玄関のドアを全開にすれば、掃き出しの窓から夜風がまっすぐに吹き抜けてくれるだろう。そうは思うが、私が家にひとりの時は不用意に玄関を開けない。それが一期さんとの約束だった。カーテンのこともそうだった。特に夜は、あまり家の中を見せないように常に閉じていて欲しいと言われている。そんな約束を設けた時、一期さんは「わがままをすみません」と形ばかりの謝罪をくれた。当の私は、一期さんが私を大切にしてくれているようでそう悪い気はしなかった。
私は浅葱色のカーテンの隙間から今夜の月を見上げた。都会の眠りきれない闇夜に、ほっそりとした三日月が浮かんでいる。
お腹をすり減らした三日月に対して、私はもう食事をとった後だった。夕食はそんなには食べられなかった。なのに、胸が苦しい。
明日がもう近くに迫っている。一期さんは未だ帰られない。役所で届け出をしたのだから、私と一期さんの名は書類の上で、夫婦として並んでいるはずだ。思ったより強くきらめく指輪も、この薬指にある。でも頭のどこかで思う。私たちは夫婦になって、何か、変われただろうか。
ぱちん、と鍵の回る音がした。心臓がいやな方向へはねる。やましいことを考えていたせいだ。私は下唇を一度噛んだ。それから、お気に入りのスリッパが勝手に、ぱたぱたと無邪気な音をたててしまうのを気恥ずかしく思いながら、玄関へと向かった。
「おかえりなさい」
すぐさま鞄とスーツの上着を受け取る。
今日もお酒を飲んだのか飲まされたのか、一期さんの頬から鼻の頭までがいつもより血色良く染まっている。とろんとした目が私をとらえて瞬いた。
「まだ起きていたんですね」
「寝ていた方がよかったですか?」
いえ、その……、と言葉を濁らせる。困らせるような質問をしてしまったことを謝ろうとしたが、その前に一期さんの声が被さる。
「無理はして欲しくないのですが、でも今夜は少し話がしたかったので助かりました」
「そうですか」
「はい」
私との会話を望んでくれている。それだけで私の体は浮き上がりそうになるのに、当の一期さんはばつが悪そうに肩をすくめた。
部屋にこもっているのでは暑いから、と私たちは室内とベランダの狭間で少し話をすることにした。
この人が近くにいれば、私は風通しのために玄関を開けて良いし、二階からベランダに出て、ぼうっとしても良い。買ったばかりの冷蔵庫から一期さんが取り出したのは缶ビールだった。
「まだ飲むんですか」
「少し酔いがさめて来たので」
「………、まあ、いいですけど……」
しれっと涼しい顔で、結構飲むのだ、この人は。私はビールまで飲む気分になれないので、小さなグラスに氷と梅酒を入れた。
一期さんは先に窓辺に腰をかけて、素足——靴下はもう脱いでいた——を夜の闇に浸していた。彼が首を伸ばしてネクタイをゆるめるとふわりと夜風に乗って、かすかな汗の匂いがして、今更、今日は暑かったな、なんて考えた。
一期さんの横に、用意された余白に私はおとなしく収まる。そうすれば、二人で外へ足を投げ出して、肩を並べて、消え入りそうな三日月を見上げる月見酒が始まった。
「いつもよりは早く帰ってきましたね」
「はい。……それが、その、怒られまして」
「どうして?」
「まだまだ新婚なんだから早く帰ってやれって」
「そうですか」
正直言うと、私に新婚の気分はすでに無くなっていた。籍を入れてまだ一年経っていないけれど、この人と暮らし初めてから長い。一期さんと同棲している間も、入籍直後も、ふたりきりの生活を味わう時間無く、代わる代わる彼の親戚が訪れてきた。ここ最近一期さんは忙しくお仕事をこなしていて、夜ご飯を一緒にとれないことにも慣れてきてしまった。
それでも私に文句なんてひとつも無かったのに。こうして私たちの間に存在する“不自然”を取りあげられると、その方がいやな感触を生んだ。
「夫婦なのにこういう話し方がとれないのは、おかしいとも言われました」
「そんなの、私も一緒です」
私たちの話し方は確かに、現代ではあまり見ないものかもしれない。けれどよそよそしさから、丁寧な喋りになっているわけでは無い。私が一期さんを敬うから、そして一期さんも私を礼節を持って接してくれるから、私たちの話し方は成り立っているのだ。
「それに関しては、婚姻届けを出す時に言ったじゃないですか。私たちは私たちらしい場所に収まることができます、だから大丈夫って……」
「そう、ですね」
頼りない同意を漏らしつつ一期さんがビールを一気に煽る。
無理矢理な飲み方に、私ははた、と気が付いた。一期さんは何か緊張をごまかそうと、ビールを飲んでいるな。
彼の緊張は私にも溶け入って、それは瞬く間に不安へ変化する。
一緒に飲んだ相手に、他に何を言われたのだろう。そして私に対し、今何を思っているのだろう。
