らりるらメゾン


 体全部が濡れた気になりながら、「あ、はは、そうですか、ざんねん」と強がった。
 本当に、残念。


「別に、私がごちそうするんですよ、一期さんの何か好きなもの、食べにいくというのは、だめですか」


 残念で残念で、そう往生際悪く聞いたわたしに、一期さんは本当に申し訳なさそうな顔をして言うのだ。


「そういう問題では……」


 苦い顔で、言葉を濁されると、きゅうっと胸が痛くなる。私は、彼を困らせたかったわけじゃない。
 あまりに一瞬だった、けれど麻痺していたわたしの神経がじん、と波打って驚いた。逃げていくねずみのしっぽに触れたかのような感覚を失いたくなくて、むしろ何度も触って確かめて忘れられないものにしたくて、一期さんに“もう一度”を願ってしまった。けれど、それで一期さんを困らせてしまうというのなら、それはもう私の願いじゃなくなる。


「あはは、やっぱ、そう、ですよね……」


 笑いながら、私の頭のなかはぐちゃぐちゃになっていた。彼の線引きがよく分からない。手を繋いで帰るのは良くて、一緒に花火をするのは良くて、扇風機のためだけど部屋に来てくれたこともあったし、二人でコンビニに立ち寄って、夜の公園に行くのも良くて。でも、二人で出かけるのはだめ。
 よく分からない。なにがよくてなにがだめなの。二万円の線引きはどこなの。
 本当ならそれを一期さんに聞いてしまえたら良いのだけど、彼に突き放された今、もうなれなれしい言葉をかけるのは良くないことだ。それくらい、のろまな私でもよく分かるのだった。

 こんな時、同じ建物に帰るということが、大変な地獄を見せる。なのに帰り道を一緒に歩こうとした一期さんによっぽど「用事があるんです」と言おうと思ったけど、やめた。一期さんにはもう私に友達なんてほとんどいないことも、趣味すら無いことも全部筒抜けだからだ。
 それでも耐えて帰って、私の部屋に入って。やっと、全ての緊張が解けた。そして全てが私をおそってきた。
 悲しさも恥ずかしさも後悔も、全部全部。

 ああ、私はなんて恥ずかしい人間だろう。一番の後悔は、一期さんの愛情や時間を、かけらでももらおうと、みっともなくもがいたことだった。

 身の程をわきまえなさいよ。
 夜の窓ガラスに映った私自身がそう言った。



 次の朝、鏡の前に立った私はなかなかにひどい顔をしていた。目の下のくまがいつもより濃い気がする。気分もどんよりとしていて、表情も……表情が暗いのはいつものこと。
 痛みを覚える体を動かして、私は何もかもをいれっぱなしの鞄を手に取った。

 私が駅前のスーパーで働いているのはその店長への、義理立てのためだった。古くからある地域密着型のスーパーの店長は、私の両親の昔なじみだ。
 何せ昔からの店長だから、私のうだつの上がらない幼少期も知られている。私が両親から分け与えられたマンション経営によって働かなくても生きていけることももちろん知った上で雇われているのだった。
 私にだって、スーパーのレジ打ちくらいできる。片手間に店内に立つだけで店長と両親の関係は良好に進むのなら、と流されて、わたしは今日もレジ打ちに時間を捧げることになっていた。


「おはようございます……」


 声が小さかったらしい。誰にも返事をもらえない。
 指定のシャツとエプロンに着替えて湿っぽい事務所に入ると、店長はパソコンとにらみ合っていた。店長くらいは私に気づいてくれる、一度私を見て、それから二度見した。


「ああ、ちゃん。おはよう。……うわ、大丈夫? 何時にもまして顔色悪くない」
「え、平気です……。ちょっと寝不足で」


 出勤早々に顔が悪いと指摘を受けてしまった。
 そんなに具合が悪いわけでは無いのだけれど、ひとから見るとぎょっとするほどの顔らしい。わたしは自分で自分の顔をむにむにと揉んだ。最低限、ひとの記憶に残らない顔でいたいからだ。

