※完結後、出ていったさんがそのまま死んでしまったら、というif編です。
※別に誰も報われないし、しっかりめのバッドエンドしてます
※お師匠様さんがやや狂います
以上ご注意お願いいたします。
「さようなら、長谷部さん」
彼女の別れを告げる眼差しの上で、さらさらと滑っていた前髪を覚えている。俺を突き放す表情から逃げたくて、けれど彼女から目を離すことができなかった。だから俺に、彼女の前髪の、流れる様が残り続けているのだろう。
多くの刀剣に、たった一人の主となる審神者。本丸が元来あるべき姿を取り戻した、俺が異物と感じていた人間がいなくなって。
の去った後、今まで通りに過ごす俺が、薄情ものと呼ばれたのは心外だった。
本丸があるべき姿を取り戻した。俺も同じように、主のために働くことを願い、それを力有る限り全うする、あるべき刀剣男士の姿を取り戻そうとしただけだった。
「あんなに懐かれてたのに、寂しくともなんとも無いんですか?」
そう言ったのは鯰尾だった。
のことを忘れたわけでも、彼女を忘れるためにやったことでも無い。むしろこれはの願いを叶えてやっているのだ。
彼女の嘘とともに、彼女の願いをよく覚えている。
『長谷部さん、どうかお師匠様に末永く仕えてください』
言葉とともに目の前で揺れるのはやはり彼女の前髪だ。が身勝手に告げたさようなら。ひとには騙されてばかりですというあどけない顔で、俺を騙していった。騙したという自覚も無いかもしれない。あれは、問いつめたところで答えろと刃を向けたところで、俺をここに残していったことを綺麗な言葉で説明するのだろう。
だから俺は、この身を以て実践することにした。
そうですね、貴女の願いは素晴らしいですね。だからその素晴らしい、彼女のついた嘘で出来上がったこの空間を生きましょう。その中で俺のこの怒りを、積み重ねてやりましょう。そしていつか再会の時には俺の中で濁りきったものをぶちまけて、貴女の望んだものの正体を突きつけてやりましょう。
だから俺は、自らの立ち位置を受け入れると決めたのだ。
俺を包む世界のまま歪んでみせましょう。それがが飛び去った後も続く、俺の生活だった。
ぽん、と梅の花が咲いた音を聞いた時、また、玄関先えしぶとく咲いていた椿の季節がこれで終いになるのだと悟った時だった。
手紙を受け取った主が、急に喪服の用意を俺に言いつけた。
「すまないが、夕方からは本丸を空ける」
「はい」
しまい込んでいた喪服にほつれが無いか確認している俺に、主は投げかけた。
「長谷部、お前も来るか」
「俺が、ですか? 主命であれば、なんなりと」
「いや……。やはり私ひとりで行ってくる。心配いらない。政府の人間もそれなりに集まっているだろうし、知ってる顔が多そうだ。通夜だからな」
そう言って主は笑もうとしたが、顔が強ばってできないようだった。血の気の感じられない、けれど寂しさが痛みとして見える。焦りや動揺を隠すことに長けた主とは思えない様子だったので、俺は主に近しい人物が亡くなったんだろうなとだけ、思っていた。
梅の開花と共に訪れた死。その葬式がのものだったと気づかされたのは、桜が流れ出した季節。主が彼女の写真を飾り、それにしきりに話しかけながら酒を飲んでいたからだ。
桜が綺麗だねとか、私を見ているかいだとか。そんな独り言とは言えない言葉が暗い室内に浮かんでは消え、笑顔の写真に供えられた杯に、透き通る酒が注がれる。
「長谷部」
「………」
「お前もおいで」
全てを悟り、立ち尽くす俺を主は手招きし、座らせた。畳の上でまさか足が滑りそうで、ひざの上に揃えた手は手袋の中じっとりと滑って、俺はどうやら己を失いつつあるらしい。
主は寂しくも艶やかに目を細め、俺にも酒を注いでくれた。
「死者は喉が渇くと言うからね、一緒に飲んでやってくれ」
「………」
「私はずっと、あの子を見守る側だと思っていたのにね。あっと言う間に見守られる側になってしまった。本当には私泣かせの子供だった」
「主」
主へ、混乱の視線を贈る。この世を去ったのは、あの葬式の頃だろう。ならばなぜ、どうして少女とも呼べる齢の彼女が。
「元からそう強い体じゃなかったんだ。体格だって、身振りひとつ見たって、そうだろ。いつも頼りなかった。昔は風邪で何度も高熱を出して、下がった後も後遺症が無いか確認できるまで安心できないような子だった」
「………」
「本当に酷くすると、も"また死が見えました"なんて言っていた」
俺は酷い家臣だ。主が切れた唇から発する、ぼろぼろの声色に胸が痛む。けれど主の様子が可哀想なのでは無く、主の様子がの死が事実であると刻んでくるのが、胸に痛いのだ。
「そんなだから行き急ぐように審神者としてのひとり立ちを望んだのかもしれないね」
「急いでいたんですか、が。俺はてっきり、政府の都合で……」
「私と離れたくない、この本丸にいたいというのも望んでくれていた。けどね、何もできないままは嫌というのが口ぐせで、とうとうその気持ちが全てに勝ったから。だからいなくなってしまったんだ」
「………」
