らりるらメゾン


 クリームとかスポンジとかの甘いものしか食べていたくない。その気持ちに従った結果、私の食事のほとんどは甘いものになった。朝はパンを食べる、お昼は菓子パンを食べる、夜はプリンとかゼリーとか、これまた好きなものを食べる。どれくらいこの生活をしてるだろうか。でも今のところ問題なんて感じていない。
 野菜なんてお肉なんてお魚なんて、食べなくても生きていける。証明は私の体。

 だけど、一期さんに、食生活を叱られたとき、私は嬉しかった。はっきりとそう思った。
 私と一期さんが一番良く会うのは、同じマンションを目指す帰り道だった。コンビニのビニール袋をぶら下げた私を見つけ、その中に甘い甘い夜ご飯を見つけると、一期さんは私を叱ってくれるのだった。


「ケーキやクレープを買ってるところしか見たことがありませんが、貴女はちゃんとご飯を食べてるんですか」
「………」
「まさか、こんなものが夕食だとは言わせませんよ」
「………」
「呆れた」


 呆れられました。その視線はちょっぴり痛かった。けれど、一期さんに私のだめなところを「だめ」と言われるのが不思議と心地良かった。

 一期さんの言葉は予想以上に私を縛る。私はそれから、朝はパンを食べ、お昼は菓子パンを食べた。けれど夜は何を食べたら良いのか、コンビニで何を買ったら良いのか、分からなかった。
 ケーキじゃなくて、次に食べたいものを買ったら、それはアイスになった。


「アイスは夜ご飯になりません」
「………」
「そしてアイスばかりですと、お腹冷やしますよ」
「………」
「貴女がたとえ平気と思っても、知らず知らずのうちにその体を壊しているんですよ」


 私はこの人の笑った顔に恋をした。その自覚はあったけれど、まさかこうして顔をしかめられてもどきどきするとは思わなかった。


「すみません。何食べたらいいか、わからなくて」
「……、はぁ……」


 仕方ないと言う風に吐かれるため息に嬉しくなってしまう。そんな自分が後ろめたく、背筋がぞわぞわした。


「一応は私の言葉を考えてくださったんですね。さんは何なら食べられるのですか。私としては、せめて一汁三菜を」
「そんなに食べられない」


 つい、つっけんどんに言うと一期さんが眉をしかめた。あ、その顔はふつうにイヤだ。面倒くさいという顔でしょう、それは。
 不意にこの人に見捨てられるという感覚が足下からせり上がり、恐ろしくなる。


「ごめん、なさい」
「いえ……」


 謝ってもまだ恐ろしさは拭えなくて、私はしどろもどろになりながら急いてしゃべりはじめた。


「別にわたしも、昔からこうだったんじゃないんです。おにぎりとか、食べてました。だけど家でひとりで食べてるんだと味が分からなくて。だったら、甘いもの食べたいなって思って、ケーキ、好きなので……」


 何を言っているんだろうという思いがあった。そうですか、と一期さんに冷静に返されてしまうと恥ずかしさでいっぱいになった。


「そうですよ、一人で、テレビとかケータイとか見ながら食べたら、味って別に変わんないですよ。だから良いじゃないですか、ケーキ、食べたって」


 今度、一期さんが返してくれた「そうですか」。その温度は冷めきっていて、ああ、やってしまったなと思った。
 実際、それからお互いの部屋に戻るまで、私と一期さんは何もしゃべることはなかった。溶けたアイスはシンクに流した。





 次の日の夜ご飯は、ちゃんとおにぎりをひとつ買った。久しぶりにご飯のたぐいを買った。おにぎりだけ買うのはなんだか落ち着かなかったので、えびせんの小さなパックも買った。甘くなければ良いでしょう、というつもりで。
 帰り道は一期さんと会わなかった。きっと遅くまでアルバイトの日なのだろう。
 自室でかじったおにぎりは味がよく分からなくて、なんだかゴムを食べているような感じがしてしまい、食べきれず捨ててしまった。えびせんがあって良かった。えびせんとジュースでお腹を満たして私は寝た。

 だけど、次の日も私はおにぎりを手に取っていた。なぜならコンビニに行く手前に一期さんと出くわしてしまったからだ。
 一期さんの手前でまた甘いものを買う勇気はわたしには無かった。


「おにぎり、買ってくれてるんですね」
「はい、まあ……」


 昨晩、ゴミ箱の中へ落とした食べかけのおにぎり。それを思い出すと胃が痛む。良くないことの区別くらい、私にもついている。だけど仕方なかった。そう自分に言い聞かせようとしても、後ろめたさにめまいがする。
 私は逃げるために、一期さんに声をかけた。


「よかったら、弟さん達におみやげでも買います? コンビニですけど。お菓子とか」
「え、いや、それには及びま」
「ほら、これとか、これとか。あ、このお菓子期間限定ですって。チョコレートのお徳用パック、ふたつ買っちゃいましょうか。みんななら一瞬ですよね、きっと」


 せっかく私がいるんだし、一期さんの弟たちのためお菓子を次から次へとかごに入れる。キャンディー、グミ、クッキー、ぽてち。そして自分用に、おにぎりをひとつ。食べられなかったものをまた買うのに、一瞬手が止まったが、一期さんの手前、私はかっこつけるしか無かった。


