夜の割に激しい花の香りがあった。思わず眉をしかめ、縁側から匂いの元が咲いているであろう暗闇を睨むほど、それは強く香った。加えて耳の奥も騒々しかった。目を閉じると、眠らねばという焦りとは裏腹に不滅の幻のように様々な音が沸き上がってくるのだ。
 足音や布擦れの音、息吐く呼吸。そういった皆が人らしく活動する音。あとは声だ。戯れ、笑い、時に相手を威圧し喧嘩を売り、その喧嘩を買い、それに寄り添うようにまた、諫める声のやりとりが在る。さらには私に向けられる声。主だとか君だとか、様々な形で私を呼ぶ幾人かの声。特に近侍が、暇がゆえにぼやいた言葉が引いては寄せる波のごとく消えずに残っている。それらが全て全て、鼓膜に貼りついて離れない。

 体は重みを感じるくらいにくったりと疲れているが、どうしても頭の中は騒がしいままだ。
 頭に騒音が宿っている。だから今夜もどうせ眠れないという暗い予感があった。もう自信と言っても差し支えないくらい強い予感だ。不安を押し込めるように、そしてこのことが誰にも悟られないよう口を引き結んで、私は床に就くべく自分の部屋に入った。

 誰もいない部屋、一組の布団を目の前にわたしはふと、想像した。もし私が不用意に「眠れないの」と弱音を口にしたなら、些細な悩みを打ち明けたのなら。
 なんてこと無い思いつきは瞬く間に果てしなく、想像の世界を広げていった。

 私が眠れないと言ったならば鶴丸は、何を思いついたが知れないが、口端をつり上げ水晶のような瞳を輝かせるだろう。燭台切は「今日くらい良いよね」と暗に私のだらしなさを指摘しながらも、少し塩気の効いたお茶漬けを出して私を甘やかすような気がする。お茶と言えば鶯丸だ。夜に構わずお茶を要求し、柔和な表情で私が落ち着くまでつきあってくれそうだ。夜中の彼もまた思い出に耽るのだろうか。

 騒々しい。頭の中が。彼らの顔が幾重にも思い浮かぶ。
 花の香りが一層強くなる。ふと、小さな足の指が視界に入る。その白さにびくりと肩が震えた。息を詰めながら顔を上げると、幼い顔が笑っている。


「へへ。きちゃいました」


 細められる赤い目。それに舌ったらずな丸い風合いの声。
 一体いつの間に入り込んだのが、今剣が枕を抱いて立っていた。


「ど、どうしたの? こんな時間に……」
「たまにはいっしょにねてもいいですか?」


 私が返事をする前に、今剣は持っていた枕を私の枕のすぐ横に並べた。


「一緒の布団で寝るの?」
「いけませんか?」
「狭くない? 寝られるの? 私の寝相、悪いかもしれないし、それに……」
「ぼくはへいきです。だめですか?」
「だめじゃ、ないけど……」


 うろたえる私に、ひょうひょうと返す今剣。戸惑っているうちに彼はそっと布団の右半分に寝そべった。頬を枕につけながら期待するように見上げてくる赤い目。
 相手は今剣。元は刀であり、幼い童子の姿をしている。断る理由はどこにも無い。無いけれど。結局小さな体躯の彼に流され、私はどぎまぎしながら彼の隣に横になる。


「何か、あったの?」
「ん? なにもありませんよ?」
「どうして急に……」
「あるじさまと、ずっとこうしてみたかったんです」
「……やっぱり狭くない?」
「へーき、へーき。です」


 夜に相応しいささやき声でそんなやりとりする。


「あるじさま」


 今剣の冴えた、無邪気な目がすぐ横から私へ刺さる。それを見返す勇気がなくて、私は天井をひらすらに見つめた。


「ねるまえに、なにかおはなしをきかせてください」
「お話? ……、昔話とかがいいのかな」
「ぼくはみらいのおはなしがききたいです」
「未来?」
「はい。あるじさまのじだいのおはなし」
「私の時代、か……」


 今剣に促され暗闇の中、私が本来生きている時代のことを思い返す。本丸の地点から見れば未来の、自分の生きた時間のことだ。だというのに、私はいつになっても最初の言葉を言い出せなかった。


