八、
「あれは過去の私だから」。そう言った主の言葉が急に思い返される。主にもあったのだろうか。呼び寄せた刀剣男士と関係を紡ぎ損ねたことが。いいやそれとも、初めて呼び寄せた刀剣男士をどうしても特別に思った経験のことを、言ったのだろうか。
いずれ審神者になり、その時彼女はまた俺を顕現させたいと手紙で漏らした。その言葉を思い返すと頭が痛い。それは俺じゃないだろう、と。
もし俺が彼女が主となった本丸に現れたとして、は変わらず長谷部さん長谷部さんと俺を呼ぶんだろう。だが新たな俺は、何も知らずに「主」とを慕うだろう。愚かしい。だが俺の性質ならば必ずそうなる。自分のことだから嫌というほど分かるのだ。
頭が痛ければ、胸も痛かった。へ何の疑問も抱くこと無く主として忠誠を誓えるのがなぜ俺では無いのだろうか。
の荷物をまとめるという仕事を俺は即日完了させた。家具や箱から引き抜いてしまえばの持ち物は、簡単にひとつの包みに収まった。
いつとりに来るかも分からないから、という主の命で荷物はそのままの部屋で眠らせた。
七日経っても、十日経っても、その荷は部屋の中から動くことはなく、俺の仕事の成果をは見てくれない。
まだ、まだ取りに来ない。持ち主の帰らない部屋で荷はかすかな埃をかぶっていた。それをはたいた次の、早朝だった。
朝日が差し込む、冷たい朝だった。体が予感を覚えたのか。はっといつもより早く目が覚めて、寝起きに関わらず体はすっきりとよく動き、不思議な心地のまま本丸を出歩くと、中庭を挟んだ廊下を歩くを見つけたのだ。
しばらくぶりに本丸に現れた彼女は黒い一色の洋装だった。ぐったりと重そうな黒のワンピースは、一瞬喪服に見えた。彼女は早足で、まっすぐに主の部屋に入っていった。
なぜだか俺は足音を殺して彼女を追った。
「お師匠様。事後報告になってしまい、申し訳ありません。あんなにもお世話になったのに……」
ふすま越しに、の声が聞こえる。は、いつもより堅い口調で主に一通りことの次第を報告しているようだった。
「わたしも本丸を設けることになりました。お師匠様が仰っていた、あの地方です。初期刀も。無事にいただきました」
淡々とは現状を主へと伝える。対して主は、なんとも奥深い声で相づちを打つ。「そうか、そうか」と。冷たい朝を暖めるように、娘のように連れ沿ったの一人立ちを惜しむように。
主は相づちばかりで、に対してはほとんど何も言わなかった。今まで連絡が無かったことに対する非難も、彼女の行く末に口を出す様子も無く、主はの言葉を受け入れた。
ついにも「大変お世話になりました」との別れの言葉を伝えたのだった。
「ああ、そうだ。」
「はい」
「おまえの荷をひとまとめにしておいた。部屋に置いてあるから、見ておいで。いらなければ、それで良いが……」
「いえ。ありがとうございます、お師匠様」
黒服姿の彼女は、早朝ほ本丸を音も無く歩く。それをやはり俺は足音を殺して追った。
角の向こうですうっと障子を引く音が聞こえた。部屋に入ったのだ。けれど彼女はすぐに部屋から出てこない。
彼女の部屋へと近づくと、室内で彼女が立てる音が聞こえてきた。何かを探しているようだった。
引き出しががたがたと揺れる音。箱を開け閉めする音。それからややあって、は部屋を出た。荷は持っていなかった。
衣服や道具やら、彼女は全てをここへ置いていくのか思えば、庭から火のたつ匂いがした。死にかけの吐息みたな、か細い煙が空へ上がっていく。
カッと頭に昇ったのは怒りだった。
「ははっ」
何を燃しているのかは見当がつく。俺が盗み見たあの手紙だ。ああは、結局何も言ってくれないんだ。
彼女は俺に何も求めない。何もかも許さない。俺との本当の関係を教えない。戸惑い悩むことさえ求めない。主と、俺と、と。俺を生み出した主と、仕えるべき主との合間でやり直せない関係に、苦しむことを許さない。
何も教えず俺を見守り庇護することで、彼女は聖女を気取っている。
俺からを追ったのは初めてのことだった。ましてやその体に触れたのは、俺の血塗れの頬に触れてきた、俺のために勝手をしようとして制止した、あの時以来だった。
火を扱った手を掴みあげる。これまで作り上げられた関係の中にあった触れ合いに比べれば、激しいものだった。
「……、びっくりしました。どうしたんです、長谷部さん」
驚きながらも俺への感情が薄れた顔。今までのようには笑ってはくれない。本丸から俺から離れた彼女はこれからこんな顔をして生きていくのかと思うとたまらなかった。
全てを隠して行くつもりの彼女から、口火を切る事は無い。炭になった真実の、煤けた匂いが鼻を突いた。
「……俺に必要なのは、俺の働きを正しく認めてくれる人間です」