さん? 本当に、悪いです」


 本気で慌てている様子の一期さんを振り切って、私はレジに駆け込み会計を済ませた。




「はい、これ」
「いただけません」
「もう買ってしまいました」
「ですが」
「……昨日の、お詫びです。一期さんのこと、不快にさせたから」


 そこまで言えば一期さんは渋々、お菓子の詰まった袋を受け取ってくれた。昨日からずっと続いていた、見捨てられるかもしれないという恐怖がやっと薄れていく。
 買ってはみたものの、食べられる気はしないおにぎりだけが、少し重たい。


「……、さん。少々、ここで待っていてください」


 さあ帰ろうかという時だった。しばらく思い詰めた様子だった一期さんは不意にお店の中に戻ると、何かをつかみ、レジに立つ。
 そして本当に、少々の時間で帰ってきた。
 一期さんの手にひとつ増えたレジ袋。そこにはおにぎりがひとつ入っていた。

 一期さんはぽつりと言った。


「公園にでも行きますか」



 ひんやりとした夜の公園。人気はない。太陽光電池で時計がぽっかりと光って、そこに虫が引き寄せられていた。私と一期さんはベンチに並んで座る。


「……食べるか」


 あまり聞かない口調にぎょっとしたが、横に座っているのは確かに見目麗しい長兄一期さんである。一期さんは自分のコンビニ袋からおにぎりを取り出した。一期さんにここまで連れられてきた私は、また一期さんに習って、自分のおにぎりを取り出した。

 昨日は捨ててしまったのに、また手に取ってる自分が滑稽だ。そんな滑稽な私は一期さんによって生まれる。昨夜の気分の悪さがまざまざと思い返されフィルムに手をかけたところで止まってしまう。だが一期さんはマイペースに手早くフィルムを取り去り海苔を張り付かせ、ぱくりと一口目を行った。


「………」
「何か?」


 思ったより、一口が大きくて驚いてしまった。頭が止まってしまってる間に、一期さんは二口目を行く。もう彼の手にはほとんど残っていない。

 ああ、一期さんが食べ終わってしまう。そう思ったら、私は不器用ながらフィルムを取り去り、おにぎりにかぶりついていた。

 彼が食べている横で、私が何かを食べたなら、それは一緒に食事をとってることになるんじゃないかと思えた。
 彼と肩を並べて、何かを食べている。その行為をただ成立させたくて、私は口の中へおにぎりを押しつけた。

 おにぎりの味は、ゴムでは無かった。もう私のひどい味覚では上手く例えることはできない。だけど、海苔の香りってこんなだったなと思い出した。海を思い出す香り。美味しいとか思うよりも先に、感じたのはあごへの猛烈な疲れだった。頬が落ちそうに重たい。しばらく使っていない神経がたたき起こされ、めまいを起こしているのが分かった。


「………」


 その音に、一生懸命言葉にあてはめたら、「ふ、は」だろうか。今までに見たことない笑い方をして、一期さんは私を見ていた。


「小さい一口ですな」


 指摘通りの小さい一口で、のろのろ食べる私に、一期さんは辛抱強くつきあってくれた。食べきった後、胃の重さを感じながらも達成感で浮かれつつ、私は知ったのだった。急いで食べなくても、一期さんは待ってくれる。私の歩調に合わせてくれるということ。




「……知っていたんですか。私が昨日、たったひとつのおにぎりすら食べられなかったこと」
「いや、知りませんな」


 昨晩の失敗を、この公園で乗り越えさせてくれた。私は彼に救われた思いでいたのに、あっけらかんと返されてしまった。


「食べられなかったんですか」
「良いんです、もう、そのことは」


 今、彼に許される食事ができた。そのおかげで、過去はきっちりと過去になっていた。
 のぞき込んでくる一期さんから逃れながら、私は噛みしめていた。この人と一緒にいるという事の威力を。

 もっとこの人と一緒にいたい。あたたかなものを貰いたい。この人の幸せを、分けてとまでは言わない、けど、明日もこうしていたい。その光を遠くからでも浴びていたい。
 その時私は確かに、欲張りになっていた。


「あの一期さん」
「はい」
「あの、今度、行きませんか。一緒にご飯、とか……。お礼というのもありますし、こうしているの私としては結構新鮮で楽しくて」


 女の人から誘うのって、どうなんだろう。もしかして、はしたない?
 でもよくよく考えれば、私はすでに十分過ぎるほどはしたない女である。一期さんに家賃二万円引きの代わりに愛してくれなどと言ってのけたのだ。もう落ちるところまで落ちてる。だから今更デートまがいの誘いをしたって、恥ずかしがる権利も無いというのに、この時は全身に血が巡って、燃え上がりそうだった。
 だから、一期さんに断られた時の心の準備は後回しになっていたのだ。


「すみません、それは行けません」


 今、急に雨が降りましたか。いや降ったはず。だってそうじゃないと、頭のてっぺんからつま先まで、いっせいに冷たくなった理由が説明できないもの。だから雨が降ったのよ。だから「あ、はは、そうですか、ざんねん」という声も震えるのだ。