「薬研ーーー!」


 縁側も障子も全て通り抜けて響きわたる、くすみの無い明るさ。こんな奔放な声の持ち主は、どう考えても俺の大将のものだった。


「薬研ーーーー!?」


 返事がちょっとでも遅れるとこの様子だ。三度目に呼ばれる前に姿を現せば、大将はこちらへ笑顔を咲かせた。


「薬研!」


 やれやれ、その無邪気さでこっちまで笑いだしている。
 外は彼女の表情と同じように晴れていた。少し強いくらいの日差しの中、はどこからか連れてきた馬の首を優しく叩いて撫でた。


「見てこの馬! 報酬で本部から送ってもらったの! 名前はね、えーと……」


 は馬が落ち着いているのを確認してから、手元の資料に目を通す。
 俺の大将は、俺が言うのもなんだが見た目も振る舞いも言ってしまえば小娘だ。だというのに、馬はすでに彼女を主人と見なしているようで大人しく尾を揺らしている。


「随分立派な馬じゃねぇか」
「そうなの。私、馬には明るくないけど、それでもすごくかっこいいってことは分かるな」


 素直過ぎる物言いに、俺はまた大将に笑わせられている。


「あのね、薬研。私、この子を薬研にお願いしたいなと思って!」
「俺っちに、この馬を……?」
「うん!」
「それって馬当番ってことか。面倒を見れば良いんだな。任せておけ」
「ち、違うよ! 実戦で乗って欲しいってこと!」


 馬当番じゃなく、乗るためにこの立派な馬を、俺に。それを聞いて、らしくなく反応が遅れてしまった。

 短刀と大太刀では戦い方も役割も違う。俺には俺の戦い方があるが、大きな刀の方が主戦力になりつつあるのを、俺自身も気づいていた。
 だというのに、は貴重であるだろう馬を俺に、と言う。


「もちろん薬研には薬研の戦い方があるし、合わないっていうんなら、わたしは薬研の戦い方を尊重したいんだけど……」
「本当に、良いのか?」
「うん、わたしは良いよ。いろいろ考えた結果、私は薬研に乗って欲しいって思った」


 彼女から差し出された手綱を受け取る俺の手はまだ迷っている。そのまま資料とやらも見せてもらう。
 この馬の名前、種類、親馬の名前、生い立ち、体の特性、好きな食べ物……。


「ね、とりあえず乗ってみるっていうのはどうかな。この子と一緒に少し外を歩いてみたり。薬研、どうする? 私も一応乗馬の訓練は受けてるんだ。だから、最初は私が前に乗ろうか」
「……そんなの決まってるだろ」


 俺が大将の後ろに乗るなんてあり得ない。俺がさっとまたがると、大将は俺を見上げ、喜色満面の笑み。
 乗り方を教えてもらってるという言葉は嘘じゃなかったらしい。も続いて俺の後ろに乗り、お腹に温かい手が回される。


「滑り落ちんなよ」
「分かってるって!」


 馬に乗る俺と、俺にひっついた。本丸の出口で他の奴らとすれ違ったが、は何も気にした風は無く、ただ、「お夕飯までに帰るね!」と溌剌とした声で手を振った。

 馬を試すためとはいえ、状況としては二人で本丸を抜け出したわけだ。
 すぐ後ろから声がする。


「ね、どこまでいこうか」


 どうやら目的地は特に決めていないらしい。静かだが、興奮が伝わる声だった。


「んじゃあ、行けるとこまで行くとすっか」
「いいねー!」


 後ろの人が無邪気に笑うのが分かった。

 馬の息づかいを見つつ走り、時に歩く。馬はかなり持久力を見せ、次第にその背から見渡す景色が赤みを帯びていく。相応の速度で風を切れば、顔が冷えたが、俺に甘えるようにひっついた大将のせいでちっとも寒くは無かった。


「ねえ、薬研」


 ずっと黙ったきりだった大将がふいに口を切る。それは昼頃に聞いた、障子をぶち破るような声では無かった。ただ俺っちに伝われば良いというように絞られた声。ただ、微かな音に変わろうとも、銀のように純な光を放ちそうな声だった。


「今ね、昔のこと思い出してたの。昔って言っても、薬研と出会ったばかりのことだよ」
「おう」
「まだ今みたいな大所帯じゃなくて、薬研とわたしと、数人だけだった時。私は本部から命令を受けてここにきて、薬研たちを率いることになったわけだけど。戦のことなんて全然分からなくて、自信なんてあるはずがなくて、心細かったなぁ……」


 の言う通り、出会ったばかりのは肝の小さそうなただの女だった。
 俺達を一心に頼りにするくせに、武器というものを知らない。敵の武器を向けられただけでひるみ、目を瞑ってしまうような女だった。

 それでも使命を果たしたいと願い、女だてらに指揮をとる今の大将に成ったのだ。彼女はもう、敵の切っ先が目の前に迫ろうとも目を瞑らず、全てを見極めようとするだろう。


「ほんと、情けない私だったのに、それでも薬研は、私のこと大将って呼んでくれたよね」
「………」
「私は臆病で、覚悟もなくて、大将なんて言葉とはかけ離れた女の子だった。今も大将と呼ばれて良いのか分からない。
 けどね、薬研がそう呼んでくれると気が引き締まった。薬研が私を大将と呼ぶから、私、大将にならなきゃって思った。女だからとか向いてないとか言わないで、みんなを率いる存在にならなきゃって」


 俺にだけは遠慮が無いが、今だけは厄介に思えた。彼女自身も照れているのか、背中が燃えるように熱い。


「薬研、ありがとう。
 私にはまだまだ分からないことばっかり。だからやりたいようにやるしか無いの。この馬は、薬研にあげたい」
「……、ああ」


 どうしようか。辺りはもう十分に赤い。だが一向に、帰りたいと思えない俺がそこにいた。