らりるらメゾン


 夜、獣の声で目が覚めた。私の体はきちんと暖まっていた、一期さんの布団で。そうだ、私は招かれたたこ焼きパーティーの中、自分がそこにいることに耐えられなくなってしまった。
 正確には机と自分の腕に顔を埋めて、いなくなろうとしたのだ。理由は情けなくて、幸福の空気に耐えられそうになかったからだ。結局私はただの人間なのでいなくなることはできなかったけれど、意識が無いように見せかけることで彼らの優しさたちから逃れようとしたのだ。
 そして一期さんによって、別室へと移された。

 私を抱きかかえた一期さんに、隔離してやったというつもりは無かったと思う。ただ単に、寝ているようなのできちんと布団に寝かせたというだけ。彼は現代でも稀少さを感じさせるくらい優しいので、そうに違いない。

 夜闇のなか、私はかすかな月明かりを頼った。そっと手を這わせると畳の感触。腐ってても大家なので、間取りは覚えている。徐々に眠気が晴れてゆき、視界が明瞭になっていく。そして私はすぐ隣で眠るひとが、一期さんであることに気がついた。


「………」


 不思議な心地だった。ずっと近くにこのひとが寝ていた、ということもそうだ。けれど、それよりも0時を過ぎてやっと私は一期さんの顔を見たという事実が奇妙に思えた。無断で家に上がり込んでおきながら、寝ているふりで騙しておきながら、だ。私はずっと目を瞑っていたから、一期さんが帰宅後どんな表情をしていたか、私を見つけてどんな反応をしたか、その一切を見ていない。ため息が漏れた。一期さんが私のどこを見たかも分からない。

 静けさゆえに、「一期さん」と名前を呼ぶのははばかれた。
 一方通行の視線を、今私は一期さんに返していた。よく眠っている。一期さんは寝顔にすら上品さをたたえている。けれど体に力が入っていても顔に表れにくいひとなので、閉じた瞼がふっと開くような気もする。ようやく起きたのですかと私に言うような気がする。

 寝顔を眺めながら、私は自分がここから出ていく方法を探った。皆が寝静まっているうちに出ていく方法を。けれどまず、鍵をどうすれば良いか分からなかった。出ていって、開けっ放しにするのは忍びない。しかも首を伸ばしてみると、その向こうには数人分の布団の膨らみが平行して並んでいる。どうやら私は部屋の一番すみに寝ていたらしい。それと、まず一番に私には目の前の一期さんが越えられないだろう。
 困難ばかりの道より、布団の中に戻るほうがずっと楽だ。私は申し訳ない思いを抱きながらも、なまぬるい布団へと戻ったのだった。




 今度、私の意識をたたき起こしたのは掃除機の音だった。勢いよく塵を吸い込む音に、ばっちりと目が覚めた。部屋は、空はしっかりと白く明るくなっている。まぶしさにひるみながら見渡すと、部屋に掃除機をかけていた主と目が合った。


「起きましたか」


 一期さんだ。一度掃除機を止め、笑んでいる。急に掃除機の音がしたらほとんどのひとが起きてしまう。そう思えば一期さんのそれは確信犯の笑みに思えた。


「おはようございます、さん」
「……おはようございます」


 私は体を起こしながら、手で髪の毛をならした。寝起き姿を見られるのは恥ずかしい。


「……あの、他の弟さんたちは」


 そんなことを言い出したのは、彼の意識を別のところへ反らしたいからだった。


「皆、それぞれ出かけました。中学生からは部活がありますから、私よりも早いのです。私が一番遅く家を出ることは珍しくありません」
「そうなんですね」
「それに比べ大学生は、時にはこうして家を守る余裕もあるというわけですな」
「はぁ……」
「何か飲みますか」


 水か麦茶かと言われたので、水をお願いした。きちんと洗われたグラスから、ちびちび水を飲んでいる間に一期さんはまだ掃除機をかけ始める。
 てきぱきという言葉がぴったりだ。一期さんは物をひとつひとつ動かし戻しながら掃除機をかけていく。そのうち、足下に掃除機の頭が近づいてくる。私は邪魔にならないように逃げる。また掃除機の先が追いかけてくる。そんなことを何回も繰り返した。
 繰り返すうちに、逃げ場を失って、私はそっとベランダへ続く窓の網戸を開けた。帰れば良かったのに。私は水の残るグラスとともにベランダへと逃れた。

