らりるらメゾン


 扉に鍵を差す。普段屋上に上がることは滅多になく、業者が点検に来たときくらいなものだ。それこそ何ヶ月、下手したら一年触ることのなかった扉は放置され、最早錆びているものかと思っていた。けれど回すと案外ぱちんと素直な音を立てて解錠された。
 扉を開ける。薄暗い階段に光が溢れた。


「………」
「わあっ!」
「ひろーいっ!」


 声も無く立っていた私を、追い越していく少年たち。みんなが一斉に開け放たれた屋上で散り散りになって蒼天を仰ぐ。


「改めて……よく晴れていますな」


 弟たちは私を追い越して屋上に出ていったというのに、一期さんだけは私の背をそっと押す。私はバランスを崩すようにして、不可思議にソフトな屋上の地に降り立った。


「いち兄、あそこに鳥が!」
「やっぱ広いですねー!」
「す、すごいです……」
「掃除の必要はありそうだが、スペースとしては十分だな」


 屋上を見て回って、それぞれにはしゃいでいるのに響き合っている会話。私は入り込めずに眺めている。


「お体の調子は?」
「……、全然平気です」


 一期さんは先週ひいていた風邪のことを言っているのだ。私はどう見ても気力や生命力に溢れた人間では無く、風邪をひくこともそれが長引くこともよくあるのだけれど、この優しい人物には思わぬ心配をかけてしまっていた。


「薬、すごく効きました」


 一期さんはたまに、笑顔をそのまま返事として使う。美青年の顔立ちが目を細めて笑みをかたどると、急に視界が、桜の花びらを透かした向こう側のようになる。この笑顔に落ちてしまった身としてはやめてもらいたいような、そうでないようなである。


「本当に良いのでしょうか? 私たちに、この屋上を貸していただいて」
「え、だって。あの2部屋のベランダじゃお洗濯物、間に合わないんだって、一期さんが」


 今週のこの町は、どんよりと暗かった。何が暗かったかって天気だ。曇り、小雨、台風と一週間ほど続いた。この日曜日にはようやく晴れると天気予報が告げた日、一期さんが世間話がてら言ったのだ。


『ようやく洗濯物が干せます』


 乾けば良いんだ乾けば、とばかりに万年部屋干ししてる身としては、洗濯物のために太陽を待ちわびているだなんて新鮮な一言だった。
 けれど一期さんはまた、顔を曇らせる。


『でも、随分溜めてしまったので、明日で干しきれるかどうか』
『ああ……』


 あの弟たちの数だ、一度おじゃました時も、お皿の数に圧倒された。洋服の数だって、お皿同様に私を飲み込んでしまうくらいあるのだろう。一週間、兄弟分の洗濯物を溜めて、よく部屋に収まったものだと思ってしまう。


『布団も干したいところですが、まずは服でしょうな』
『………』


 一期さんと話していると、忘れていた、自分の持ち物を思い出す。持っているけれども持て余していた。そういうものたちが、ふさわしい持ち主を感じ取って息を吹き返したのかもしれない。
 そういえば、うちのマンションにも屋上があった。あの、薄いゴムを踏みしめるみたいな触感の、病院みたいな色をした塗料を塗りたくった屋上が呼吸を再会した瞬間だった。

 これで洗濯物が全部いっせいに、干すことができる。みんなのお布団も、漏らさず一緒に。だけど一期さんは迷っているようだった。


「何か迷う理由があるんですか」
「迷いばかりですよ」


 そんなに? そんなに迷う理由は多い? 私はそっと自分の二の腕をさする。
 もし、一期さんの迷惑になっているなら、私はすぐさま引き下がりたい。どうしようか、でも屋上の鍵は開けてしまった。まだ取り消せるだろうかと思案しているうちに、屋上には布団やシーツが運ばれてきてしまった。一期さんが今度こそ私を置いて飛び出していく。


「待ちなさい。一度手すりを拭いてから布団をかけなさい」
「はーい」
「濡れ布巾、持ってきますね」
「いち兄、ブルーシート持ってきた! これひいて、洗濯もんの中継地にしようぜー!」


 次々と運ばれてくる洗い立ての衣服やシーツ。邪魔にならないようにそっと横に退いて見ていると、彼らが引っ越してきた日のことを思い出した。
 みんなそれぞれに豊かな個性のまま、ばらばらに動いているはずなのに、彼らの間には一律の規律を感じるのだ。もう布団とシーツは全て干し終わったようだ。言葉でのやりとりが省かれているからか、物事がすっきりと速やかに片づいていく。誰ひとりとして、誰かの邪魔になっていない様子はひどく羨ましい。そして一期さんの笑顔の横顔。
 家族への幻想はとうに潰えた。だけど現実、彼らは美しい。美しい家族だ。









