「ただ今戻りました」

 長身が頭を垂れる。その頭の主、へし切長谷部を見ながらわたしには可愛らしさの無い想いが浮かぶ。
 へし切長谷部を困らせてみたい、と。

 想うだけだ。私は彼を見ず、庭の木々を見て心の籠もらない言葉を伝えた。

「ふーん。ご苦労様」

 文字通り、礼儀を失ったな態度に、彼が顔色を変えることはない。それどころか労りの文言があったことで彼は満足したらしい。私の前にて、折れた体が元に戻る頃、男前の顔には笑みが浮かんでいた。
 そうやって彼が、私の言うことにはなんでもはいはい、と頷くから、彼を困らせてみたいなんて卑しいことを考えるようになってしまったのだ。“はいはい”などと軽率に表現したが、彼自身はとても恭しく私などに頭を下げ、ひとつひとつの願いを丁寧に叶える。言葉の通りに動く。わたしの願いを叶えることが、自分の願いだと言うように彼は私などを行動の基準にするのだ。

「主」
「……何よ」

 不細工の思案顔のまま、わたしはへし切に視線をやる。

「へし切の方から呼ぶなんて珍しいね」
「主のご気分が優れないようですので」
「別に気分は悪くないわ。機嫌が良くないだけ」

 ぶっきらぼうに突っぱねる。けれどわたしの心中は、少し跳ね出す。彼の方から話しかけてくれた。何も言わずに私について、私が命じれば、異を唱えることなく従う。そんな彼にしては珍しい自発的な行動が、新鮮だった。

 へし切長谷部から話しかけられた。悔しいが、それだけで舞い上がりそうな自分がいる。

 そう。へし切長谷部を困らせてみたいという、幼稚な願望を抱いてしまうのは、私が彼にそれこそ稚拙な恋をしているからなのだ。

 けれどその好意を純粋に彼へ注げないのは、私が彼へ、怒りのようなものを抱いているからだ。

 それは初めて会った瞬間、その時から彼は、私と彼の間に主従という関係を当てはめた事に由来する。
 強制的に私を主に仕立て上げ、へし切は従者になりきった。私と彼はもっと、別の関係になれたかもしれないのに、その可能性を潰し、突っぱね、今の関係へ私達を押し込めたのは他の誰でもない。へし切長谷部なのだ。

 本来ならば慕われるはずのない主が慕われ、逆に心を奪われて彼の心を試そうとして意地悪を考える。考えるくせに行動に移らないのは、中身の伴わない主従関係でさえ壊れたらどうしようと怯えるからだ。
 好きだから今の関係が嫌なのに、好きだから動けないでいる。私は、大変な意気地無しである。この恋が叶わぬと知るまでそう時間は掛からなかった。

「ねえ」
「はい」
「あのお花、綺麗ね。でもあんな高いところにあってはよく見えない。もっと近くで見たいわ」

 そう言ってわたしは、庭の木蓮を指さした。細く若い木だが、庭の中でも丈が長い方に入る。木蓮はこれからが盛りとばかりに、どんどんつぼみを解き放とうとし、気の早いいくつかは既に口を開いていた。
 すぐさま私の願いを叶えようと動き出した彼に私は続ける。

「へし切。枝を折ってはだめよ。木が可哀想だもの」

 やっぱり彼は枝を折って私に見せるつもりだったのか。ほんの少しだけ彼が表情を崩したのを見て、ふと生まれる優越感の私の口元が歪もうとしたところだった。

「勿論です」

 へし切は淀みなく答えると私の足下へ屈んだ。何かと戸惑えばすぐ、視界が揺れる。彼が私の膝裏に肩をあて、そのまま立ち上がったのだ。

「ひっ」

 急に高くなった視界。おんぶでもだっこでもなく、肩車に近いかたちで抱え上げられる。でも私が乗るのはへし切の、片方の肩だ。幼い頃には何度かしてもらった肩車だが、私はもう明らかに幼女という部類では無いし、へし切が私を乗せるのは両肩でなく片側の肩だから全く勝手が違う。なのに彼の軸はぶれずに私の足となり、しっかりを私を抱えた。

「手を私の首に」

 彼の声のままに、片手を首筋当てると思いの外安定する。それでも手には彼のさらさらとした髪があたり、私の足には落とすまいとする彼の腕が絡みつくこの状況。余裕なんてあるはずが無いのに、へし切はなんと歩きだし、木の前で立ち止まるとこう言った。

「どうですか? 見えますか?」

 あっけらかん。その音がふさわしい声色であった。
 確かに見える。木蓮の花がよく見える。花弁も新芽も、花の中から発ち次の花へと移った蜜蜂まで見える。
 けれどわたしがそれどころではない。花から目を離し、つむじへ、言葉を浴びせる。

「あっ、貴方のそういう態度、良くないわ。機転を利かせたつもり?」
「こうして無礼をするよりは枝を、と思ったのですが、折ってはならないとの事なので」
「そうじゃなくて! 私が意地悪を言ったこと分かってるんでしょう? 貴方には不平を感じ取ったらそれを訴えなさいよ。あのね、私がどんどん嫌な主になるのはへし切長谷部、貴方のせいよ」
「俺は、貴女を嫌な主だと思ったことは一度もありません」

 そう彼は言い切った。肩の上からでは見えないが、今彼は出会った時から変わらない、善良ではあるが決して心の見えない笑みを浮かべていることだろう。

 へし切長谷部を困らせてみたい。貴方を好きになってしまったが故、そんなことを考える。私の意地悪に言葉を詰まらせた時、彼の考えが及ばなくなった時の顔を見てみたいのだ。

「へし切は、一体何が好きなの? 貴方自身のことを教えてよ」。そんな質問をぶつけて、一瞬でもその繕った顔が崩れて、そこで本物の彼が見える気がする。だから私の稚拙な恋心は、いつか貴方が困って困って困り果てたら良いと、想うのだ。