七、
長谷部さん長谷部さん。彼女の声でそう呼ばれることは無い。彼女は今本丸にいないからだ。主によると上から、つまり政府からの呼び出しだと仰っていた。
いつ帰るのでしょうと聞いてみたが、主は首を縦にも横にも振らなかった。
複数の刀剣男士に、主となる審神者が一人。唯一の人間と、その他大勢の人ならざるものの領域。今の状態が本丸のあるべき姿だというのに、俺は屋敷の様子に違和感を覚えていた。
いつの間にか俺は、彼女から長谷部さん長谷部さんと呼び止められ、そこで無駄話する加味して行動を組み立てている。その自覚はあった。実際、どこにいても呼びとめられることの無い生活は何もかもが滞りなく進むのだ。ふと、理由無く立ち止まり、時を持て余すほどに。
「遅い。長谷部にしては」
俺を呼び出した主も、今は場所を譲ることなく、在るべき場所に鎮座し、指揮をとるのだった。
「緩んでるな。気を引き締めてくれ。急ぎの用だったらどうするんだ」
「申し訳ありません……」
主のため息が俺に突き刺さる。先ほど、静けさに目眩を覚えていた自分が恥ずかしく、畳に頭をすり付けた。
「長谷部、お前今、手空いてるよな。空いているはずだ。おまえ、の部屋を片づけてくれないか」
「片づけというのは」
「がここを出ていくことになったんだ。正式にね」
を贔屓にしていた主とは思えないくらい、その声は冷たく素早く部屋を走った。
「どうやらには荷物をまとめる時間すら無いようでな。こっちで荷を作って、それを取りに来るのでいっぱいいっぱいのようだよ。全く……。
衣類は私がやる。ほら、一応女の部屋だから。本当は女の私が全部やってやるのが良いんだろうが、ここは男ばかりだからなぁ。だからといって私ひとり、の部屋にかかりっきりになれやしないからね。衣類以外は長谷部、お前にやらせることにした。なるべく今日中に頼むよ。いつが荷を取りに来ても良いようにしておきたいんだ。取りに来られるかも私は知らないがね」
の部屋を俺は見たことが無かった。どのあたりに位置するか程度のことは知っていたが、俺から彼女を訪ねたことが無い。訪ねるどころか自主的に近寄ったりもしないで、彼女が部屋から出入りするところも、隙間から生活の様子を覗いたことも勿論無かった。
主に教えてもらいたどり着いた奥の部屋。入ってみると畳の匂いに混じって懐かしい香りがした。彼女が頬を赤くした時、特にむんと匂い立つそれがかすかに残っている。
色の薄い畳の上に、すぐに目に入ったのは小さな引き出し付きの化粧台だった。それから窓際のこぢんまりとした机。開花を期待したのか硬いつぼみの枝を差した花瓶、揃えて置いてある数冊の本だ。
物は少ない。自分の任を思えばそれ自体は好ましい。が、彼女が年頃の女子であることを思えば、もの悲しくなった。
部屋を覗くことで、俺は彼女が身を寄せる世界の狭さを覗いてしまったようだった。物の少なさはを構成する要素の少なさに思えた。
あえて清貧であるように維持されたのでは無く、なるべくしてなってしまった、寂しい部屋。相対するように感情豊かな彼女だ。きっとは少ないものに多くの心をかけていたんだな。そう思えた。例えば主。例えば、俺。
何を、というのが言葉に出来ないが、もっと欲しくなって、化粧台の引き出しを開ける。一段目には小さな鋏、裁縫道具、筆記具が一組横たえてある。二段目には文箱が入っていた。開けると封筒や一筆箋などが一式入っている。その間に、ふたつに折り畳まれた幾枚の紙を見つける。開くと、罫線にならい文字が置いてあった。
正直なことを言うと、俺は期待を抱いてこの部屋に入った。あののことだから、俺へ手紙のひとつくらい書いたことがあるのでは無いか、いや書いたに決まっている。彼女は掴めない部分はあるが、そうひねた人間では無い。
紙を開くと、宛先は見事にへし切長谷部様、だった。
“へし切長谷部様
いつも貴方のことは長谷部さん、長谷部さんと呼んでいましたが、こうして手紙を書こうと思うと貴方の名、そのすべてを書かずにいられませんね。
へし切長谷部様。わたしは毎日のように貴方様に話しかけずにはいられませんでした。それでも貴方に言いたいこと、言っていないことがわたしには様々あります。だから筆をとりました。
