らりるらメゾン


 お見合いの前夜、私は眠らなかった。眠れなかったのではない、選んで寝ないことにした。叔母に来るようにと言われた時間はかなりの早朝で、起きる自信が無かったのだ。もしも起きれなかったら。そう思うと不安で仕方がなくて、ならば寝なければ良いと横にならずに一夜を過ごした。
 一睡もせず、重さを抱えた身で迎えた朝は薄暗かった。そのはずで、外は大雨だった。
 どうしてこんな遠出をする日に雨は激しく降るのだろう。ビニール傘を差しても雨は横から足に吹き付けて、それだけで気分が下がった。けれど、家を振り返ると彼らのいる階層にきちんと明かりがついているのが分かった。薄暗い曇天の中でそれは際立っていて、ここには陸があると教える、灯台の明かりのようだった。

 私も、私以外の世界も未だ暗いのなか。眠くて、寒くて、だるいという体調不良を抱えて、私はお見合いの、男と会うための準備を施された。
 私は多少ハサミを入れてもらいながら髪の毛のセットをされて、髪の手入れの悪さについてチクリと言われ。薄く化粧を施してもらい、普段化粧をきちんとしないことにああやっぱりという顔をされ、散々だ。ただ叔母が持ってきた服に着替えた時だけは、体型を褒められた。偏食で太っていないだけなのだけれど、お世辞でも余所行きの服が似合っていると言われたのは、かすかに暖かかった。かと思えばさっさと車に詰め込まれる。散々だ。
 車が止まって、叔母がシートベルトを外しながら言う。

「お相手は鶴丸さんだからね、名前間違えないでね」

 忘れていたとは口が裂けても言えなかった。




 中庭を見せるためのガラス張り。その外ではまだ雨が降っている。ホテルのエントランスは、柔らかなタイルカーペットが敷き詰められていて、下から寒さはやってこないはずなのに、私は凍えていた。肌寒さは朝からずっと続いている。寝ていない食べていない上に、家を出てすぐ雨にも濡れてしまったせいだろう。私は緊張というより寒さで体の末端を震えさせていた。

「お待たせしてすみません!」
「あ……」

 ずっとここまで先導してくれた叔母が小走りで行ってしまった。先に来ていた背の高い男性は叔母と親しい様子で話している。
 黒髪、形の良い顎。しっかりと肩幅があるのに黒でまとまった服装が、彼のたくましさを品良くまとめあげていた。私を見つけるなり、金の目が人懐っこく細まる。
 どうやら私の見合い相手ではなさそうだと思いながら会釈をした。その眩しいくらいの人の良さ、見目の良さからして、どう見ても彼にはお見合いなんか必要がない。こんなことしなくとも交友関係には困らないそうだからだ。多分あれは、見合い相手の付き添い人なのだろう。

「僕は燭台切光忠」

 ほら、やっぱり”つるまる”ではない。

です」
「今日は生憎の天気だね。でも来てくれてありがとう!」
「いえ……」
「あれ。鶴さんはさっきまでここにいたんだけど……ごめんね、あの人自由なんだ」

 待ち合わせだったはずなのに、当の本人はどこかへ行ってしまったらしい。
 私はふう、とひとつ息を吐いた。お見合い相手の鶴丸さんは私の釣書なんかは見たのだろうか。見たとしたら、私なんかに会ってみる気になったそのひとは、今日どれだけの暇人だったのだろう。私だって相手の名前すらまともに覚えていないくせに、そんなことをふと考えた。

 窓の外を見ると雨は弱まっていた。一日中雨の予報だったのに。
 室内なのに肌寒いと思っていたがよく見ると、窓が開いている。誰かが開けてきちんと閉めなかった隙間が細く、風の入り口となっていた。

「………」

 のろのろとでも隙間に手を伸ばしたのは、単なる勘だった。まだ腐りきってはいなかったらしい勘が拾い上げたのは、隙間からなだれこむ冷たくも不思議のいざない。
 隙間を広げると、風もまた強く入ってくる。巻き上げられた小雨が額や頬に当たった。寒い、やっぱり凍えると思いながら一歩外へ出て横を見ると、その白いひとは見つかった。

 後ろ姿のそのひとは、白いシャツにジーンズを履いている。女性ものより細身のジーンズなのにそれをまだ余裕を残して履いている。何もかもが細いようで、裾から覗く手首もやはり細かった。首も長ければ、肩にかかる長めの襟足も。
 汚らしくはないけれど、海辺にもいそうな、ラフな格好だ。ジーンズの後ろのポケットにはカバーの外された文庫本が入っている。本の角はいずれも丸くなっていて、愛読が伺える。

 彼は、私とは正反対の出で立ちだ。叔母に選んでもらった服を着て、髪も顔も自分でやったものではない私。彼は、服も今日のためのものじゃなく、自分で選んだ全てでできている。いつも読む本をポケットに差してさえいる。
 お見合いに来た格好には見えない。だけどこのひとだと思った。曇り空に溶けそうな頭髪、ひゅるりと空へ旅立ってしまいそうな手足。雨上がりに立っているこのひとが今日、私が出会うひとなのだ。

「……、」
「鶴さん! 何してるの!」

 私が何か言う前に、後ろに立っていたあの付き添い人が窓を大きく開けて彼を呼んだ、呼んでしまった。
 振り返った鶴丸さん。目の色は、蜜色だった。





 鶴丸さんは貼り付けた笑顔で私の隣に立った。光忠さんに対してはあれこれと笑いをまじえて喋っていた。明るくて、友達も多いタイプだろうと思ったのに、予約した席へと歩き始めると笑顔のまま言葉を閉ざした。
 前を行く叔母と光忠さんをぼうっと追っていると、一度だけ、鶴丸さんが喋った。