「はい、その通りですね、長谷部さん」
途端に滲み出す優しさ。ああその目は、このひとに宿る感情は、恋慕じゃなかったんだな。長谷部さん長谷部さんと呼んだ声の正体を俺はもう知ってしまった。この少女は、俺が一番だと言ったが、俺に恋なんかしていないのだ。
彼女が雛鳥だなんて、なんて馬鹿馬鹿しい例えだろうか。今の俺をここにいさせたのは彼女だった。あの主が俺が仕えるべき人であると、ひよこのように刷り込まれたのは俺の方だったのだ。
「長谷部さん、どうかお師匠様に末永く仕えてください。お師匠様は素晴らしいひとで、長谷部さんのこと決して見捨てたりはしません。長谷部さんがお師匠様の近くにいてくださること、わたし、とっても嬉しいです」
貴方は、主は信頼できる人間だから、俺をここに置いていくのか。一瞬、主が嫌な人間なら彼女は俺を連れ立ったのだろうかと考えてしまい、自己を嫌悪した。
「貴方は」
「わたしもまだまだここにいたい気持ちがありますが、行かねばなりません」
「いつですか」
「もう、すぐに」
が去ろうとする。この状況で俺に出来ることは無いに等しかった。
主を裏切ることは出来ない。その性質を読みとり事実を伏せたを、憎むことももう出来ない。に呼ばれ、生まれたのが俺であったことを、過ちと呼ぶ他無いのだろうか。
「長谷部さん?」
俺は掴みあげていた手首を優しく握り直した。握るというのもおこがましい。尊いもののように手を添えた。
彼女は間もなくこう告げるだろう。長谷部さん、さようなら。
膝をつき、指先に唇を寄せた俺が何をしていたのかと言えば、俺の真似だった。
貴女がもし審神者であったなら。俺が一番に貴女に呼ばれたのだと気づいていたのなら、俺はこうして彼女に触れていたのだ。
いつか、彼女に仕える俺。彼女の主命を待ちわびる俺。彼女の願いのため命を捧げることもいとわない俺に、俺はなりきった。
そしてまた彼女に、彼女の本丸できっと愛されるであろうへし切長谷部になれるよう、願って、一度目を閉じ、それから仰ぐように強くまなざしを向けた。
でも結局、俺は彼女に何も言えなかった。
が告げる。
「長谷部さん、さようなら」
関係を間違えなかった俺になりきれば、今の主に仕える身が言わせてくれない言葉の数々を伝えられるかと思ったが、見当違いだった。
結局、そういう男なのだ。へし切長谷部という男は。
おしまい
「あれは過去の私だから」。そう言った主の言葉が急に思い返される。主にもあったのだろうか。呼び寄せた刀剣男士と関係を紡ぎ損ねたことが。いいやそれとも、初めて呼び寄せた刀剣男士をどうしても特別に思った経験のことを、言ったのだろうか。
いずれ審神者になり、その時彼女はまた俺を顕現させたいと手紙で漏らした。その言葉を思い返すと頭が痛い。それは俺じゃないだろう、と。
もし俺が彼女が主となった本丸に現れたとして、は変わらず長谷部さん長谷部さんと俺を呼ぶんだろう。だが新たな俺は、何も知らずに「主」とを慕うだろう。愚かしい。だが俺の性質ならば必ずそうなる。自分のことだから嫌というほど分かるのだ。
頭が痛ければ、胸も痛かった。へ何の疑問も抱くこと無く主として忠誠を誓えるのがなぜ俺では無いのだろうか。
の荷物をまとめるという仕事を俺は即日完了させた。家具や箱から引き抜いてしまえばの持ち物は、簡単にひとつの包みに収まった。
いつとりに来るかも分からないから、という主の命で荷物はそのままの部屋で眠らせた。
七日経っても、十日経っても、その荷は部屋の中から動くことはなく、俺の仕事の成果をは見てくれない。
まだ、まだ取りに来ない。持ち主の帰らない部屋で荷はかすかな埃をかぶっていた。それをはたいた次の、早朝だった。
朝日が差し込む、冷たい朝だった。体が予感を覚えたのか。はっといつもより早く目が覚めて、寝起きに関わらず体はすっきりとよく動き、不思議な心地のまま本丸を出歩くと、中庭を挟んだ廊下を歩くを見つけたのだ。
しばらくぶりに本丸に現れた彼女は黒い一色の洋装だった。ぐったりと重そうな黒のワンピースは、一瞬喪服に見えた。彼女は早足で、まっすぐに主の部屋に入っていった。
なぜだか俺は足音を殺して彼女を追った。
「お師匠様。事後報告になってしまい、申し訳ありません。あんなにもお世話になったのに……」
ふすま越しに、の声が聞こえる。は、いつもより堅い口調で主に一通りことの次第を報告しているようだった。
「わたしも本丸を設けることになりました。お師匠様が仰っていた、あの地方です。初期刀も。無事にいただきました」
淡々とは現状を主へと伝える。対して主は、なんとも奥深い声で相づちを打つ。「そうか、そうか」と。冷たい朝を暖めるように、娘のように連れ沿ったの一人立ちを惜しむように。
