夜の時間帯に人手が足りないから、その日だけ特別に夜勤をしてくれないかと言われて、最初は無言で肩をすくめてしまった。夜に働くのは苦手だ。というか、外に出ている間は良いのだけれど、真夜中にひとりぼっちの家に帰ることがだめなのだ。がらんとした室内に、自分で電気を点ける。そうすると広がる、自分の一人暮らしの生々しさ。あれはわたしへの効果が大きすぎる。そんなわけでいつもなら引き受けないのだけれど、その日のシフト表の中、私はめざとく見つけてしまった。一期さんの名を。
「22時の退勤でも、良いですか」
そうしたら一期さんと一緒の時間にアルバイトを終えられる。
いつもならば断るし、今回も渋っていたわたしが、条件付きとは言え手のひら返したのを、店長はすぐには理解できないみたいだった。戸惑いながら笑顔を浮かべる。
「え? ああ、十分十分。助かるよ。じゃあよろしくね」
「……お先失礼します」
「うん、お疲れさまー」
私はすり抜けるようにしてアルバイト先を出る。早く、出来るだけ早く家に帰りたい。
「さん」
「……、はい」
呼び止められる。私はそろそろと振り返った。相手は一期さんでは無い男のひとだ。
そう考えいるあたり、私の中では、男のひとが二種類に分けられているらしい。一期さんと、一期さんじゃないひとの二種類だ。
「もう帰るんですか。お疲れさまです」
「いえ」
「さんて……住んでいるところ、どのへんでしたっけ」
「………」
「え、神社方面? それとも坂の下?」
このひとは、最近よくわたしに話しかけてきてはアレコレと質問を投げかける。たわいもない世間話に思える。けれど、私の過剰な自意識はそれに耐えられない。このひとが私に興味を持ち始めたのは、私が大家であるという事実が知れるようになってからなのだ。
「……、ここから結構歩くので……、なんと言ったらいいかわかりません。それでは」
振り切るようにして走る。茜色の、一人の帰り道。走るとすぐ筋肉痛になるくせに、加速をやめられなかった。でもとうとう心臓の限界が来て、足を止めると、どっと汗が噴き出す。
「っはぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
息は切れ切れで、心臓が痛くて、けれど安心はしていた。自分の帰る家が見えている。それに一期さんたち兄弟が住む部屋には、灯りが点いていた。窓からちらりと漏れる白熱灯は、ちょうど向こうで光る夕日と同じ明るさで、頭の上へ至ろうとする夜と同じ暗さだった。
「は……、……っ」
私はその灯りを見た。一番星よりも切実にそれを見上げていると、呼吸は整っていった。
「………」
あの灯りがあるのは、自分が帰る部屋では無い。なのに、あの電球が光っているだけで、ちらちらとあの兄弟たちと同じ空間にいた時の思い出が蘇る。そして胃の下あたりに住み着く寂しさの感触が違っているのが分かった。
別にあそこに帰れるわけでも無い。帰れば誰もいない部屋の電気をパチリと点けて、蛍光灯が見せる青白い空間に目が眩む。そんな自嘲も吹き飛ばすくらい、私の呼吸は落ち着いていった。
慣れない夜勤ではあるけれど、一期さんという対価は強力だった。同じフロアを見渡すと、大学から直接来たであろうに一期さんが明るい笑顔を見せている。
時間帯が違うと顔を合わせるひとも違う。いつもより重ねて孤独だけれど、棚のかげなんかにちらりと青い頭髪が見えると、それが一瞬時間を忘れさせた。
「さーん」
「は、い……」
「備品の在庫って、いつものところに無かったらもう無いですかね。お昼のひとなら分かるかなと思って」
「……見てきます」
「はい、レジ変わるんで。お願いします」
私は後を任せ、裏に入った。店内の明るさから遠ざかると、つい下向きに息を吐き出してしまう。