また、前髪が思い返される。あの日の彼女は憎くも、願い事を叶えようともしていた。何かができる自分になろうとしていた、そのために俺を捨て置いた。
「ごめん」
「何がですか」
「黙っていて、ごめん」
謝罪に似合わず、主の眼孔は爛々と光っている。
「そう、ですね。本丸のものは皆を覚えています。思い出もあるはずです。教えてはやらないのですか」
「……私は、大好きだった、が。彼女の能力を使えるものにすること。そのために引き合わされたと分かっていたし、その使命は全うした。愛情はあった。けれど、私は自分で思う以上に愛していたみたいだ」
への愛情を語りだした口振り。次第に不可思議に思っていた爛々とした目の色が、発言とぴったりと重なっていく。
「歪だよ。の喪失さえ、誰にも渡したくないと思うなんて」
主は、俺たちを司る存在として、焦りや動揺を隠すことに長けていた。けれどこのひとは、非常に多くのものを誰も知り及ぶことのできない裏側へ隠していたようだ。
「はいなくなってしまったけれどね、葬式の時、帰ってきたようにも思っていたんだよ、私は。死んでしまえば近くも遠くも無いのだなぁ、なんて。はは……」
「主……」
「だが、存外悪い気分じゃないんだ。どこにもいないけれど、どこにでもいるようで。だから渡したくないなんて考えたのかな」
頭の一部の冷静な部分は、なぜ俺はこのひとによって導きを受けなかったのだろうと考えていた。俺もへの感情を隠して日々を過ごし、薄情とまで言われている。同じようにの存在に惑わされている。
「けどね、長谷部。理性では、長谷部には分け与えなければいけないと思っていた。この痛みを」
「俺に、ですか」
「ああ。遅くなって、ごめん」
のどがきゅうっと絞まった感覚がした。
なぜ主が、を喪失した痛みを俺に分け与えなければならないか。俺を刀剣男士たらしめたのが、この人間じゃなく、未熟な手のひらだからだ。
の嘘がつくりあげた世界で、この本丸で、俺は異物感を抱えながらも働いてきた。主の物だと刷り込まれていた自分に戻りたくて。あわよくば本物に、なりたくて。という存在を揉み消して、楽に生きていたいなんて願いを抱いたりして。
は死んだ。体は消失した。だがが消え去らない。
「お前がが死んだと知るのを、私は望まないけれど、は望むだろうから」
前髪、前髪が姿を現す。主の声で、まざまざと。
長谷部さん、長谷部さん。そう俺を呼ぶ声は、いつの間にかこの世に存在しなくなっていた。
主が分け与えた喪失は、しっかりと俺を捕まえて離してくれない。薄い空の色に幾度となく、の顔が浮かぶ。
の行方を知ったあの夜は、前髪の擦れる音で発狂できそうなくらいにうるさかった。あの前髪は心に残った傷の証だ。俺はずっと、彼女の前髪を思い出しては流れゆく生活の河原に怒りの石を積み上げていた。
けれど、もういないと知った今は、笑顔。笑顔しか思い出せない。笑うとよく目が潤むひとだった。丸い目に張った水は、集められるとすぐこぼれそうになっていた。積み上げた石の意味は無くなってしまった。
彼女が翔(かけ)ていったあとの世界は、今日も俺をぬるく包んでいる。
「長谷部」
「はい」
「来てくれ」
「かしこまりました」
焦りや動揺といった、自分の弱みを隠すことに長けた主は、傍目には変わらず本丸をまとめあげている。
あの夜から変わったのは、主が俺にだけ微かに甘くすることだ。小さな日常の用事には必ず俺を付き合わせる。多くは望まれない。ただ俺を大切に扱い、そこに今日も変わることなく形を残していることを願われる。大好きだった、歪と呼べるほど愛していた、の遺品として。
俺は傍目から見れば、主に従順に働き、それを生き甲斐としている。
主は、その実は俺を介しての残り香を愛でているだけなのだが、少し特別に俺を愛してくださっている。
外面の景色は、とても色良い様子だ。
恐らく、が願った光景は、これなのだ。
「『長谷部さん、どうかお師匠様に末永く仕えてください。お師匠様は長谷部さんのこと決して見捨てたりはしません』……だったか?」
ほら。見れば彼女があてがった幸せのかたちが、実現している。
「ははっ」
彼女が俺に願っていた姿。ずっと前髪しか思い出せなかったけれど、今は、彼女の表情を復元しはじめている。滲みだしていた優しさ。それが恋情で無かったことに、苛立っていた俺のことも。
主が失って気づいたように、俺も少しずつこんがらがっていた感情へ、言葉を見つけつつあった。
いつか再会したら、俺はに積み重ねた泥のような感情を全て、ぶつける気でいた。お前は間違っていた、お前の思いやりぶった行動は、俺をこんな風に変えてしまったと、見せつけるつもりだった。
でも積み重ねたそれを、もう見せるひとはいない。
なぜ俺は再会を信じていたのだろうか。
もう二度と会えないらしい。まだ何も言えていない、この堕ちようとする様を見せられていないのに。
なぜ悠長に、彼女の嘘に合わせ、怒りを腹に溜めていたのだろうか。
もう全て忘れてしまいたいとも思うのに、主の執着が俺の生まれを忘れさせてくれない。彼女が翔ていったあとの世界が、俺をぬるく包んでいる。