十、
長谷部さん、と俺を呼んで引き止めたのは鯰尾だった。それも内番服姿の鯰尾藤四郎だ。他の本丸も対応に追われている検非違使とついに我が隊も遭遇。そして重傷者多数の報せに、馬当番を途中にしながらもすっ飛んで来たのだろう。
『長谷部さん、ちょっとやばいですって……』
鯰尾はだいぶ焦っている様子だ。だが鯰尾の青白い顔色や緊張感よりずっと、こめかみから血が流れ出ている感覚の方が俺の近くにあった。まだ戦の興奮がどくどくと俺を支配していた。
『なんだ、鯰尾』
耳は傾けながら俺は足を止めなかった。とにかく不快感があり、できれば今すぐ水を頭から被りたい気分だった。
社交辞令的に返事をすると、鯰尾が語気を荒げてくる。
『なんだ、じゃないですよ長谷部さん。状況分かってます? 主さん、長谷部さんに荷をまとめさせるって、かんかんです!』
『荷?』
『本丸から追い出されるかもしれないんですよ! っちょっと待ってくださいって長谷部さん!』
主の元に向かえば、確かに刃(やいば)のように鋭い顔つきの主が、部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。
『主、落ち着いてください』
『落ち着いていられるか。酷い損害だ。あの検非違使というやつは全く頭が痛くなるな』
『精鋭部隊でこの有様とは……』
『報告の検非違使と部隊が違うとはいえ、あいつら、こちらの強さを見ているな? その上で的確に練度の違う隊をぶつけてきた。何か、何か対処法はあるはずだが。しかし……』
かんかんですよと鯰尾が言っていたように、怒りの情念が主の背から湧き上がっているのが見えるようだ。その主が吐き捨てるように言う。
『長谷部には呆れた。もう敵わん』
『しかし今回のへし切長谷部の働きで部隊は無事に帰還を……』
『今回は、な。確かにあいつのおかげで皆も部隊も命が助かった。その働きは認めるさ。だがな、もう私には扱いきれない』
『……主』
近侍の呼びかけで主が俺を振り返る。
『聞いていたのか』
はい、と頷くと主は顔を歪め、主は腑を痛めたかのような深いため息を吐いた。
『酷い怪我だな。手伝い札をやる。これを持って手入れ部屋に行ってろ。すぐに向かうから。それと。長谷部、荷をまとめろ』
『主、今、なんと』
『みなまで言わんと分からんのか。お前はもう、私には使いにくくてかなわん』
そして俺は、刀の姿で本丸から連れ出された。もう行く道など無い、俺が歩む道理が無くなってしまった。忠誠は、捧げたのに。「お師匠様によく仕えてくださいね」。の笑い声が残響を残す。
そして、脳天を絶望で殴りつけられた俺を、受け止め、抱え込んだのは、あの少女の小さな身であった。
彼女の手が俺の刀身を鞘にしまい、俺へと差し出した。俺は俺自身を受け取る。手入れは無事に終わっていた。離れていった手は、あの日俺の裾を握っていた手と同じだ。
俺を手入れする間、散々泣いていたは「では」と一言断りを入れるとそそくさと手入れ部屋から出て行き、そのまましばらく部屋に引っ込んでしまった。
目の腫れを引かせるのに時間をかけていたに違いない。夕食の頃になると自然と台所に立っていて、魚を焼くからと短刀たちにうちわを手渡していた。
「」
「長谷部さん」
「俺も何か手伝おう」
たすき掛けした着物から伸びた白い腕、指がぱっぱと水を切る。料理を続けたままで良いのに。彼女はいちいち俺に向き直る。
「無理なさらないでください。本日も出陣お疲れ様でした」
「……俺は軽傷だっただろう」
「でも、本来ならばやっていただかないお仕事をやってくださったんですから。感謝してます。もう、すぐに出来上がりますので、お席に座っていてください」
そして都合の悪い時、はすぐ俺から逃げる。すすす、と台所の奥に行き、棚に顔を突っ込んで、お椀を探しているふりをしている。
「ええと、うーんと……」
白々しい彼女に俺は問いかける。
「明日も、出陣はあるだろうか」
「……ありますよ。今日と同じ合戦場を再び守っていただきたいと思います。浦島くんも場慣れしてきたので、ここで自信をつけさせたいところです」
「なるほどな」
「気持ちに余裕が出れば彼はもっと、生き生きと戦えると思うのですが……。蜂須賀さんもまだ浦島くんが気にかかることが多いようですし」
喋るうちに、お椀を探す手が止まっていて、は棚に顔を嵌めたままの、立派な不審人物になっている。
「いつまで顔を突っ込んでいるつもりだ」
「あはは……、ようやく見つかりました」
