四、
長谷部さん長谷部さん。涙混じりの声だった。俺を追いかけはしても決してそれ以上のことをしなかった彼女の手が今ばかりは俺の頬に触れてきた。指先が俺の血に触れて、にちゃ、と粘着質な音がした。は今まで何があってもやたら嬉しそうな顔しか向けてこなかった。はにかんで、俺の快不快に構わず顔を赤くしていた。だから真っ白な顔に俺の方が驚かされた。
見開いたまま戻れない彼女の目は円らに光り、ただの黒目だと思っていた瞳の、光彩の色を初めて知った。
「主様は」
俺に聞かずとも彼女は分かっているだろう。
修行を名目にますます主と立場を重ねるようになった彼女は、今回の戦況だってちゃんと耳に入れているはずだ。
「長谷部さん、主様のところに行きましょう。こんなとこ、うろついる場合じゃないです」
「主は今お忙しい」
他に重傷者が二名いる。それに比べれば軽い傷の俺が、手入れの順番待ちをする。主の判断に異存は無い。それどころか正しいのに、ただ目の前のだけが場を読まずにあわて、騒ぎ立てるのだった。
「とりあえず、座って。安静にしててください」
「俺は平気です」
歩くことはもちろん俺はまだ戦える。出陣から戻って間もないため、血がぐらぐらと煮えて己が興奮しているのが分かる。けれど彼女は俺がこの情けない姿のまま立ち歩くだけで、見ていられないと顔を青くするのだった。
ぐいぐいと手を引っ張られる。仕方なく引かれる方へと俺も歩く。結局、俺は平気でもは平気じゃないのだ。
部屋の中に俺を座らせると、今度彼女は横になるよう求めたが、それは断った。俺は病人でも、瀕死の身でもない。まだ、戦えるのだ。
「主の元へ行かなくて良いのですか」
「主様は今お忙しいですから……。わたしにやれることは、済ましてしまいました」
自分で出来ることをやりきってしまったから、俺を心配している暇が出来てしまっているのだろう。
はようやく黙ったか、と思いきや意を決して堅い声を出した。
「長谷部さん、わたしが貴方を手入れしても良いですか」
「……、必要ないです」
「必要なくないです、こんな痛そうなのに……!」
そう言うがの方が辛そうに、白い首に汗をかいている。彼女に怪我などひとつも無いというのに、震えながら手ぬぐいで俺の血を拭こうとする。
その手ぬぐいで、自分の汗を拭いたら良いのに。煩わしい手をそっとおろさせると、彼女はまたも声を張った
「長谷部さん! 軽傷とはわけが違うんですよ。……待っててください、すぐに手入れ用の道具をいただいてきますから」
弱いひとだと思った。たったこれだけの状況を耐えることができないんだ。駆け出しそうなそのひとの手を、俺は捕まえる。
「そういう勝手な行為は望まないと言っているんです」
「わたしが長谷部さんを直したいと思うんです、それじゃ、だめですか。わたしにも出来るんです、主様ほど上手ではありません。時間も、主様ほどとはいかないとは思いますが、それでも何もしないよりは……!」
「思い上がるな。手入れ部屋も資材も、貴女のものではない」
「………」
「全て、主の所有物です」
彼女は主に可愛がられているかもしれない。師弟関係を結んで長いかもしれない。だがこの本丸において彼女はまだ、何でもない存在だ。審神者になるための能力を有していようとも、何を思い、何を考えようとも、彼女はここで権限も力も持たない。ただ主に許されてここにいることが出来る。
弱くとも、それが分からない人間でも無いらしい。彼女に諦められ、俺の手もぱたんと落ちた。
唇を噛みしめた彼女を、俺は急に叱りつけたくなった。貴女がこれから審神者になると言うのなら、俺が傷ついたくらいで、そう心揺らしてはいけないでしょう。真の主ならば、こういう場面であくまで気丈に振る舞い、今も重傷者の手入れを行っている。
「貴女はもう少し、血や傷に慣れてください」
どうして、俺が彼女を励まさなくてはいけないのだ。そう思いながらも、俺の切れた唇はそんな風に動いていた。
