五、
長谷部さん長谷部さん。庭の奥で沈丁花が咲いていましたよと、ずいぶん嬉しそうに耳打ちされた。言われて、俺はがまとっているのがその、沈丁花の香りかと気がついた。しばらくその花の前にいたり、鼻を近づけたりしていたんだろう。大方、仕事を少し忘れて。
主に対する怠慢に俺は呆れつつ言う。それがなんですか、と。
「お師匠様は沈丁花がお好きなんです。ご実家の近くにも立派な株がありまして。あの香りが私もお師匠様も大好きで、毎年咲く度に見に行きました。何遍も」
「へえ」
瞬間、連れ立つ主とが俺の目に浮かんだ。主の美しい背と、の小さく丸い肩が並んで沈丁花の株に誘われている。
きっと花の前でもこのは落ち着きがないのだろうなと思う。は、咲き誇ったツツジや白粉花を見つければはしゃいで駆け寄り蜜を吸うような子供だった。
「だからぜひ、連れていってあげてください。お師匠様、喜ばれますよ」
近頃のと言えばいつもこうだった。長谷部さん長谷部さんと俺を呼びつけ、なんでもない話をしたかと思えば最後には俺に教えるのだ。主に気に入られる術を。
主の好きなもの、主の気にする事柄、主の癖。主の考え方や、そう考えるようになった過去の出来事まで。そしてそれを踏まえてどう振る舞うべきか。いかにすれば主が喜ぶのか。つぶさに俺に耳打ちしては、はまた嬉しそうに笑むのだった。
彼女は楽しそうに嬉しそうに俺に逐一報告をくれるのだが、俺はその耳打ちを喜べないでいる。
わたしは長谷部さんの役に立った、とでも思っているのだろうか。彼女が俺を立てようとする度に、俺は彼女の笑顔を不快に思うようになっていた。
「なぜそれを俺に教えるんですか」
「え?」
「それを教えて何になるんです」
「何って……。知っていた方がお得じゃないですか」
俺がなぜ疑問を抱くのも分からないとでも言いたげに、はきょとんとしている。
主はにもう少し優しくせよとおっしゃった。
だが思うに、冷たくしても彼女はしょげたり、へそを曲げたりなんてしない。だって彼女に俺に対する期待なんて欠片も無いからだ。この少女は俺に何も求めていない。社交辞令の優しささえ。
最初から、そうだった。
彼女はいつだって喜びのまま悲しみのままに俺へ接してきた。俺を好いているのには間違いない。なのに、見返りを求められたことは一度も無かった。俺から何を得ようとも思っていないのだ。
「お得って、長谷部さんも思いませんか?」
「……、もういい」
「え、そうですか」
分からず屋の彼女に突き放して歩き出す。背を向けた俺。は当然のように追ってこないで、ただ「沈丁花、お師匠様に見せてあげてくださいね」と言葉のみをよこした。
は何も変わっていない。彼女は徹底的だ。
俺に余計すぎる世話を焼くようになったのは最近のことでも、彼女の接し方、行動に矛盾して俺を突き放すその態度は何も変わっていない。
彼女は俺が一番だと言った。だがどう一番なのかは言わなかった。
ただ俺を見つければ近寄り、見上げては去ってゆく。このひとを俺はなんと呼べば良いのだろう。
胸が重たくなる。の卑怯なやり方に気づかなければ良かった。
一言、わがままを何か言ってくれれば主命の次にではあるが彼女の願いを叶えるくらいの気概、俺にもあるのだ。空しい。俺のような性質の男にとっては、何も求められない事が一番俺の身動きを奪う方法だ。何をすべきか、俺が彼女にとってどんな存在であるべきか分からない。だからいつまでたっても俺はが苦手なままなのだ。
長谷部さん長谷部さん。庭の奥で沈丁花が咲いていましたよと、ずいぶん嬉しそうに耳打ちされた。言われて、俺はがまとっているのがその、沈丁花の香りかと気がついた。しばらくその花の前にいたり、鼻を近づけたりしていたんだろう。大方、仕事を少し忘れて。
主に対する怠慢に俺は呆れつつ言う。それがなんですか、と。
「お師匠様は沈丁花がお好きなんです。ご実家の近くにも立派な株がありまして。あの香りが私もお師匠様も大好きで、毎年咲く度に見に行きました。何遍も」
「へえ」
瞬間、連れ立つ主とが俺の目に浮かんだ。主の美しい背と、の小さく丸い肩が並んで沈丁花の株に誘われている。
きっと花の前でもこのは落ち着きがないのだろうなと思う。は、咲き誇ったツツジや白粉花を見つければはしゃいで駆け寄り蜜を吸うような子供だった。
「だからぜひ、連れていってあげてください。お師匠様、喜ばれますよ」
近頃のと言えばいつもこうだった。長谷部さん長谷部さんと俺を呼びつけ、なんでもない話をしたかと思えば最後には俺に教えるのだ。主に気に入られる術を。
主の好きなもの、主の気にする事柄、主の癖。主の考え方や、そう考えるようになった過去の出来事まで。そしてそれを踏まえてどう振る舞うべきか。いかにすれば主が喜ぶのか。つぶさに俺に耳打ちしては、はまた嬉しそうに笑むのだった。
彼女は楽しそうに嬉しそうに俺に逐一報告をくれるのだが、俺はその耳打ちを喜べないでいる。
わたしは長谷部さんの役に立った、とでも思っているのだろうか。彼女が俺を立てようとする度に、俺は彼女の笑顔を不快に思うようになっていた。
「なぜそれを俺に教えるんですか」
「え?」
「それを教えて何になるんです」
「何って……。知っていた方がお得じゃないですか」
俺がなぜ疑問を抱くのも分からないとでも言いたげに、はきょとんとしている。
主はにもう少し優しくせよとおっしゃった。
だが思うに、冷たくしても彼女はしょげたり、へそを曲げたりなんてしない。だって彼女に俺に対する期待なんて欠片も無いからだ。この少女は俺に何も求めていない。社交辞令の優しささえ。
最初から、そうだった。
彼女はいつだって喜びのまま悲しみのままに俺へ接してきた。俺を好いているのには間違いない。なのに、見返りを求められたことは一度も無かった。俺から何を得ようとも思っていないのだ。
「お得って、長谷部さんも思いませんか?」
「……、もういい」
「え、そうですか」
分からず屋の彼女に突き放して歩き出す。背を向けた俺。は当然のように追ってこないで、ただ「沈丁花、お師匠様に見せてあげてくださいね」と言葉のみをよこした。
は何も変わっていない。彼女は徹底的だ。
俺に余計すぎる世話を焼くようになったのは最近のことでも、彼女の接し方、行動に矛盾して俺を突き放すその態度は何も変わっていない。
彼女は俺が一番だと言った。だがどう一番なのかは言わなかった。
ただ俺を見つければ近寄り、見上げては去ってゆく。このひとを俺はなんと呼べば良いのだろう。
胸が重たくなる。の卑怯なやり方に気づかなければ良かった。
一言、わがままを何か言ってくれれば主命の次にではあるが彼女の願いを叶えるくらいの気概、俺にもあるのだ。空しい。俺のような性質の男にとっては、何も求められない事が一番俺の身動きを奪う方法だ。何をすべきか、俺が彼女にとってどんな存在であるべきか分からない。だからいつまでたっても俺はが苦手なままなのだ。