木彫りのお椀を両手にみっつずつ取り出して、釜の蓋を開ける。蓋に閉じ込められていた味噌汁の蒸気が上がって俺の鼻をくすぐった。
これを懐かしいと思うのはおかしくない、はずだ。彼女はあの本丸でも、物好きな刀剣たちと台所に立ち、溶け込んで仕事をしていた。
主たるもの軽々しく雑用などするな、というのを彼女の師匠は教えなかったのだろうか。踏ん反り返るのが嫌味なくらい似合っていた師匠を見て、自分もあのように振舞おうと思わなかったのか。
思いもしていないから、今もこうして刀と一緒になって主らしく無く、働いている。
「持って行く」
彼女の手から、味噌汁の乗った盆を取り上げる。「あ、ありがとうございます!」という彼女の声に送られて廊下を歩いた。
広間に揃う、七つの膳に椀を置いていく。確かにほとんど夕餉の準備は済んでいるようだ。彼女の言葉が俺に手伝いをさせない嘘ではなかったのが、俺にとっては返って俺に不貞腐れる理由をくれず、不都合な事実であった。
同じくして焼き魚が運ばれてくる。浦島が軽快に、お膳の上に魚と当たり前のように大根おろしが添えられた平皿を置いて行った。
「浦島は偉いな」
「え? そうかなぁ」
「俺の知る本丸で食事の準備を手伝うのは物好きだけだ」
「俺の知ってる本丸はこれが当たり前だからねー。へへっ」
食事をする席は皆決まっていて、食卓に揃う顔もなんだか見慣れてしまった。
夕飯の献立は、味噌汁と焼き魚と野菜の煮物と漬物と米。それが週のほとんど。
小さな本丸だ。部隊というより、ひとつの家族のようだ。ここには当たり前が揃っている。いちから築き上げて、今や慣れ親しむを超えた当たり前のものごとたちが。
「それでは食べましょうか」
「ああ」
「いっただっきまーす!」
「いただきますっ!」
「はい、いただきます」
に合わせて無言で手を合わせて箸をとる。
あの本丸でも、調理の中心はだった。主にばかり関心を向けていた俺は、が調理していると知っていたからこそ、あの本丸で食べたものを美味しいと思ったことが無かった。不味かったわけではない。関心が無かったのだ。
手のひら返したように目の前の夕餉を褒め称えたりなんてしない。ただ味噌汁は、変わらない味だなぁと思った。
長谷部さん、と俺を呼んで引き止めたのは鯰尾だった。それも内番服姿の鯰尾藤四郎だ。他の本丸も対応に追われている検非違使とついに我が隊も遭遇。そして重傷者多数の報せに、馬当番を途中にしながらもすっ飛んで来たのだろう。
『長谷部さん、ちょっとやばいですって……』
鯰尾はだいぶ焦っている様子だ。だが鯰尾の青白い顔色や緊張感よりずっと、こめかみから血が流れ出ている感覚の方が俺の近くにあった。まだ戦の興奮がどくどくと俺を支配していた。
『なんだ、鯰尾』
耳は傾けながら俺は足を止めなかった。とにかく不快感があり、できれば今すぐ水を頭から被りたい気分だった。
社交辞令的に返事をすると、鯰尾が語気を荒げてくる。
『なんだ、じゃないですよ長谷部さん。状況分かってます? 主さん、長谷部さんに荷をまとめさせるって、かんかんです!』
『荷?』
『本丸から追い出されるかもしれないんですよ! っちょっと待ってくださいって長谷部さん!』
主の元に向かえば、確かに刃(やいば)のように鋭い顔つきの主が、部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。
『主、落ち着いてください』
『落ち着いていられるか。酷い損害だ。あの検非違使というやつは全く頭が痛くなるな』
『精鋭部隊でこの有様とは……』
『報告の検非違使と部隊が違うとはいえ、あいつら、こちらの強さを見ているな? その上で的確に練度の違う隊をぶつけてきた。何か、何か対処法はあるはずだが。しかし……』
かんかんですよと鯰尾が言っていたように、怒りの情念が主の背から湧き上がっているのが見えるようだ。その主が吐き捨てるように言う。
『長谷部には呆れた。もう敵わん』
『しかし今回のへし切長谷部の働きで部隊は無事に帰還を……』
『今回は、な。確かにあいつのおかげで皆も部隊も命が助かった。その働きは認めるさ。だがな、もう私には扱いきれない』
『……主』
近侍の呼びかけで主が俺を振り返る。
『聞いていたのか』
はい、と頷くと主は顔を歪め、主は腑を痛めたかのような深いため息を吐いた。
『酷い怪我だな。手伝い札をやる。これを持って手入れ部屋に行ってろ。すぐに向かうから。それと。長谷部、荷をまとめろ』