 顔を揉んでいると事務所に別のひとが入ってきた。わたしはちょっと遠くの床を見ていたはずだった。けれど視界のすみっこを掠めた色で緊張がぶり返す。息が、詰まる。


「ちょうど良かった。このひと、最近入った新人さんの一期くん」
「………」
「彼は深夜帯が多めだけど、いろいろ教えてあげてね」

さん。よろしくお願い申しあげる」


 道ばたじゃなくコンビニじゃなく、マンションじゃないところで初めて会う一期さんが、薄暗い事務所の中でしゃっきりと立っていた。

 言うことだけ言って店長は表に出ていってしまった。
 じめっとした事務所に残されて、私と一期さんふたりきりの空間と、一、二分の痛い沈黙で生まれる。


「……、ここで働いてたの」
「はい。でも、つい最近ですよ」
「……なんで」
「近いからですな。ここなら閉店まで働いてもすぐ家に帰れますから」


 納得だ。たくさん働くためにも、たくさんの弟たちのためにも、近場で働くのは得策だ。


「貴女こそ、どうして」
「店長さん、お父さんたちとの知り合いだから。義理立て……」
「ああ、そうでしたか」


 一期さんはそれを聞いてふう、と息をはいた。わたしも、はあ、と息をはいた。
 お金が必要で、働かなくてはいけない一期さんと、しがらみのためになあなあで働く私。彼から見て、きっとそう面白い存在じゃないだろうなぁという事実にすぐに行き当たって、昨日の夜の苦しみがぶり返しそうになる。


「いろいろ教えてくださいね」
「……一期さんなら平気ですよ、私がいなくたって」


 私がいなくたって、彼はなんでもできるし、何にもなれるし、どこにだって行ける。スーパーのレジ打ちだって、しても良いし、しなくても良い。
 未来があるって、彼のためにある言葉だ。



 数時間後、店内で見かけた一期さんは、もうめちゃくちゃにもてていた。
 地元スーパーに急に現れた長身で物腰が柔らかく、声も優しい、王子様のような好青年のアルバイト、一期一振さんは、一瞬のうちにスーパー中の女性の心を虜にしたようだった。学生アルバイトから、パートのおばちゃん世代まで。もちろんお客様にも。ひっきりなしに女性に声をかけられ、彼も嫌みなく落ち着いた様子で対応するのだ。なのに女性側が気を抜いていると、一期さんはちょっとした微笑みに、ミルクティーのような甘さを滲ませる。

 わたしはひたすらにレジを開けながら、感嘆しながらその様子を見ていた。
 容姿だけでもてているわけじゃないところが、さすが一期さんである。

 その日、私は今までに無いくらいスムーズに、品出しやお総菜のパッキングなどを終わらせることができた。
 お店の中、まだまだ分からないことが多いのか、何度か一期さんから声をかけられた。けれど全部他のパートさんが間に入ってきて引き受けてくれるし、お客様を引きつける一期さんの代わりに私は誰にも呼び止められること無いし。ひとりで黙々とする仕事は、なんてらくちんなのだろうか。おかげで昨夜の悲しみのせいでギタギタになった体でも、働くことができた。

 わたしの退勤の時間が迫る。
「お先に失礼します」という言葉は声が小さかったらしい。誰にも聞き届けられなかった。

 ぼーっと制服から着替えながら、そういえば、と思い出す。明日の夜に期限切れになるわらび餅が結構たくさんお店の棚に残っていること。
 退勤後、棚を覗いてみたら案の定、十以上もわらび餅のパックが積まれていた。わたしはそれをまとめて買い物かごに入れた。

 かごに抱え込んだわらび餅は12パックほど。全てをスーパーの袋にまとめて、一期さんのロッカーに無理矢理詰め込んだ。
 急にロッカーに大量のわらび餅が詰め込まれてたら、誰だってちょっと驚くと思われるので、一応、手紙つきだ。「一期さんへ みなさんで食べてください」という一行の手紙。

 それをただひとり、店長だけがしげしげと見ている。


「なんでわらび餅そんなに買い占めてるんだろうと思ったら。一期さん、わらび餅好きなの?」
「……、知りません」


 そういえば一期さんは何の食べ物が好きなのだろう。優しくしてもらうばかりので関係で、私はそれすら知らない。


「弟さんが十人以上、いるらしいです」
「えっそうなんだ。兄弟がいるっていうのは知ってたけど。そりゃあ大変だ」


 予想通りの反応が返ってきて、ちょっぴり笑いたい気分になった。これできっとお人好しの店長も、一期さんの味方になってくれる。
 そう思ったのだけれど、店長はううーん、とひとつ唸ると、私へ投げかけた。


「一期くんのこと、気をつけてね」
「……、え」
「悪い子じゃないとは思うけど」


 投げられたのは忠告だった。
 予想外にもほどがあることを店長は言う。一期さんが私に気をつけるのではなく、私が一期さんに気をつけるだなんて。


「君だって女の子なんだし。ほら、君は若いわりに資産、持ってるだろう。金目当ての輩にまんまと利用されないよう、ちゃんと見極めないとだめだよ」
「………」
「君そういうの、苦手そうだけど」


 なにも知らない店長の、案ずる顔に思わず苦笑いしてしまった。
 一期さんはそんなひとじゃないし、金目当てどころか、金を提示したのは私だ。私から彼に近づいた。彼のあたたかさ目当てに。