 馴染めなかった学校生活。みんながあるあると語る思い出を、私は何も持っていない。現在進行形で若さを食い潰している。生きているだけで素晴らしいという言葉でも救いを見いだせない。
 私と卑屈さはほとんど一緒の存在だけど、どうにも暗さが行きすぎていて、いつもみたいに生きていけない。そう思ったら流行りの風邪にかかっていた。先週の話だ。

 風邪にかかったら私はいつも、自力で治している。水分だけとって、辛い気分を押し殺しながらとにかくじっと耐えて寝る。そうするとじんわりと風邪をどこかに追い払ってしまう自分がいて、案外まだ生きたいのねと笑うことになる。
 ウイルスの抜けが悪く、熱を出して三日目の夕方だった。一期さんが部屋を訪ねてくれたのだ。
 起きあがるのは正直辛かったけれど、ドア越しの、さん? という声にはあらがえなかった。パジャマ姿の私を見るなり、一期さんは、


『気づくのが遅くなりました。申し訳ない……』


 などと謝り、手のひらですばやく熱を確認した。気分や痛いところなどを優しく問いかけて、上着を探し出して着せ、保険証や診察券などを探し出す。慣れた動作だった。
 一期さんが私を医者に診せようとしている。頭痛の走る頭でそう気づいた私は、一期さんに私の鞄を持ってきてもらうよう願った。鞄の中にはお財布とケータイが入っている。ケータイにはタクシー会社の番号も控えてあるから。

 夕暮れの、閉まるぎりぎりのクリニックで、一期さんは私をここまで連れてきてくれたどころか、順番待ちの間も付き添ってくれた。
 こんなのは子供のとき以来だった。高熱にうなされている私の横に、誰かがただいてくれる。公共の場のソファの上、そのひとの時間を食い潰していることに罪悪感を覚えるのに弱った体では人恋しさを追い払えずに甘えるのだ。風邪をうつしてしまったらどうしよう思いながら、体を預ける。
 見離されたって文句なんか言うわけ無いのに、一期さんは私がいつ欲しがっても良いようにとスポーツドリンクを手に持ち、細かに気を配ってくれた。寝てもいいですよ、なんて言って膝を貸してくれた。


『辛いのですか』


 そう聞いてきたのは、私が頭を彼の膝に預けながら泣いたからだ。熱病の中で流す涙は熱かった。押し殺した、大人の泣き声が診察室に響いていた。私は、こんなに優しくされることに歓喜しながら、耐えられないでいた。

 耐えられない。逃げ出したくなっている。優しくされることに怯えている。不意に向けられた甚だしい暖かさを、上手に受け取れずに震えている。

 彼から滲み出すものを浴びながら私はこの数ヶ月を過ごしてきた。一期さんがどんな人間なのか。それを私は以前よりが、知ることができている。だから、この優しさが無償の優しさだと頭では分かっている。無償こそが、私の怖いものだ。受け取った代わりに、何か大事なものを失うのでは無いかと頭の中に闇が広がる。一期さんのようなひとが偏屈ないじわるは言いそうにないと分かっているのに、消えないのだ。彼が私を見離す妄想が、消えない。

 彼の、人間を見捨てる表情なんて想像でしか見たこと無い。だけど長年拒絶され続けたみたいに何度も思い浮かぶ。体の熱さから膝の体温にすがりればすがるほど、彼を失う妄想が私を襲う。
 どうして私は、暖かく接してくれ、今も私を見守ってくれている、横に存在する一期さんを信じられずに、頭の中にしかいない冷酷な彼の方を信じているのだろう。どうして私は目の前の彼をこんな簡単に裏切ってしまうのだろう。私が絡め取られているこれは、これは恋じゃない。ただ怯えているだけ。大きすぎる蕾を持つと首が折れてしまう花みたく、自滅しているだけ。
 大人の泣き声が診察室に響いていた。








「目を、つぶってください」


 一期さんの声のままに、私は瞼を降ろした。視界が閉ざされると、周りではためくシーツの、洗剤の香りがいっそう強く感じられた。

 洗い立てのシーツの狭間を歩く。できすぎた白に囲まれているとそれもまた、非現実的で、夢のような光景だった。彼等の生活は、私の現実とはほど遠い。切なさのようなものを覚えながら洗濯物の香りを浴びていると、乱くんが言ったのだ。大家さん、前髪切らないの。
 言われると確かに前髪が目に入るくらいになっている。乱くんはかたちよく笑って、多分、最初から落としたかった場所へ私を誘った。