梅酒を舌で頃がしながら、私は一生懸命になって自分の行動を洗い出す。私、気づかない間に彼との約束を破ってはいないだろうか。どこかで甘えすぎてしまっただろうか。彼の生活を阻害しただろうか。煩わしさを与えてしまっただろうか。失望させただろうか。
考えれば考えるほど、この脳みその考えられる範囲がごっそりと失われていくのが自分でもわかった。
「に、ずっと言えないことがありまして」
「うん……」
ほら、来た。私はぎゅうと服の裾を握る。
こういう時に、今でも私たちは脆いままだ、と思わせられる。結婚、してもらえたのに。一期さんに日々のことで責められたらどうしようと、夫婦になった今も怯えている。
「私は、本当は、と結婚したいと思ったことは無いんです」
一期さんの顔はとてもじゃないけれど見られなくて、空の月だけを見るようにした。上を向いていれば、しばらく、涙をこらえていられるとも考えてのことだった。
「そ、そうなんですか」
「はい。もちろん貴女に惚れて、交際していたのですが、結婚は遠くの出来事だと思っていました」
そうは言うものの、プロポーズは一期さんからだった。「私の奥さんになってください」。耳まで真っ赤にした、精一杯の様子で伝えられた願いに、私は浮き上がりそうな体をおさえて、こくこくと即座に頷いた。
「正直私は、弟たち以外との家族の形が分かりません。あの世界が、私の全てに近かったので。だからこうしていることが、今でも不思議です。気が引ける時さえあります」
「気が引けるのですか? 私に対して?」
「以前はもっと、貴女とつきあうことに恐縮してばかりでしたな」
「それ、私の言葉です……」
一期さんみたいな恋人ができただけでも、もう、人生でこんな良いことあるのだなぁと私は思った。そしてその幸せが少し恐ろしかった。これは恐縮と呼んで良べるのでは無いだろうか。
「私は周りに何かと気に入られることが多いですが、心の中では結構、不遜なことを考えていたりします。私はそんな自分をさほど嫌ったことはありませんでした。だけど、の前だと急に己が霞んで見えます。恥ずかしさと自己嫌悪を知る」
一期さんがまた、缶を傾け、大きくのどを鳴らした。
「……私はには釣り合わない、とばかり考えて。貴女が何度好きですと囁いてくれても、信じられない気持ちでいっぱいでした」
言われた内容への理解が少し遅れる。
愛嬌もあって、知っていくほど人間らしくて、でも随分と立派な人が旦那様になってしまった。私にあるのはその想いばかりだ。むしろ私が、彼に引け目を感じているというのに。
「だから、結婚のつもりなんて欠片も無かったんです。なのに私は貴女を手放せませんでした。付き合って、記念日や誕生日を重ねる度にその思いがありました。手放せなかった」
「………」
「どこかで離れるだろうという未来ばかり思い描いていたのに、はっと過去を振り返ると、貴女がいるままなんです。いつまで経っても、そうだった」
それから、ようやく一期さんは月でなく私に視線を注いだ。ビールの缶は倒れにくい窓に沿わせて置いていた。潤んだ目と、溶けそうな赤い顔を傾げて、甘く笑って一期さんは濡れた唇を震わせた。
「こうやって年老いて行くんでしょうな。貴女を手放せないまま」
「………」
「私が先に死んでも、が先に死んでしまっても、同じことを思いそうだ」
この人と私は交際の期間も長かったし、同棲だって乗り越えてお互いの生活をひとつにすることができた。そして夫婦になって少し変われたかなと思えるのは、私たちの目の前に横たわる、死までの時間を見つめられるようになったこと。
今まで生きてきたのよりも長い当方もない時間には、未来という言葉は美しすぎる。私はこの人と一緒に、年をとってゆく。そこに目の前の美しい人が放ったのは、どうしようもなさも混じった“手放せなかった”という感情。
「すみません、変なことを言い過ぎました」
「……じゃあ、私も少しだけ変なことを言っても良いですか?」
「はい、……」
「一期さん、私を褒めてください。あなたのいない一日を、乗り切ったのですから」
「、がんばってくれてありがとう。……明日は早く帰ってきても良いでしょうか」
「うん」
「弟たちを呼ばないで、私だけが帰ってきても良いですか」
「変な一期さん、夫婦なのは私と一期さんなのに」
「そうでしたね……」
一期さんが抱く後ろめたさは私にとって、いつも甘やかだ。生活の上で私に少し窮屈な約束をさせることも、私を手放せなかったという後悔も、私をゆるやかに浮上させる。
私を讃えるため、一期さんは一度包容をくれた。彼の耳の舌におさめた私の頭も撫でてくれた。けれど、あっさりと離されて、私は思った。一期さん、私を手放さないで。夜風に凍えながらそう思った。私という人間はきっとこの先くたびれるけれど、代わりに貴方の手になじんで、しっくりくるような私になるから。一期さんは私の感触を知り尽くしていて、私も彼の手のかたちにくったりと体を枝垂れさせてしまうように変わっていって、彼の情に訴えかける何かに、私はなるから。