「そうですね……」


 確かに私は人間を見極めたりする能力は無い。他人のことを正しく見極められないばかりか、多くのひとが私を馬鹿にしているような、そんな幻ばかりを見ている。ひねくれた私の偏見だ、被害妄想だと気づきながら、暗い想像に押し流されて生きている。
 だけど一期さんの前だと自分の盲目さも気にならない。私は、別に、彼に騙されたって良いのだ。

 事務所から店頭へと出ていく店長に、小さく頭を下げる。一期さんへわらび餅も押しつけ終わったことだし。帰るのだ、私のマンションへ。
 早くお店を出ようと、外へ繋がるドアノブを握った。


さん」


 ちょうど休憩に入ったのか、雑然とした事務所に一期さんが立っている。
 ずっと同じお店で働いたのに、全然話さなかったなぁとぼんやり思った。今日一日、仕事はやりやすかった。けれど、一期さんと予想外の場所で繋がってしまったことは、どうもやりにくかった。その一点については私は疲れいていた。
 一期さんにも小さく頭を下げて、出ていこうとした私に一期さんは急に声を出した。ちょっと焦り気味の声は、こう言った。


「誤解、なさらないでくださいね」


 ぽかん、としてしまった。
 だって、一期さんが言ったことが私には全く理解できなかったからだ。


「誤解とか、してないと思います……」


 誤解しないでって、何を?
 何を言っているのか、よく、分からない。
 私は一期さんの優しさに何度も自惚れたけど、同じ数かそれ以上の反省も繰り返してきたつもりだ。

 誤解するな。その言葉の意味を知ろうとする前に、お店から誰かが一期さんを呼んだ。本当に引く手の多いひとだ。彼が気を取られた隙に、私は彼の視界からするりと抜け出した。



 一期さんのせいでいつもより浮ついている店内から出て、ひやりとする風の流れる街に出る。急に無関係な人だかりに紛れてしまい、耳鳴りを覚える。
 目をつぶると、よみがえった。たくさんの女のひとに声をかけられ、たくさんの笑みを返す、遠くの一期さんの姿が。

 ぼんやりと思った。乗り換えられるかも、って。
 今日か明日かわからないけれど、一期さんが、私よりもっと良いひと見つけて、乗り換えるかも。


「……、うん……」


 頭の半分は言っていた。一期さんは優しいから、そんなことしない。だけど、半分は笑い混じりに囁いている。残念ながらそうなるね、って。
 メリットで繋がっているんだから、より付き合うことでメリットを感じられるひとがいたら、きっとそっちへ行くだろう。私にはお金しか無いけれど、お金ともうひとつ何か兼ね備えた良い女のひとがいたら、そっちの方がお得だ。

 一期さんには未来がある。
 彼は人生の伴侶に、誰を選んでも良いし、選ばなくても良い。
 そしてそんな良いひとに出会うチャンスは、一期さんには山ほど用意されている。

 一人の帰り道で、私は良い発見をした。
 ああ、昨日までの優しさ、あれがちょうど二万円分だったのだ。あのひとは、きちんと月二万円分、私のものだったなと、感じられたのだ。
 そして今は、その二万円の、時間外なのだろうとも思えた。




 次の朝。私は少し遅く起きた。夢の中でインターホンが何度も鳴ったけれど、起きられなかった。

 お昼時も近い時間。一期さんも一期さんところ弟さんたちも出払って、しんと静かになった私のマンション。
 玄関をの郵便受けを見て、私は無言で立ち尽くしてしまった。そこにはダイレクトメール、信金からの手紙に混じって、見慣れたスーパーの袋が入っていた。
 中身は、わらび餅のパックがひとつ、入っていた。

 昨日の今日で、わらび餅。きっと一期さんだろう。はじめは送り返されたのかと思ったけれど、郵便受けに入っていたわらび餅は1パック。
 そして何より、わらび餅の消費期限はしあさって。私が送ったものと消費期限が全然違った。

 わざわざ買ってくれたのだ、一期さんが。
 一期さんは、わらび餅を投函しに、私の部屋の前まで来たんだろうなぁという推測で、体がじんと痺れた。
 そうじゃない可能性もあるけれど、私はこのわらび餅は一期さんが買ってくれたものと信じることにした。

 私はひとりっきりの空間で、わらび餅を食べた。朝ごはんとか、昼ごはんじゃなく、ちゃんとデザートとしてわらび餅を食べた。
 一期さんたちも食べたであろうわらび餅。一期さんの時間外の優しさを、私はきなこと戦いながら、ひとりっきりの午後に食べたのだった。