『いち兄は、髪を切るの上手なんだよ。こんな晴れの日にね、よく切って貰ってたんだぁ』


 それから乱くんは私が何か言う前に一期さんを連れてきて、私の前髪を切る段取りを決めてしまって、私も案外すんなりと受け容れてしまった。

 目を閉じて、少ししても鋏の音が聞こえない。


「一期さん?」
「……実は、大人の髪を切るのは初めてでして……」


 どうやら一期さんは緊張しているらしい。珍しい。気が進まないことに苦笑いはするけれど、結局そつなくこなしてしまうひとなのに。


「子供っぽい前髪になってしまうかも」
「良いです、それで」


 一期さんが切ってくれるのなら、なんでも。元から頓着の足りていない人間だ。それに彼にはどうにでもして欲しい。
 膝の上でぎゅっとこぶしを握ると、ややあって、乾いた指先がおでこに触れた。それから、しゃく、しゃく、とした音ともに鼻先でぱらぱらと散るもの。彼に全てを任せながら、私はなんとなく密林檎を食べている時の口元を、思い出していた。







 クリニックから帰って、布団に寝かせてくれた一期さんに私はお金を手渡した。
 今日の、代償を支払ったつもりだった。その行為無しに彼の人生の時間を受け取れないと思った。

 お金を差し出すと、一期さんはこんなもののために貴女を看病したわけじゃあありませんと怒っていた。けれど、無理に押しつけ、受け取らせた。
 彼がお金を得た。その姿を見た時、頭の中だけにいる冷めた表情をした、けれどどこか私に相応しい一期さんの影が薄くなった。
 私は金を握る彼を見て、心の底から安心した。彼の無償の優しさは受け取るのが怖い。けれど金銭を渡したことで、クリニックへの付き添いは、有償の優しさになったのだから。

 何もかも、私が弱いせいだった。
 一期さんの横で咽び泣いたことでよく分かった。私には恋をする資格は無い。彼を好きになることは簡単だった。でも、好きでい続けるために必要なものが、誰かを信じるための素質が欠けている。貴方がどれだけ優しかろうと、私では、貴方が与えてくれたものを簡単に裏切ってしまうのだ。




「できました」


 鼻の頭についた毛を、ハンカチで拭われてから目を開けた。瞼の裏でも明るさを感じていたけれど、隔てるものを無くして飛び込んできた屋上の眩しさに思わずひるんでしまった。


「………」
「どうでしょうか……」
「おおやさんっ。はい、鏡」


 すぐに手鏡が出て来るなんて、乱くんはさすがだ。のぞき込むと少し子供っぽくなった私が、私を見ている。指先で触った前髪は、思った以上に短い。


「良いんじゃない?」
「うん、良いです」
「良かった……」


 本当は、似合っているのかどうかも私には上手に判断できない。ただ、一期さんがやってくれたものだから、何でも良かったのだけ。
 けれど一期さんは私が気に入るかどうかを本気で案じていたようで、目を潤まして喜んでいる。彼の純心が胸に痛く、私はふらふらと屋上の端っこへと歩いた。

 さっぱりと明るい視界に、乾いていくシーツの白さがまた痛いくらい感じられた。切り立ての前髪を、何度も指でなぞる。前髪なんか何もしなくてもそのうち伸びて、形が分からなくなってしまうのだろうけど、私にとってこれは立派な一期さんからの贈り物だ。
 くすぐったい気持ちを抱えながら考える。どのタイミングで彼にお金を渡そう。弟たちの前で渡すのは、彼の立場としても教育上も良くないから、どこかでこっそりとやらなければならない。

 一回覚えた安心を、私はすぐに繰り返し求めるようになった。何かをしてもらったら、私がお金を払う。だいたい千円札を何枚か。人間を買うには高くて、男を買うには安い値段を一期さんに手渡すことで、私はようやく、彼の優しさを普通に受け取れた。

 優しさの代償に、お金を押しつける。新しい習慣が生まれてしまったのは、ただ私が弱いせいだった。だけど、選択は案外間違っていなかったと思っている。この方法があるから、私は彼に髪を切ってもらうことさえ魔法のように受け容れられるようになった。
 前よりずっと自然に、彼の横に立てている。弱くてごめんなさい。貴方がどれだけ優しかろうと、私では、貴方が与えてくれたものを簡単に裏切ってしまうのだ。