備品の在庫だっけ。いつもならあるはずの一番下の段は、確かに空っぽに見える。けれど、私は確認するために、棚の中へ、頭からつっこんで入った。入れるひとがいい加減だと、奥に詰まってることもあるのだ。そして片足まで棚の中に乗り上げたところだった。
「ねえ、今日来てるね」
女の子の声だった。そして不意に私が話題に出てくるのだから驚いた。
「ああ、さん? 珍しいよね」
「うん、あの話聞いてから初めて見たよー。やっぱりさ、見えないよ。家賃収入で食べてる金持ちになんてさ」
自分の名前が出ると息を潜めてしまうのは、脊髄反射的なものだった。けれど今はそんな自分に感謝した。自分の名で話題に上がって、褒められたりした経験なんか無いのだ。
「そうだねー。見た目暗いし、あんななのに、ね。コミュ障っぽいし」
「そうそう。家賃収入あるなら、あのブランドバッグもやっぱ本物なんだね。正直パチモンと見分けつかなくてさー、どっちかなと思ってたんだけど」
「あー、分かる……。あんま似合ってないもんね」
「うん。ひとと接するの苦手そうだし、超キョドってるし。金あるんなら、なんで働いてるのかってレベル」
「ねー。いーなー金持ち! お金欲しい!」
「じゃあ働けよ」
「あはは、働いてるって」
無邪気な会話が扉の向こうに消えたのを確認して、私は棚から身を引き抜いた。
「……、良かった」
思わず呟いてしまった。だって探していた備品は、奥の方に一箱だけ残っていたから。
いつも帰る夕暮れじゃなくて、完全な夜道はやっぱり肌寒い。私は夜空をにらみつける。そうすると少しだけ、目に見える星の数が増えるからだ。
「さん」
「はい」
私はよく躾された子供みたいな、素直な返事をする。理由はごく単純で、少し後ろを歩いているのが一期さんだからだ。
一期さんと同じ時間に退勤するのは狙ってやったことだった。ただ一緒に帰る約束などはしていなかった。なのに、結局わたしは帰り際にそわそわしてしまい、一期さんはそんなわたしを見つけてくれたのだった。
「実は視力が弱いのですか」
「……、弱い、というより、時々見えなくなるんです。すごく疲れた時とかは、遠くのものがぼやけるんです」
もう一度強く空をにらみつける。一瞬だけ、星の数が増えるけれど、力を抜くと夜の色にぼやけて分からなくなる。
私は両手をこめかみの辺りに添えて、夜空に集中できるようにした。今日は、私と一期さんは手を繋いでいなかった。私が一生懸命に巧妙に手を隠したから、手を繋ぐ隙が無いのだ。まあ、一期さんが手を繋ぎたいと思っているとは思わないけれど。
手は繋がない。けれど帰り道が一期さんと一緒で良かった、と思う。金持ち、コミュ障、キョドってる。棚の奥の暗闇で聞いた言葉たちが、まだ胸を刺している。
「一期さん」
「はい」
「私のこのバッグは、母からのお下がりなんです」
使い古したこのバッグは確かにブランドものだ。だけどわたしの趣味じゃない。
「お母さんが、すごく昔にくれて、便利だから使ってるんです」
一期さんは何にも関係無い。一期さんに言い訳したって、パチモンと見分けつかなくてさ、なんて笑ったあの子たちに届くわけじゃないのに、目の前のこのひと相手に、気づいたらそう教えていた。
「そうでしたか」
「はい……」
「よく、手に馴染んで見えます」
「はい……」
「でも、もっと似合うものがありそうですな」
「どうして、そう思うんですか」
「お部屋を見ましたから。……何か、あったのですか」
「………」
「いえ。何がありましたか?」
「………」
どうして、ほんの少し言葉を変えただけで、こんなにも迫られているような感覚に陥るのだろう。
「バッグの話、聞いてくれてありがとうございます」
「これくらいなんともありませんよ」