「なんだ君、凍えているのか? まだ9月だぜ」

 とっさに彼の言うことが理解できなかった。9月であることとこの寒さは関係ない。私は夏でも冷房のかけ方が下手で体を冷やしている。私はどちらかというと年中凍えている。
 頷くと、鶴丸さんは一瞬目を大きくさせ

「そうか」

 とだけ言った。

 ホテルのラウンジの、奥まった席に私たちは通された。
 私を奥の席へと光忠さんが案内する。さっきから私は鶴丸さんより光忠さんと言葉を交わし、鶴丸さんより光忠さんから客人として扱われている気がする。この人は本当に付添人なのだろうか。

さん、どうぞ」
「いや。きみはこっちに座りな」
「? 鶴さん、どうして?」
「光坊。今日の窓際は冷える」

 それだけ言うと、俺のものだと言わんばかりに鶴丸さんが奥の席に腰を下ろす。そしてついた途端にくしゃみをした。

「鶴さん……」
「すまんすまん」
「まったく。無闇に外に出てるからだよ」
「で、ここからどうするんだ?」
「まあスタンダードに二人のことを紹介しあおうかなと思っているけど。どうする鶴さん?」
「そうだな。おれは少し、彼女と二人で話してみたいんだが、そういうのはアリなのか?」
「え? それは今すぐかい? それは、さんがよければ……でも……」

 言葉に詰まる光忠さんに、叔母が優しい声で聞いてくる。

はどうする? まずは私たちがいた方がいいかしら」
「だい、じょうぶです、なんでも」
「じゃあ、話そうじゃないか。俺と、きみで。それが一番互いを知れると思わないか?」
「分かった。じゃあ僕たちはここで。だけど鶴さん、さんに優しくね」
「分かってる」
もね」
「はい……」

 叔母たちが席を外す。ラウンジを出ていき、ホテルからも出て行く。そうして、本当の二人きり。私たちだけになるのを鶴丸さんは待っているようだった。
 もう笑顔は貼り付けていない。ただ、沈黙して時を待っている鶴丸さんを、彼の考えの読めなさを、私は恐ろしく思っていた。

「何を頼む」

 第一声はそれだった。

「……、……ホットミルクを」
「きみ、さてはコーヒーが飲めないな? 甘党か」
「………」
「よし、おれもホットミルクにしよう。美味しいし、白いところが良いよな。それに体があったまる」
「はあ」
「さっききみが震えているのが、緊張のせいか。はたまた光坊が怖くて震えているのか、それとも寒さのせいなのか分からなかった。怖いのかとは聞けないから冗談混じりに聞いたんだが、まさか本当に寒くて震えているとは」

 そう言われてやっと、「まだ9月だぜ」の言葉が皮肉だったことに気がついた。まさか寒さで凍えてるってわけじゃないだろ、と私をからかっていたのだ。

「震えてたのは、本当に寒かったからです。今日の準備に、時間が必要だったので。昨日は寝てないんです」
「そうか。女性は大変だな。9月でも凍えるような寒がりだってのに、それでも今日みたいな日はスカートを履かなきゃならない」
「でも、鶴丸さんは女性に温かい席を譲らなければならない」

 私がこんな返しをするとは思わなかったらしい。一拍遅れて、

「ああ、まったくだ!」

 鶴丸さんが歯を見せて笑う。その笑顔に、ホットミルクの湯気がくゆった時、私は鶴丸さんに対し、ひとつの運命を感じた。




「こういった席は初めてか?」

 頷く。

「奇遇だな、俺も初めてだ。フローリングよりも畳派だしな。君は結婚願望があるのか?」

 私は首を横に振った。

「はは! 俺もだ。俺は今が楽しい口だ。恋人はいないが孤独ってわけでもない。今現在は俺が知っている中で、かなりベストに近いんだが、周りはそう思わないらしくてな。日々心配をされている。特にあの光忠には」

 私はあの黒いひとを思い出す。人懐っこい金の瞳。確かに、よく言えば暖かな、世話焼き人らしい雰囲気が彼には会った。

「君の叔母と光坊はあれで仲が良いんだ。料理仲間だよ」
「そうだったんですか」
「ああ。スーパーでよく会う仲らしい。今頃二人で美味いものでも食べに行ってるんじゃないか? 料理で息があって、俺たちも引き合わされた、ってわけさ」

 鶴丸さんは割と口数が多い。何かひとつのことを言う時、その表情は波のように豊かに変わる。最低限の返事しかできなくても、彼からはごく短な物語のようになって帰ってくる。それは口下手な私にとってはありがたいバランスだった。

「俺は見合いなんて必要ないって言ったんだがな。君は?」
「はい」
「君には見合いが必要だったのか?」

 私も叔母に強引に引き合わされて、ここにきた。だけれど、お見合いがまったく不必要だったかと言われるとそうでは無い。私が言葉に詰まっていると、鶴丸さんが不敵に笑う。

「そうだな、当ててやろう。君には好きな男がいるんじゃないか?」
「………」
「気を悪くしないでくれ。せっかくの結婚を望まない同志の出会いだ。だから何か楽しく話をしようと思っているんだが、君の恋について聞いても構わないか?」

 気が合わなければお茶だけ飲んで帰ってくれば良いと叔母に言われている。はなからそのつもりだった。けれど、目の前に座る鶴丸さんは一筋縄では行かなそうだった。