主は相づちばかりで、に対してはほとんど何も言わなかった。今まで連絡が無かったことに対する非難も、彼女の行く末に口を出す様子も無く、主はの言葉を受け入れた。
ついにも「大変お世話になりました」との別れの言葉を伝えたのだった。
「ああ、そうだ。」
「はい」
「おまえの荷をひとまとめにしておいた。部屋に置いてあるから、見ておいで。いらなければ、それで良いが……」
「いえ。ありがとうございます、お師匠様」
黒服姿の彼女は、早朝ほ本丸を音も無く歩く。それをやはり俺は足音を殺して追った。
角の向こうですうっと障子を引く音が聞こえた。部屋に入ったのだ。けれど彼女はすぐに部屋から出てこない。
彼女の部屋へと近づくと、室内で彼女が立てる音が聞こえてきた。何かを探しているようだった。
引き出しががたがたと揺れる音。箱を開け閉めする音。それからややあって、は部屋を出た。荷は持っていなかった。
衣服や道具やら、彼女は全てをここへ置いていくのか思えば、庭から火のたつ匂いがした。死にかけの吐息みたな、か細い煙が空へ上がっていく。
カッと頭に昇ったのは怒りだった。
「ははっ」
何を燃しているのかは見当がつく。俺が盗み見たあの手紙だ。ああは、結局何も言ってくれないんだ。
彼女は俺に何も求めない。何もかも許さない。俺との本当の関係を教えない。戸惑い悩むことさえ求めない。主と、俺と、と。俺を生み出した主と、仕えるべき主との合間でやり直せない関係に、苦しむことを許さない。
何も教えず俺を見守り庇護することで、彼女は聖女を気取っている。
俺からを追ったのは初めてのことだった。ましてやその体に触れたのは、俺の血塗れの頬に触れてきた、俺のために勝手をしようとして制止した、あの時以来だった。
火を扱った手を掴みあげる。これまで作り上げられた関係の中にあった触れ合いに比べれば、激しいものだった。
「……、びっくりしました。どうしたんです、長谷部さん」
驚きながらも俺への感情が薄れた顔。今までのようには笑ってはくれない。本丸から俺から離れた彼女はこれからこんな顔をして生きていくのかと思うとたまらなかった。
全てを隠して行くつもりの彼女から、口火を切る事は無い。炭になった真実の、煤けた匂いが鼻を突いた。
「……俺に必要なのは、俺の働きを正しく認めてくれる人間です」
「はい、その通りですね、長谷部さん」
途端に滲み出す優しさ。ああその目は、このひとに宿る感情は、恋慕じゃなかったんだな。長谷部さん長谷部さんと呼んだ声の正体を俺はもう知ってしまった。この少女は、俺が一番だと言ったが、俺に恋なんかしていないのだ。
彼女が雛鳥だなんて、なんて馬鹿馬鹿しい例えだろうか。今の俺をここにいさせたのは彼女だった。あの主が俺が仕えるべき人であると、ひよこのように刷り込まれたのは俺の方だったのだ。
「長谷部さん、どうかお師匠様に末永く仕えてください。お師匠様は素晴らしいひとで、長谷部さんのこと決して見捨てたりはしません。長谷部さんがお師匠様の近くにいてくださること、わたし、とっても嬉しいです」
貴方は、主は信頼できる人間だから、俺をここに置いていくのか。一瞬、主が嫌な人間なら彼女は俺を連れ立ったのだろうかと考えてしまい、自己を嫌悪した。
「貴方は」
「わたしもまだまだここにいたい気持ちがありますが、行かねばなりません」
「いつですか」
「もう、すぐに」
が去ろうとする。この状況で俺に出来ることは無いに等しかった。
主を裏切ることは出来ない。その性質を読みとり事実を伏せたを、憎むことももう出来ない。に呼ばれ、生まれたのが俺であったことを、過ちと呼ぶ他無いのだろうか。
「長谷部さん?」
俺は掴みあげていた手首を優しく握り直した。握るというのもおこがましい。尊いもののように手を添えた。
彼女は間もなくこう告げるだろう。長谷部さん、さようなら。
膝をつき、指先に唇を寄せた俺が何をしていたのかと言えば、俺の真似だった。
貴女がもし審神者であったなら。俺が一番に貴女に呼ばれたのだと気づいていたのなら、俺はこうして彼女に触れていたのだ。
いつか、彼女に仕える俺。彼女の主命を待ちわびる俺。彼女の願いのため命を捧げることもいとわない俺に、俺はなりきった。
そしてまた彼女に、彼女の本丸できっと愛されるであろうへし切長谷部になれるよう、願って、一度目を閉じ、それから仰ぐように強くまなざしを向けた。
でも結局、俺は彼女に何も言えなかった。
が告げる。
「長谷部さん、さようなら」
関係を間違えなかった俺になりきれば、今の主に仕える身が言わせてくれない言葉の数々を伝えられるかと思ったが、見当違いだった。
結局、そういう男なのだ。へし切長谷部という男は。
おしまい