「それでも、ごめんなさい。一期さんにぶつけてしまって」
「……本当に、何があったんですか?」
少し迷って、「いろいろですよ」と言った。いろいろだ。私がどこぞの大家であるという事実が、ほんのちょっぴり知らされただけだというのに、状況が笑ってしまいそうなくらい、次々と変わりつつある。
「最近、私に話しかけてくれるひとがいるんです」
一期さんが眉をしかめて聞いてくる。
「それは……男ですか?」
「男、ですね。珍しいですよね、ほんと」
「………」
「でも分かってるんですよ、そのひと、私のお金目当てって」
「じゃあ、私とそう変わりのない男ですな」
「………」
「どこか違いますか?」
私は返事をしなかった。確かに私は彼にいくらかのお金を融通している。けれど肯定したくなかった、そして内心で一期さんに腹を立てていた。
一期さんは良いんだ、お金目当てだって。私が好きだから、それでいい。
「……その方がさんのお金目当てだとして、どうして、そうだと分かるのでしょうか」
「分かりますよ、決まってます」
「どうして?」
「だって今まで見向きもしなかったくせに、急に話しかけてきました」
それは私の中ではすでに結論が出ている話だった。彼は、会計全て私持ちの交際がしたいに決まっている。そして私が簡単に騙せそうな人間に見えるから、ひっかける気になったのだ。
だけどなぜか一期さんはしぶとく、この話題に噛みついてくる。
「ずっと貴女のことを見ていたのかもしれません。そして、最近になって勇気が湧いた、とか」
「勇気が湧いたとしても、その理由って、やっぱりお金ですよ。だってそれしか考えられないじゃないですか」
「何か自分に自信が持てるような出来事があったのかもしれません。それで貴女と関わってみる気になったというのは考えられませんか?」
「どうしてそんなこと言うんですか」
なぜ、一期さんが、嫌悪する彼の肩を持つのか理解出来なかった。一期さんのことは理解できないことばかりだ。性質からして違う世界の存在だけれど、そんな一期さんを不快だと思ったのはこの時が初めてだった。
当の一期さんは私がイライラしている様も的確に読みとって、そして哀れみの目を私に向けたのだった。
「さん、貴女は貴女が思うほど嫌われる理由の無いひとですよ。少なくとも私は」
「っ私は!」
その時迷惑なことに、私は夜の住宅街で激情に駆られた。そして大声をあげ、一期さんにたたきつけた。
「人間なんて! 大嫌い!!」
叫びだしていても頭の僅かな部分は冷静で、私を笑っている。人間が大嫌いだなんて。私だって人間で、一期さんだって人間なのにね。
「私は何も変わってない! 最初から姑息で、卑怯で、恐がり、で、臆病のめんどくさがりの……っ、愚図の!」
「さん」
さん、と一期さんが私を呼んでくれている。落ち着くようにとその深みのある声をかけてくる。
「私はずっとそういう人間、で! 分かってるんですよ! なのに勝手に目の色変えて!」
「さん!」
「ありえない、ありえない! 気持ち悪い!」
私が聞かないからだろう、一期さんまで声をあらげ、両手で私の肩を抑えた。
「昔から、そんなのばっかじゃないですか……! 私は何にも変われなくて、なのに!」
「さん、もう、良いですから」
「良いって何がですか!」
私の、面倒くさい部分を見せるのをもうやめろということか。関わることに多大な労力がかかるから、それ以上は口の中、噤んでおけということだろうか。
「何も考えないでください」
「どうやって!」
考えないなんて出来ない。どうしようも無い私は、今ここに確かに存在している。住宅街の夜道に、一期さんの目の前に。何度邪魔だと思っても消えてくれないじゃないか。