長谷部さん長谷部さん。涙混じりの声だった。俺を追いかけはしても決してそれ以上のことをしなかった彼女の手が今ばかりは俺の頬に触れてきた。指先が俺の血に触れて、にちゃ、と粘着質な音がした。は今まで何があってもやたら嬉しそうな顔しか向けてこなかった。はにかんで、俺の快不快に構わず顔を赤くしていた。だから真っ白な顔に俺の方が驚かされた。
見開いたまま戻れない彼女の目は円らに光り、ただの黒目だと思っていた瞳の、光彩の色を初めて知った。
「主様は」
俺に聞かずとも彼女は分かっているだろう。
修行を名目にますます主と立場を重ねるようになった彼女は、今回の戦況だってちゃんと耳に入れているはずだ。
「長谷部さん、主様のところに行きましょう。こんなとこ、うろついる場合じゃないです」
「主は今お忙しい」
他に重傷者が二名いる。それに比べれば軽い傷の俺が、手入れの順番待ちをする。主の判断に異存は無い。それどころか正しいのに、ただ目の前のだけが場を読まずにあわて、騒ぎ立てるのだった。
「とりあえず、座って。安静にしててください」
「俺は平気です」
歩くことはもちろん俺はまだ戦える。出陣から戻って間もないため、血がぐらぐらと煮えて己が興奮しているのが分かる。けれど彼女は俺がこの情けない姿のまま立ち歩くだけで、見ていられないと顔を青くするのだった。
ぐいぐいと手を引っ張られる。仕方なく引かれる方へと俺も歩く。結局、俺は平気でもは平気じゃないのだ。
部屋の中に俺を座らせると、今度彼女は横になるよう求めたが、それは断った。俺は病人でも、瀕死の身でもない。まだ、戦えるのだ。
「主の元へ行かなくて良いのですか」
「主様は今お忙しいですから……。わたしにやれることは、済ましてしまいました」
自分で出来ることをやりきってしまったから、俺を心配している暇が出来てしまっているのだろう。
はようやく黙ったか、と思いきや意を決して堅い声を出した。
「長谷部さん、わたしが貴方を手入れしても良いですか」
「……、必要ないです」
「必要なくないです、こんな痛そうなのに……!」
そう言うがの方が辛そうに、白い首に汗をかいている。彼女に怪我などひとつも無いというのに、震えながら手ぬぐいで俺の血を拭こうとする。
その手ぬぐいで、自分の汗を拭いたら良いのに。煩わしい手をそっとおろさせると、彼女はまたも声を張った
「長谷部さん! 軽傷とはわけが違うんですよ。……待っててください、すぐに手入れ用の道具をいただいてきますから」
弱いひとだと思った。たったこれだけの状況を耐えることができないんだ。駆け出しそうなそのひとの手を、俺は捕まえる。
「そういう勝手な行為は望まないと言っているんです」
「わたしが長谷部さんを直したいと思うんです、それじゃ、だめですか。わたしにも出来るんです、主様ほど上手ではありません。時間も、主様ほどとはいかないとは思いますが、それでも何もしないよりは……!」
「思い上がるな。手入れ部屋も資材も、貴女のものではない」
「………」
「全て、主の所有物です」
彼女は主に可愛がられているかもしれない。師弟関係を結んで長いかもしれない。だがこの本丸において彼女はまだ、何でもない存在だ。審神者になるための能力を有していようとも、何を思い、何を考えようとも、彼女はここで権限も力も持たない。ただ主に許されてここにいることが出来る。
弱くとも、それが分からない人間でも無いらしい。彼女に諦められ、俺の手もぱたんと落ちた。
唇を噛みしめた彼女を、俺は急に叱りつけたくなった。貴女がこれから審神者になると言うのなら、俺が傷ついたくらいで、そう心揺らしてはいけないでしょう。真の主ならば、こういう場面であくまで気丈に振る舞い、今も重傷者の手入れを行っている。
「貴女はもう少し、血や傷に慣れてください」
どうして、俺が彼女を励まさなくてはいけないのだ。そう思いながらも、俺の切れた唇はそんな風に動いていた。