 ベランダはますます眩しかった。けれど家の外側のような、内側のような場所は、ひとまず安全地帯となってくれた。
 この部屋で、私に所在は無い。当たり前だ、私は部外者なのだから。陽に当たりながら、私はどうして早々に帰らなかったのかと考えた。

 じきに、掃除機の音が止んだ。片づけるような音が聞こえたその後も、一期さんはまだ何か、家のことをしているようだ。
 ふと、からからと戸が引いた。と、思ったら現れたのはたくさんの洗濯物だった。一期さんはそれを素早く、正確に陽に当たる場所にかけていく。私は何もできずにベランダのすみにいる。手の中のものを全て引っかけ終わるとまた一期さんは部屋に引っ込む。
 今度は、一期さんは両腕に布団を抱えてベランダへと出た。

 兄弟ぶんの洗濯物と布団で、あっと言う間にベランダは衣類で埋まってしまった。
 最後の残されたスペースに枕を並べると、


「はぁ……」


 ため息だった。疲れたような、それでも達成感の混ざった吐息。それからベランダにひっかけている布団に顎を乗せ、目を細める。
 下界を見下ろす横顔。それに私は背筋にぞくぞくしたものを感じてしまった。長いまつげとともに下へ向けられる視線が思ったより鋭かったこと。それと、ため息と共に一期さんの笑顔が吹き消えたのだ。
 私は、笑顔をたたえる一期さんを何度も見た。そんなひとが笑顔を捨てる瞬間。見たことのない一期さんの一面が、私の背筋を震わす。


「お疲れさまです」


 常套句を述べると、一期さんは頭を布団に預けたままこちらへ顔を傾けた。


「このようなことで私を労ってくれるのですか」
「あ、当たり前じゃないですか」
「そうですか」
「あの、お布団、すみませんでした」
「良いんです。私が貴女をここへ運んだのですから」


 もちろん知っている。本当は私、あの時眠ってなんかいなかったのだから。気まずさから目を反らすと、一期さんは言った。


「お部屋に、帰そうと思えばできました」


 それはどういう意味だろう。疑問は口から出そうになったけれど、その前に一期さんが思い出したように言う。


「シュークリームがありますが、食べますか?」
「………」
さんが差し入れてくださってシュークリームですよ」
「別に、私は」
「甘いもの好きなんでしょう。私も昨夜、片づけで食べそびれまして。二人で食べましょう」


 シュークリームに興味が持てなくとも、一期さんと二人で食べるのなら、それは私にとって魅力的なお誘いだった。
 反射的に顔を上げると、一期さんは笑顔を取り戻していた。


「今日は熱くなりそうですね」


 そう言って、手をひいて、ベランダから私を室内へと引き入れてくれた。何でもないことのように。

 薬研さんの言葉を思い出す。


『一兄がダメというわけが無いだろ』


 私は馬鹿だ。大きな手に導かれて、ようやく彼の言葉を信じられそうだ。
 私は昨夜、あの場所にいても良かったのだ。




 室内に戻る。それだけのために手を引かれて、私はやっと体感を取り戻した気がした。一期さんにそういった、友情には行きすぎた触れ合いをしてもらえる立場だったことを体が思い出したのだ。
 思い返せば、もう月は変わっている。私は先日、一期さん宅から二部屋分……といっても一部屋分の家賃に毛が生えた程度の額の払い込みを確認したばかりだ。

 一期さんがフォークを私の目の前に並べながら言う。


「シュークリームは、少し多めに買ったのですか」
「え?」


 意図のよく分からない質問に思わず聞き返した。けれど、一期さんは何も補足をくれない。私は恐る恐る答える。


「いえ、人数分買ったつもりです」
「そうですか」


 シュークリームはひとりひとつ、ぴったりあるはず。どうやらその答えは、一期さんにとって望ましいものだったらしい。彼の機嫌が急に良くなる。不可解さに戸惑っていると、一期さんは楽しそうな声色でわけを教えてくれた。