頭の悪い私。一期さんがこんな私にも分からせたいと思うならば、いっそ私に手を挙げて欲しい。狙って傷つけるのは顔で良いから、私を止めて欲しいと思った。
私の願いが通じたのかもしれなかった。一期さんは私を止めてくれた。一期さんの、だけど一期さんの発想とは思えない、唐突なやり方で。
体が強ばる。足が突っ張る。首がひきつる。息が止まる。指が意味無くもがく。合わさる唇と唇に、つまり、一期さんからのキスに。体の隅々が支配されて、そんな風にいびつに震えた。唇に上から乗せられる、もうひとつの唇。それは乾いていて、だけど隙間の奥にかすかに湿っぽい気配があった。
一期さんは口づけ方もスマートで、顔をきちんと傾けてくれた。だから、頬に埋まる彼の鼻の感触があり、私が見つめるのは彼の耳の向こうの虚空。離れる瞬間、ようやくそのまつげの長さを見ることが出来たくらいだ。
一期さんが、籠もった、なま暖かい息を吐き出す。なま暖かい息で、言い聞かせるように言った。
「もう何も、考えなくて良いですから」
翌朝私は、マンションのロビーで一期さんに、ごく普通に出くわした。
「おはようございます」
「おはよう、ござい、ます……」
目の下にいつもよりひどいクマを作っている私に対し、一期さんは今日もさっぱりと目覚めたらしい。昨日の夜、道ばたでキスなんかしたくせに、一期さんは涙袋を涼やかに膨らませて私に挨拶をする。
「流石に怒っていますか。昨日のこと」
またそうやって、さらりと口にするから私は困り果てる。あの合わせただけのキスを、どう位置づけるかについて、だ。
あんなのは、何も考えなくて良くなる方法じゃない、何も考えられなくなる方法だ。そして憎らしいくらい効果は絶大だった。
「……怒ってるように、見えますか」
「ええ」
なぜ笑顔で肯定できるのだろう。一期さんをこんな風に厄介に感じる日が来るとは思わなかった。キスひとつに頭を占領された夜を明かして、私は途方もなく疲れているというのに。
「一期さん」
「はい」
「……私、実は一期さんを遠くから眺めているだけでも十分満足して生きて行けたのではないかって。そんな風に考えてたんですけどね」
スーパーで働きながら、変化する人々の視線におびえていた。けれど一期さんとその兄弟たちが与えてくれた思い出のおかげか、遠くから見ていることに意外と平気な自分に気づいていた。そして夕暮れと夜の境目に、白熱灯の電球が点いているのを眺めて帰った夕暮れで悟った。言葉交わさずとも彼らは私の救いになってくれている、と。
恋の先へと逃避することはきっと出来るし、そういう行為は恐らく存在するのだろう。
だけど辛いことなんて、惨めなことなんて、私の人生には山ほど溢れていて、それは当たり前のことなのだ。私はずっと自分の不器用さと一緒に生きてきた。
だから思い至ったのだ。
私はこのひとを二万円で欲しがらなくても良かったのかもしれない。
本当はもっと早く、そのことに気づけていれば迷惑をかけずに、言ってしまえば彼に唇なんか使わせずに、生きていけたのかもしれない、とも思っていた。
そんな、新たな考えに行き当たっての私の発言に、一期さんは、少し意外な反応を示した。
「そんなことを、仰らないでください」
願い事じみたそれは笑顔、けれど寂しそうな笑顔とともに吐き出されて、私は続けたかった皮肉交じりの言葉をどこかへ失ってしまった。本当はこう続けたかった。「私、実は一期さんを遠くから眺めているだけでも十分満足して生きて行けたのではないかって。そんな風に考えてたんですけどね」「考えていたはずなのに、あなたがあんなことするから、せっかくの考えがどこかへ行ってしまいました」。
そしてその続きはとうてい言葉にして伝えられない。あなたの口づけは私の甘えに口づけたも同じ。私をまたひとつ依存したがりにさせましたなんて、言えるわけが無いのだ。