『主、今、なんと』
『みなまで言わんと分からんのか。お前はもう、私には使いにくくてかなわん』
そして俺は、刀の姿で本丸から連れ出された。もう行く道など無い、俺が歩む道理が無くなってしまった。忠誠は、捧げたのに。「お師匠様によく仕えてくださいね」。の笑い声が残響を残す。
そして、脳天を絶望で殴りつけられた俺を、受け止め、抱え込んだのは、あの少女の小さな身であった。
彼女の手が俺の刀身を鞘にしまい、俺へと差し出した。俺は俺自身を受け取る。手入れは無事に終わっていた。離れていった手は、あの日俺の裾を握っていた手と同じだ。
俺を手入れする間、散々泣いていたは「では」と一言断りを入れるとそそくさと手入れ部屋から出て行き、そのまましばらく部屋に引っ込んでしまった。
目の腫れを引かせるのに時間をかけていたに違いない。夕食の頃になると自然と台所に立っていて、魚を焼くからと短刀たちにうちわを手渡していた。
「」
「長谷部さん」
「俺も何か手伝おう」
たすき掛けした着物から伸びた白い腕、指がぱっぱと水を切る。料理を続けたままで良いのに。彼女はいちいち俺に向き直る。
「無理なさらないでください。本日も出陣お疲れ様でした」
「……俺は軽傷だっただろう」
「でも、本来ならばやっていただかないお仕事をやってくださったんですから。感謝してます。もう、すぐに出来上がりますので、お席に座っていてください」
そして都合の悪い時、はすぐ俺から逃げる。すすす、と台所の奥に行き、棚に顔を突っ込んで、お椀を探しているふりをしている。
「ええと、うーんと……」
白々しい彼女に俺は問いかける。
「明日も、出陣はあるだろうか」
「……ありますよ。今日と同じ合戦場を再び守っていただきたいと思います。浦島くんも場慣れしてきたので、ここで自信をつけさせたいところです」
「なるほどな」
「気持ちに余裕が出れば彼はもっと、生き生きと戦えると思うのですが……。蜂須賀さんもまだ浦島くんが気にかかることが多いようですし」
喋るうちに、お椀を探す手が止まっていて、は棚に顔を嵌めたままの、立派な不審人物になっている。
「いつまで顔を突っ込んでいるつもりだ」
「あはは……、ようやく見つかりました」
木彫りのお椀を両手にみっつずつ取り出して、釜の蓋を開ける。蓋に閉じ込められていた味噌汁の蒸気が上がって俺の鼻をくすぐった。
これを懐かしいと思うのはおかしくない、はずだ。彼女はあの本丸でも、物好きな刀剣たちと台所に立ち、溶け込んで仕事をしていた。
主たるもの軽々しく雑用などするな、というのを彼女の師匠は教えなかったのだろうか。踏ん反り返るのが嫌味なくらい似合っていた師匠を見て、自分もあのように振舞おうと思わなかったのか。
思いもしていないから、今もこうして刀と一緒になって主らしく無く、働いている。
「持って行く」
彼女の手から、味噌汁の乗った盆を取り上げる。「あ、ありがとうございます!」という彼女の声に送られて廊下を歩いた。
広間に揃う、七つの膳に椀を置いていく。確かにほとんど夕餉の準備は済んでいるようだ。彼女の言葉が俺に手伝いをさせない嘘ではなかったのが、俺にとっては返って俺に不貞腐れる理由をくれず、不都合な事実であった。
同じくして焼き魚が運ばれてくる。浦島が軽快に、お膳の上に魚と当たり前のように大根おろしが添えられた平皿を置いて行った。
「浦島は偉いな」
「え? そうかなぁ」
「俺の知る本丸で食事の準備を手伝うのは物好きだけだ」
「俺の知ってる本丸はこれが当たり前だからねー。へへっ」
食事をする席は皆決まっていて、食卓に揃う顔もなんだか見慣れてしまった。
夕飯の献立は、味噌汁と焼き魚と野菜の煮物と漬物と米。それが週のほとんど。
小さな本丸だ。部隊というより、ひとつの家族のようだ。ここには当たり前が揃っている。いちから築き上げて、今や慣れ親しむを超えた当たり前のものごとたちが。
「それでは食べましょうか」
「ああ」
「いっただっきまーす!」
「いただきますっ!」
「はい、いただきます」
に合わせて無言で手を合わせて箸をとる。
あの本丸でも、調理の中心はだった。主にばかり関心を向けていた俺は、が調理していると知っていたからこそ、あの本丸で食べたものを美味しいと思ったことが無かった。不味かったわけではない。関心が無かったのだ。
手のひら返したように目の前の夕餉を褒め称えたりなんてしない。ただ味噌汁は、変わらない味だなぁと思った。