでと決まっていますが、誰でも自由に同行しても良いことになっています。包丁藤四郎くんもそうです。ご褒美とは関係なくお出かけを楽しみに、または新たなお菓子との出会いを求めてか、私たちについて今日を過ごすことを決めたようでした。
外に出ると、もう皆が揃っていました。
蛍丸くん、長谷部さん、不動くん、物吉くん、燭台切さんに、膝丸さん。今回は皆、都合がついたのでしょう。全員が集まっていました。
「行こう!」
「は、はい。参りましょう」
包丁くんが固まりかけていた私の手を引っ張って、私たち一行は出発したのでした。
六振りの同意と、政府の許可を得て、今日の出かけ先はとある時代の城下の大通りです。近くには大社があり、この時代における気軽な行楽・観光地としても賑わっているようです。
包丁くんが前へ前へと私を急かすことは、私にとっては好都合でした。後ろについてくる或る刀剣男士を視界に入れずに済むからです。その刀剣男士とは、膝丸さんのことです。膝丸は、私がどうにも恐れてしまう刀剣男士です。
「いらっしゃい!」
陽が高いうちに、人の賑わいと、季節の割に日差しが強いせいか、すぐに喉が渇き足も疲れてしまった私たちはお茶屋さんに入ってしまいました。
「すみません、4人お願いします」
「まあ。どこの役者さん方?」
私の横に立つ包丁くん。それから元から何を買おうか決めていたのか早々に目当てのものを手に入れた物吉くんや膝丸さんらを見て、お茶屋の女性は目を輝かせます。
付喪神たちの美しさ、かっこよさ、時に凛々しさはこの時代にも通ずるもののようでした。
「美男美女ばかり、奥にしまったら勿体無いわね。表の席がちょうど空いてますよ」
と、通りに面する外の席に座らせてくれました。少し落ち着きませんが、座れたことにほっと一息です。
頼んですぐに、お茶とこのあたりの名物だというお菓子が運ばれてきます。ちらりと横目で物吉くんと、膝丸さんの背中を見ます。
「ほら、好きなものを頼みましょう!」
「しかし」
「膝丸さん! 今日僕たちは主様と来ているんです。ここで遠慮は返って主様に失礼ですよ!」
その通りです。物吉くんは良いことを伝えてくれました。私は頼りなくも、あの本丸の主なのです。まるで甲斐性なし、というわけでも無いのです。皆をこうして甘やかすくらいの余裕はあります。相手が膝丸さんである限り、そんなのは声には出ませんが。
なぜ膝丸さんばかりを恐ろしく思い、腰がひけてしまうのかと問われると、私は困ってしまいます。一目見た時からそうだった、としか言えません。彼を見ていると、彼が私を見ていると気づいてしまうと、私の思考は狼狽え始めてしまいます。それどころか、彼にまつわる苦い記憶が体いっぱいに広がります。狼狽えながらも主として彼に接しなければと私なりにどうにか頑張って、けれど全てが悪いように終わった記憶たちです。それらは、私が忘れる訳がないのに、忘れるなと言わんばかりに手足を冷たく、喉を熱くさせるのです。
私は、一目見た時から膝丸を恐れて、その後も惨めな経験ばかりを彼の前で積み上げてばかりきました。彼と同じ場に立つたびに恐怖が膨らむのは、膝丸さんというものが自分にはどうにもできない物事の、塊だからなのでしょう。
「ん〜っ、美味しい!」
ただの付き添いのはずだった包丁藤四郎くんも、お目当てのものを無事に手に入れたようでした。今回ご褒美とは関係のないはずなのにせわしく、けれど非常に幸せそうにお団子を頬張っています。
「もしかして、これが目当てでしたか?」
「へへっ! もしかしたら、とは思ってたよね! 主は人妻みたいに優しいからさー」
ただ気弱いからそう見えることはあるようです。が、実際の私は言ってもらえるほど優しい人間ではありません。恥ずかしく、私は肩をすくめます。
でも、悪い気はしませんでした。やはりこの弟は、藤四郎たちの中でも甘え上手なようです。その自分が持ち得なかった器用さが微笑ましく、憧れてしまうのです。
「お姉ちゃん」
行き交う人通りから、ふと私を呼んだのは見知らぬ童子でした。
包丁くんの見た目よりもさらに幼い、人なつっこそうな目が潤んでいます。周りに親と思しき人はいませんし、服装からしてもこのあたりの子供でしょう。あまり裕福そうには見えませんが、物売りなどでもないようで、ただ興味津々に私を見ています。
なるべく優しげに声をかけます。
「なあに?」
「お姉ちゃん、どこから来たの?」
「ううんと、この近くでは無いですね」
「じゃあこの辺りのこと、よく知らないんだ」
「なんだこいつ。主に馴れ馴れしいな」
包丁くんが突っぱねると、その子供も煩わしそうに目を鋭くさせ包丁くんと睨み合います。
「まあまあ、良いじゃないですか」
「お姉ちゃん、優しいね」
「そんなことは、ないんですよ」
先ほども言われた言葉に少し恐縮してしまう。私を知る私自身は、決して自分を優しいだなんて思えません。