「シュークリームは今ふたつ残っています。私の分と、さんの分だ。さんが人数分ぴったり買った、ということは。さんはちゃんと自分のことを頭数に入れていた、というわけです」
「………」
「貴女はそういうとこで変に不器用だ。要らない方向で見栄っ張りです。だから自分の分は買っていないとかやらかすんではないかと心配していたんです」
「……それが、何ですか」
「嬉しいのです」


 よくできましたと言わんばかりの一期さん。正反対に、唐突な苦しみが私を襲っていた。一期さんの笑顔に、無性に、泣きたくて仕方なくなった。

 私はシュークリームを人数分買った。それは嘘じゃない。
 けれど、ぴったりの数で買っていない。人数より多めに買ったのだ。

 例えば落としてしまったりして、一期さんの兄弟の誰かが食べられなくなったらどうする。一人だけ食べられなかったり我慢するのでは可哀想じゃないか。そんな不安に駆られて、多めに買ったのだ。

 ここで私が手のひらを返して、本当のことを伝えたらどうだろう。「違う、私の分は無かった。けれど予備のつもりで多く買った」と。言えるわけが無い。
 一期さんに、馬鹿みたいな真実を伝え悲しませる必要なんて無い。

 一期さんはまだ嬉しがっている。私が私をないがしろにしなかったことを。
 他人が自分を大切にしていたなんてことを喜ぶ人間なんているもんかと思う。けれど相手が一期さんだから、私は優しすぎる事実を疑えず、心で泣き笑いしながらフォークを手に取った。
 すぐさま舌に広がった、少し劣化したクリームの味は私を慰めた。







 私が、私をないがしろにしなかったことを一期さんは喜んだ。口で、はっきりと「嬉しいのです」。そう言った。一期さんの感情が揺れたのが、怒鳴られることよりも深い傷を私に残していた。彼の優しさは私を慰めることが多い。身動きできないほど締め付けることも同じくらい多い。

 私はしばらく一期さんを避けて行動した。これからの行動を、一期さんに悟られたくなかったからだ。
 なんて事は無い。スーパーで働くことを、やめるだけだ。

 どこぞの大家であることはずっと、私の秘密だった。私がどこの家の子か分かっているのは、ここの地域に昔から住んでいるひとくらいなものだ。友人も知らない場合が多い。このスーパーでは店長くらいしか、私が親からマンションを受け継いでいることを知らない。
 私に興味を持つような奇特なひとは今までいなかった。だから私が身分を隠すのに、大した努力は必要無かった。けれど、人なつっこい瞳たちがレジの向こう側で輝いた。


『大家さん』


 私をそう呼んで、笑顔で家族だけの空間へと誘ってくれた。その声を誰かが聞いたのだろう。私の素性はじんわりとスーパーで働く人々の間に広がり出している。

 不幸そうで、友達もいなさそうで、遊びを知らなそうで、悪い意味でうぶ。気が弱くて優しくされたらすぐ騙されてしまいそうな、なんとも取り入りやすそうな独身の女が、意外に金を持っていることにスーパーで働く人々が気づき始めているのだ。

 スーパーのレジ打ちを去りたいと願い出ると、店長は全てを引き受けてくれた。
 店長が知り合いである分、事はスムーズに音もなく進んでいった。


 居場所と呼べるほど、ここに受け入れられていたわけじゃなかった。ただひとつ、やることを失ってしまっただけ。だから痛くもかゆくもない。ひとりぼっちは慣れっこなのだ。
 ただ心配なのはやはり一期さんのことだ。私がここを去る原因が、一期さんたちの弟であることを、彼に知られてはならない。
 そして一期さんと私との関係がばれてはならない。彼を好いているひとがたくさんいる。一期さんの評判に、傷はつけたくない。

 だから、他言無用で、なるべく誰にも知られず、気づかれないまま。けれど一刻も早く。私はこの場を去らなくてはならない。