わたしは貴方を身勝手なわがままで振り回してばかりです。今まで事実を伏せ、貴方に接してきたのも、今知ってもらいたいという思いで文をしたためているのも、どちらもわたしのわがままです。
すみません、話が見えませんよね。でも思えば、貴方がこの本丸に顕現したのもわたしのわがままからでした。
へし切長谷部様。貴方には不思議だったのでは無いでしょうか。わたしが貴方ばかりを特別扱いすることが。
なぜわたしが貴方にあんなにもつきまとったかと言えば、それは貴方を顕現させたのがわたしだからです。
もちろん、この本丸での主は審神者であるお師匠様です。貴方が主として仕えるべきは、わたしのお師匠様です。ですが、貴方を鍛刀しここへと呼び寄せたのはわたし、でした。
その日、お師匠様はわたしが鍛刀部屋に入ることを許してくださったのです。それはもちろんわたしへの、審神者としての能力を確かめる意味で行われました。わたしは今よりも更に未熟者で、その自覚もありました。最初はご遠慮申し上げたのですが、お師匠様は政府よりわたしが早く使いものになるよう政府からの要請を受けていましたし、お師匠様も、憧れ疼くわたしの気持ちを汲んでくださったのでしょう。お師匠様に見守られ、わたしは初めて刀剣を鍛えました。そうして現れたのが貴方でした。
自分の能力がちゃんと使えるものであった、という感動ももちろんでしたがそれよりも、顕現した貴方がなんてすてきな神様なのだろうと。貴方を見た瞬間、今絶対に、わたしの世界が変わったと確信したくらいです。だからわたしは貴方が愛しかったのです。あの本丸で刀剣男士は数多くいますが、わたしの力によって目の前に現れてくださった神様はへし切長谷部様、貴方のみです。だから、何があっても、貴方がわたしの一番でした。貴方に出会えてよかった。
わたしもいずれ審神者になるでしょう。その時はまた、貴方の魂に出会いたい。そしたら貴方はわたしを主と”
そこから後ろへと続く文字は無かった。
長谷部さん長谷部さん。彼女の声でそう呼ばれることは無い。彼女は今本丸にいないからだ。主によると上から、つまり政府からの呼び出しだと仰っていた。
いつ帰るのでしょうと聞いてみたが、主は首を縦にも横にも振らなかった。
複数の刀剣男士に、主となる審神者が一人。唯一の人間と、その他大勢の人ならざるものの領域。今の状態が本丸のあるべき姿だというのに、俺は屋敷の様子に違和感を覚えていた。
いつの間にか俺は、彼女から長谷部さん長谷部さんと呼び止められ、そこで無駄話する加味して行動を組み立てている。その自覚はあった。実際、どこにいても呼びとめられることの無い生活は何もかもが滞りなく進むのだ。ふと、理由無く立ち止まり、時を持て余すほどに。
「遅い。長谷部にしては」
俺を呼び出した主も、今は場所を譲ることなく、在るべき場所に鎮座し、指揮をとるのだった。
「緩んでるな。気を引き締めてくれ。急ぎの用だったらどうするんだ」
「申し訳ありません……」
主のため息が俺に突き刺さる。先ほど、静けさに目眩を覚えていた自分が恥ずかしく、畳に頭をすり付けた。
「長谷部、お前今、手空いてるよな。空いているはずだ。おまえ、の部屋を片づけてくれないか」
「片づけというのは」
「がここを出ていくことになったんだ。正式にね」
を贔屓にしていた主とは思えないくらい、その声は冷たく素早く部屋を走った。
「どうやらには荷物をまとめる時間すら無いようでな。こっちで荷を作って、それを取りに来るのでいっぱいいっぱいのようだよ。全く……。
衣類は私がやる。ほら、一応女の部屋だから。本当は女の私が全部やってやるのが良いんだろうが、ここは男ばかりだからなぁ。だからといって私ひとり、の部屋にかかりっきりになれやしないからね。衣類以外は長谷部、お前にやらせることにした。なるべく今日中に頼むよ。いつが荷を取りに来ても良いようにしておきたいんだ。取りに来られるかも私は知らないがね」