「ううん。お姉ちゃんは優しいよ。優しくなけりゃ僕も見えない。ねえ、来て! 一緒に行きたいところがあるんだ!」
「えっ」
全てが、ひっくり返ったように突然でした。その子供が私の手を握った瞬間、景色が見えなくなったのです。まるで暗闇に突き落とされたようでした。けれど勝手に私の足がどこかあらぬ場所を目指して歩き出したのです。
別の意思に体を使われている。
主と、私をそう呼ぶ幾つかの声が聞こえたところで、意識もぷつんと切れてしまったのでした。
「主、主……」
「ん……」
肩を揺すられ気づけば、私はただただ広い草原にうずくまっていました。からからに枯れた、薄茶色の草原です。その草に埋もれるように、古い石造りの祠が沈黙していました。
私は、なぜここに? 皆で出かけ、お茶屋さんで一休みしていたところ、道端から話しかけて来た子供に手を握られ、体が勝手に動き出した。記憶はそこで閉じています。あの子供はただの子供どころか、きっと人間ではなかったのでしょう。
あたりは暗く、時刻は夜かと思いましたが、頭上を見上げるとそこに星も月もありません。その異常さに体を震えます。
冷え切った体を抱きしめ、命があることにひとまず安堵して、ふうと息を吐きました。
それからはた、と気づきました。
私を揺すって起こしてくれたあの手、あの声の持ち主。
「……、……」
私の在る異常事態への恐怖とは、また別のひんやりとした寒気が首筋を過ぎります。
私の後ろでその存在が立ち上がる音がして、それだけで心臓が止まるかと思いました。
「主」
聞こえた声で息が止まりました。
「ひ、……」
「無事だな」
冷静に言い捨てるその姿は、まさに私が送り出した戦場に立つ膝丸さんでした。
言葉をなくして殺気立つ彼を見上げると、膝丸は射殺せそうなほど目を細めて私を見下ろします。
「まさか、怪我が」
首を横に振ります。
「ならば異変は」
首を横に振る。それが精一杯でした。
感情を見せず、淡々と膝丸さんは私へ確認して来ます。私の体は膝丸さんとは真逆に、体温を上げていきます。
思い出したように混乱し始めている私へ、膝丸さんは手を差し伸べます。
「君に手を出したのは、妖の類だろう。だからすまないが俺が来た。他の奴らは他の準備を整えて待っていることだろう。歩けるな。ここを抜けるぞ」
私がその手を握るより前に、膝丸さんが私の腕を掴んで立ち上がらせたのでした。私も精一杯、足を前へと繰り出します。
けれど足は何度ももつれました。ここに膝丸さんが、あろうことか膝丸さんだけがいること。その彼が足も遅く、狼狽する私を確かな力で引っ張って、助けようとしてくれていること。その二つが私に恥を照らし出します。羞恥は、私の手足を絡め取るようでした。小さく縮こまる体に、ある言葉が響き渡ります。
審神者のくせに。
私をここへ連れ去ったのは、恐らく人ならざるものです。審神者のくせに、霊的な心得はあるはずなのに、こんな事態を招いた。立場もあって、皆をまとめねばならない、政府とともに使命を背負った、審神者のくせに、良からぬものに簡単に悪さをされた。油断から悪さを許してしまったその失態を、よりによって膝丸さんに見つけられるとは。情けないの言葉でも言い表せません。
自分がひたすら恥ずかしい。
「消えてしまいたい……」
体は燃え上がりそうで、いっそ燃えて、消し炭になるまで燃えて、この空へ消失したいと思いました。
「主。俺はいつか、こんな日が来ると、分かっていた」
前を向くと、膝丸さんの背が見えました。その奥には、抜刀された彼自身が冴えて光ります。
「君がどんなに俺を怖がり、たとえ泣いても、たとえいっそ死んでしまいたいと懇願されても、俺が君を守らなくてはならない日が来る」
手はいまだにしかと握られています。
星も月もない、時の流れもない空の下。その空間よりも、そばに膝丸さんがいることの方が私の脳で明滅します。
「わかってくれとは言わない。が、俺は、君を守らなくてはならないんだ」
私たちは皆の元へ帰ろうと歩いている。なのに連れ去るような力と速さで膝丸さんは進んでいきます。
顔は見えないままでした。
「俺に任せておけ」
目覚めると、いつもの天井が見えます。
部屋は明るくて、障子をあけると、太陽はまだ低い場所で白く朝を照らしていました。
何も変わったところがないような朝に見えました。けれど廊下の向こうから、駆けて来た包丁藤四郎くんに痛いくらいに抱きしめられて、あの出来事が現実だったのだと知りました。
「主! よかった……」
「申し訳ありませんでした……。私の間抜けのせいで、迷惑かけました」
ぎりぎりと力一杯抱きしめて来る包丁くんを、私も抱きしめ返します。私は無事にここにいると伝えるために。
言葉もなく腕に力を込め続けた包丁くんの第二声は、
「っみんなひどいんだよ!」
でした。
