ああ、ああ、ぬしさま。人の体を得たばかりのこの小狐丸に、ぬしさまの人肌で一時の安堵をくれてやってはくれませぬか。人の暖かみを知ることがこの小狐に一層ぬしさまと人間への親しみを持たせてくれるでしょう。
小狐丸は体よくそう言うと、わたしの布団にするり入り込んで来たのだった。わたしの体に合わせた布団では彼のつま先がはみ出ていたがそれもお構いなしに、肘を立て、こちらを向いて甘い視線を送ってくる。
ああ、ああ、ぬしさま。ぬしさまのお体、なんてあたたかなのでしょう。そのか弱さがまた小狐丸の心をくすぐります。顔が近い? いえいえ、こうして付き添って、ぬしさまの寝顔を見まする。それが小狐丸の私腹を肥やす至福の一時なのです。飽きるはずがありませぬ。
そう言ったくせに、先に寝落ちてしまったのは小狐丸の方だった。
眠れない、午前二時過ぎ。
さっぱりと冴えている頭では、横になっていることこそが無駄な行為に思え、わたしはそっと起き出した。
小狐丸は寝てしまった時の顔がそれこそ、小動物染みて一番可愛らしい。枕の横に畳に広がる白銀の川に触れてみる。もちろん彼は目覚めている時だってその毛並みを誇ってわたしの手を引っ張って触らせるけれども、そうじゃなく、今、彼の知らぬ間に触れるのが面白い。
布団を抜け殻のように脱ぎ捨てて、私はとりああえず机の前に座った。
手元へ小さな灯りを寄せて、資料を読み込む。ああ眺めてるだけで資材が増えたらいいんだけど、なんて。眠くなるまでとりあえず、審神者のお仕事をしようと思っていたけれども、虫の声もなくなってしまった夜の底。代わりに鳴き声あげたのは、ぐうという腹の虫だった。
「……おなかすいた」
まだ小狐丸はすやすやと寝ている。私はそっと、布団ばかりか自室を抜け出した。
向かうは台所だ。
夜中の本丸は真っ暗だった。幽霊が出たらどうしよう、暗闇の中から赤い目がわたしをみていたら……。と、審神者らしくないことを考える。そうだったわたしは審神者だった。だいじょうぶ、赤い目ならにっかりさんだ。
ほんの少し廊下を歩くだけでつま先が冷えてゆく。台所の灯りはすでについていた。橙に近い火の色で、安心があふれる。でも、そこにいるのは誰。息を上げながら覗くと、橙色の光に中にいたのは、夜の光の化身みたいなひとだった。
「三日月さん……、こ、」
こんばんは、と言いそうになって口をおさえる。
じじいさ、との三日月さんの発言を思い出したからだ。ご年輩の方は目が覚めるのも早い。
「……あの、おはようございます」
「いや、俺も寝付けなくてな」
「ええっとじゃあ、こんばんはです」
「ああ、こんばんは」
この人は台所にたっていても光の粉をまとったみたいに、綺麗だ。
「そろそろが起きてくる時間ではないかと思ってな」
「よく分かりましたね」
「分かっていたさ。お主、昼間俺の膝で寝ただろう」
そうか寝付けない原因は、この人が私を無理矢理膝へ誘って、それから頭をなでてくれたからだった。わたしの髪の毛すべてを並べなおしてしまうんじゃないかと思うくらい、丁寧に、何度も何度も行き来した細指。そんなことをされて、人生で最高に顔が熱かったはずなのに、私はいつの間にか寝付かされてしまったのだ。
「まあ、座れ」
かなり古い作りにならったこの台所には椅子は無い。なので台所と屋敷の間の、小さな段差に腰をかける。
三日月さんはお湯をわかしていた。やかんがほくほくと白い息をはいている。それを見ただけで眠れなかった気がゆるんでいく。三日月さんはそこから、湯をそれぞれの湯呑みに分けてから急須に注ぐ。あ、お茶の香り。私が見入っているのを、遮るように三日月さんは渦巻く緑色にふたをしてしまった。でも、まだお茶の香りはしている。僕を忘れるなと言うように、またぐうとお腹の虫が鳴いた。
「はっはっは」
「あああもうすみません……」
「いや、ここに来たということは口寂しかったのであろう。よ、こういうのはどうだ?」