の部屋を俺は見たことが無かった。どのあたりに位置するか程度のことは知っていたが、俺から彼女を訪ねたことが無い。訪ねるどころか自主的に近寄ったりもしないで、彼女が部屋から出入りするところも、隙間から生活の様子を覗いたことも勿論無かった。
主に教えてもらいたどり着いた奥の部屋。入ってみると畳の匂いに混じって懐かしい香りがした。彼女が頬を赤くした時、特にむんと匂い立つそれがかすかに残っている。
色の薄い畳の上に、すぐに目に入ったのは小さな引き出し付きの化粧台だった。それから窓際のこぢんまりとした机。開花を期待したのか硬いつぼみの枝を差した花瓶、揃えて置いてある数冊の本だ。
物は少ない。自分の任を思えばそれ自体は好ましい。が、彼女が年頃の女子であることを思えば、もの悲しくなった。
部屋を覗くことで、俺は彼女が身を寄せる世界の狭さを覗いてしまったようだった。物の少なさはを構成する要素の少なさに思えた。
あえて清貧であるように維持されたのでは無く、なるべくしてなってしまった、寂しい部屋。相対するように感情豊かな彼女だ。きっとは少ないものに多くの心をかけていたんだな。そう思えた。例えば主。例えば、俺。
何を、というのが言葉に出来ないが、もっと欲しくなって、化粧台の引き出しを開ける。一段目には小さな鋏、裁縫道具、筆記具が一組横たえてある。二段目には文箱が入っていた。開けると封筒や一筆箋などが一式入っている。その間に、ふたつに折り畳まれた幾枚の紙を見つける。開くと、罫線にならい文字が置いてあった。
正直なことを言うと、俺は期待を抱いてこの部屋に入った。あののことだから、俺へ手紙のひとつくらい書いたことがあるのでは無いか、いや書いたに決まっている。彼女は掴めない部分はあるが、そうひねた人間では無い。
紙を開くと、宛先は見事にへし切長谷部様、だった。
“へし切長谷部様
いつも貴方のことは長谷部さん、長谷部さんと呼んでいましたが、こうして手紙を書こうと思うと貴方の名、そのすべてを書かずにいられませんね。
へし切長谷部様。わたしは毎日のように貴方様に話しかけずにはいられませんでした。それでも貴方に言いたいこと、言っていないことがわたしには様々あります。だから筆をとりました。
わたしは貴方を身勝手なわがままで振り回してばかりです。今まで事実を伏せ、貴方に接してきたのも、今知ってもらいたいという思いで文をしたためているのも、どちらもわたしのわがままです。
すみません、話が見えませんよね。でも思えば、貴方がこの本丸に顕現したのもわたしのわがままからでした。
へし切長谷部様。貴方には不思議だったのでは無いでしょうか。わたしが貴方ばかりを特別扱いすることが。
なぜわたしが貴方にあんなにもつきまとったかと言えば、それは貴方を顕現させたのがわたしだからです。
もちろん、この本丸での主は審神者であるお師匠様です。貴方が主として仕えるべきは、わたしのお師匠様です。ですが、貴方を鍛刀しここへと呼び寄せたのはわたし、でした。
その日、お師匠様はわたしが鍛刀部屋に入ることを許してくださったのです。それはもちろんわたしへの、審神者としての能力を確かめる意味で行われました。わたしは今よりも更に未熟者で、その自覚もありました。最初はご遠慮申し上げたのですが、お師匠様は政府よりわたしが早く使いものになるよう政府からの要請を受けていましたし、お師匠様も、憧れ疼くわたしの気持ちを汲んでくださったのでしょう。お師匠様に見守られ、わたしは初めて刀剣を鍛えました。そうして現れたのが貴方でした。
自分の能力がちゃんと使えるものであった、という感動ももちろんでしたがそれよりも、顕現した貴方がなんてすてきな神様なのだろうと。貴方を見た瞬間、今絶対に、わたしの世界が変わったと確信したくらいです。だからわたしは貴方が愛しかったのです。あの本丸で刀剣男士は数多くいますが、わたしの力によって目の前に現れてくださった神様はへし切長谷部様、貴方のみです。だから、何があっても、貴方がわたしの一番でした。貴方に出会えてよかった。
わたしもいずれ審神者になるでしょう。その時はまた、貴方の魂に出会いたい。そしたら貴方はわたしを主と”
そこから後ろへと続く文字は無かった。