「目の前で急に主が自分からどっか歩いて行っちゃって! 僕はすごい慌ててー、こりゃ一大事だ〜ってなって。主がどっか行っちゃったのにさ、膝丸さん一人追いかけて行ったらみんな『膝丸が行ったならいいか』って他のやつらと連絡とり始めて!」
「そうだったんですか……」
自分の足が勝手に動いた感覚はありましたが、包丁くんから見ても私は自分から勝手に歩き出したように見えていたようです。
「ひどいだろ!?」
「でも、今私は無事ですし、膝丸さんですからね」
「主までー! このー! 今度いなくなったら許さないんだからな!」
「はい。気をつけます。包丁くん、ありがとう」
「……ご褒美に、お菓子ちょうだい」
「いいですよ」
照れ隠しする彼を、もう一度強く抱きしめます。
でも、お菓子棚を覗く前に。私には会わねばならないひとがいます。
すぐに会えると思った膝丸さんは、意外にも簡単には見つかりませんでした。今までは案外壁の向こうにいたりした彼は、今日は本丸の、敷地の隅にいました。
動きは、ぎくしゃくとしていました。けれど私が手を振ると、膝丸さんは私を見とめてくれました。
久しぶりに、その顔を正面から見ました。
出かけるにあたっても、その出かけた先でも。同じ道を歩いて、同じ景色を見て、そして一緒にあの空間から抜け出したというのに。私は彼の背中や首から下を見るばかりだったのです。
彼の眼の色を、忘れていたわけではありませんが、どきりとしました。白面は、申し訳なさそうに歪められていました。
「す、すみません、でした……」
「何のことだ」
「謝らなくちゃいけないことは、山程ありますよ……」
「………」
「ほ、本当になんといったら良いかわからないのですが。今回のこと、ありがとうございました」
「当然のことを、したまでだ。しかし、感謝される道理は無い」
私が当たり障りなく、つまらないことばかりを言うせいでしょうか。膝丸さんは横を向いてしまいました。それも右を向くのです。彼の髪に隠され、顔がほとんど見えません。
「そんなことありません」
「いや。ついに、君を、泣かせてしまったからな」
驚きつつ、指先を目元に這わせました。そう言われると、確かに水っぽく膨らんで熱を持っています。そしてようやく、私はあの帰り道で自分が泣いていたことに気づいたのでした。
「あ……」
また体が熱くなるようでした。
膝丸さんに手を引かれる最中、あれ以上の恥があるかと思っていましたが、まさか自分が泣いていたとは。
「わ、私が勝手に泣いたんです!膝丸さんのせいではありません!」
「そうだろうか。君も正気では無かったとわかっているが」
助けに来てもらったのに情けなく泣き顔まで見せて。一体あれ以上に恥ずかしいことがあるのかと思っていましたが、たった今、その頂上すら越えてしまったようです。
「気が動転していたのも分かっているが。俺が、怖かったのだろう」
「確かに……」
「ちっ」
「あああっ待ってください今のは間違いです! そうじゃないんです!」
確かに、と口に出てしまったのは、思い返した膝丸さんが今までで一番怖い顔をしていたからです。
私を迎えに来たのは、敵と対峙するような彼でした。妖は斬るものと己は当然の行いをするのだと自らを疑わない顔は絶対的で、無慈悲に見えました。私が敵ならば、とうに絶命していたことでしょう。
「俺が、恐ろしいのだろう」
いいえ、と答えるのは嘘になります。
「はい」
気まずくなると分かっていても、そう言う他ありませんでした。
私は、膝丸という刀剣男士が恐ろしい。
けれどそれよりももっとあの空間、私を迎えに来た膝丸という刀剣男士が無上に、恐ろしかった。
それに比べれば、目の前に立つ膝丸さんと対峙するのは、随分易しく思えます。なぜならば、今の彼はとても人っぽいのです。私に対して眉を下げていたかと思えば、意図的かは分かりませんが今は顔を見せてくれません。
「膝丸さん。この本丸で一番の働きを、ありがとうございました」
上位六振りで街へ出かけたあの日。私は何度も膝丸さんを意識してはぎこちなくなっていましたが、本当は、一番多くの誉を重ねた膝丸さんが褒美を受け取りに集まってくれて私は安堵していたのでした。
「私も、頑張ります」
頑張らねばなりません、彼のように。背筋を伸ばして、思考を冴え渡らせて、素早く気丈に、冷静に、時に非情にならなければなりません。
ひとつ頭を下げて、帰ります。名残惜しくも、帰ります。一番の恥をかいて、一等怖い膝丸さんを見てしまった今は、もう少し彼と話せた気がしたのです。
でも私という人間は、口を開けばどうしようもないことしか言わないのだから。そう自らに言って聞かせます。ありがとうを言えた。だから良かった。そう自分をなだめて、でも、離れていくすらりとした薄緑に無闇に切なくなってしまい、私は思い出そうとしました。私は膝丸という刀剣男士が怖いのです。そうだったはず、なのです。