器と器の擦れる音がして、水が沸く香りに、ほのかな甘さが加わった。お釜のふたを開けて、白飯が顔を出したのだ。また柔らかいままたおやかに寝ている白米に、水に濡らしたしゃもじを切り入れると、お碗に少量盛ってくれた。
三日月さんはそこに細かく切った青菜の小山をつくって、その上に赤紫のしば漬け、しらすを散らした。それから、横には満月みたいなたくあんをそえる。ぽかんとそれを見ていた私の口の中にはもう、白米の甘さやしば漬けの酸っぱさ、しらすのかすかな噛みごたえなんかが浮かんでいたのだけど、三日月さんは目を細めて、お茶をそこにとくとくとかけてしまった。
「ああ、あああ、……」
「はっはっは」
私の悲鳴と、三日月さんの高笑い。三日月さんが差し出してくれた椀には、湯気たつお茶漬けができあがっていました。
お碗に小さく盛られたご飯とお新香。これなら胃もたれもせず食べきれそうだ。
「はどのくらいのお茶漬けが好きなのだ?」
「お米がふやけすぎないのがすきです……」
「ああ、俺もだ」
ああ、こんなところで付喪神さまとわかりあえるなんて。段差の隣に腰かけてきた三日月さんとへにゃりと笑い合う。ここに和睦を感じます。
もう、すぐにでも食べちゃいたいと、木の匙を握りしめて、ご飯とお新香の山にゆっくり差し入れる。すぐに青菜としらすが崩れて緑茶に広がった。それも掬いあげて、一口目、という時だった。
「ぬしさまー!」
「小狐丸」
さっきまでは畳の上に川をつくるくらい美しかった髪を乱した小狐丸が、わたしたちの後ろに立っていた。
「ここにおりましたか!」
「しーっ。今何時だと思っているの」
「それはお茶漬けですか」
「そうです、お茶漬けです。三日月さんがつくってくれました」
「すまん。あいにくだが、白飯と茶くらいしか残りがなくてな。ああたくあんならもう少し」
「ならば私は私のお茶漬けを作るといたしましょう」
それからの小狐丸の手際の良いこと。小狐丸が口達者なのはわかっていたけれど、こんなにも腕が立つとは思わなかった。
小狐丸は一つの碗に並盛りご飯をよそい、わたしたちと同じく満月みたいなたくあんを乗せる。
それから取り出したのは油揚げだった。油揚げの端を箸でつかむと、沸きっぱなしだったやかんから湯を掬いあげ、油揚げにかける。油の溶け落ちた油揚げはすぐさまきらきらと光り出す。気を取られてるわたしの眼差しを喜びながら、小狐丸は見せつけるようにそれを短冊型に切って、ご飯の上にかぶせてしまった。
私たちの緑茶とは別にいれたほうじ茶を回しかけると、香ばしい香りを吸った油揚げがまた落ち着いた色で輝くのだ。最後はすりおろした大根を小さな山型に盛ると、てっぺんからちょっぴりの醤油を垂らした。山が、淡い醤油の色に染まっていく。
「ああああ、ああああああ」
「ぬしさまが壊れそうになっていらっしゃる」
私の叫びを笑う小狐丸の、楽しそうなこと。
「ひとつの碗でもぬしさまと分けあえるよう、少し多めに盛りました。ささ、どうぞこちらから」
「何を言うか。をここに呼び寄せたのは俺だぞ。さあ、俺の碗が冷める前に早く」
「うん、うん……!!」
それからわたしたちは少し詰め寄って、三人一列で座った。私は、三日月さんの彩り豊かなお茶漬けと、小狐丸の黄金色の組み合わせ。両方のお夜食を行ったりきたりして、両方しっかり味わってしまった。冷えた夜に食べるお茶漬けはとてもおいしくて、暖まった体を膨れた腹でもう一度、お布団に入り込む。そうすると隣で手を握ってくれる三日月さんの指は碗の暖かさのままだったし、小狐丸の深い寝息がわたしをあっと言う間に眠たくさせて、もう詰め込んだ知識全部が溶けていきそうであった。つまり、幸せだった。
だから、三日月さんと小狐丸の碗にそんなにされてしまったわたしには、次の朝食が食べられなくなるなんて。それをみんなから呆れた顔で見られてものすごく恥ずかしくなるなんてこと、ちっとも考えられなかった。本当に、ちっとも。