「………」
「あるじさま?」
「ごめんね、なんだか上手くまとまらなくて……。何を話したら良いんだろう……」
「なんでもいいです。たのしかったこと、あるじさまがすきだったこと、すきだったひとのこと。なーんでも」
「うん、……」


 今剣は私の言葉を待つように言葉を切った。
 けれど幾ら待たれても、私は今剣に話したくなるような未来の事柄を見つけられなかった。

 唯一口から飛び出てしまいそうなのは、“今剣、どうしよう”、“なんだか胸が一杯で辛い”そんな弱音だった。

 さて、まだ目を輝かせて私の話を待っている彼に、なんて言い訳したものか。唇を噛みながら、考えが逃げ腰になり始めた。


「ああっ、ずるい!」


 急に部屋に響いた一等高く、かわいらしい声。特徴的な愛らしい声は、すぐに乱藤四郎のものだと分かる。
 なんで乱ちゃんの声が? 天井から目を話して暗闇に向けると、障子が小さく開いている。


「あ、こら! 静かにって言っただろ!」
「叱られた経験はありませんが、こういうのはいけないことでは……」
「えっと……その……っ」


 どうして今まで気づかなかったのだろう。その隙間にさらに目を凝らせば、乱ちゃんだけじゃない。小さな体の付喪神たちがひそひそ話し合っている。


「みんな、どうしたの?」


 おそるおそる声をかけると、障子の向こうの存在が、びしりと石になったように動かなくなった。けれどすぐに、せき止められた彼らがどっと部屋に流れ込んでくる。

 さっき声がした乱ちゃん、厚くん、平野くん、五虎退くんに続いて前田くん、秋田くんもいる。
 あ、さりげなく薬研くんもいる……。ということは粟田口の短刀達が勢ぞろいじゃないか。なんでこんなことになってるの? 唐突な展開に変な汗が背中に走る。

 部屋に入っていて一番に迫ってきたのは乱ちゃんだった。


「ねえっ! そういうのってアリなの? ボク聞いてないよ!」
「そういうのって……?」
「ボクだって一緒に寝たい!」
「そうだったの……?」


 今剣がこうして床に入ってきたことも驚いたけれど、乱ちゃんまで同じようなことを考えていたのは驚きだ。あっけにとられていると、少し後ろから袖を引かれる。振り返ると秋田くんが薄暗い中でも分かるほどに桜色の目を輝かせて、私を見上げていた。


「ねえ、今剣さんと何話してたんですか?」
「……わたしの時代の話を聞かれたけど……まだ、何も喋ってない」
「じゃあ僕も聞けるんですね! 楽しみだなぁ……」


 そう言われても、これから何か上手に話せるとは私には思えない。秋田くんの邪気の無い期待がちくりと胸に刺さる。


「あ、あの!」


 今度私を引っ張ったのは前田くんだった。


「今夜は、僕もお隣で寝させてください……!」
「私は構わないのだけど……」


 今、布団の右端には今剣。左には私が寝ていて、前田くんがゆったり眠れる幅が一組の布団には残されていなかった。
 私は申し訳なさそうに目を伏せると、前田くんはあわてたように付け加えた。


「今お部屋から、僕のぶんを持って参りますから!」


 その前田くんの発言が皮切りだったと思う。みんなの部屋から、私の部屋へと布団の大移動が始まったのは。
 皆がそれぞれの部屋を往復し、あっと言う間に隙間なく敷き詰められるたくさんのお布団。修学旅行と言うには乱雑に、私の周りを取り囲むように布団は展開されている。私は五虎退の虎を両手であやしながら、口を開けてその様子に戸惑うしかなかった。

 あっけにとられている間に、布団とそれに寝そべる短刀たちで私はもう簡単にはこの部屋から出られなくなっていた。
 今夜は眠れないとは思っていた。だが、頭の中にあった騒々しさが今はこの部屋に形を得て存在していた。

 夜更けだということを心得ているのか、皆はそれぞれに音を立てないよう気をつけている。けれどこの部屋に、それぞれの期待や胸の高鳴りが充満してくのが私には分かった。


「今剣さんはなぜ、主様のお部屋に?」
「ぼくはあるじさまのおはなしをききたくてきたんですっ」
「お話、ですか?」
「はい!」


 平野くんと今剣の会話で、はた、と思い出す。現代の話。私が生きている時代の話。彼らを見つける前に私に起きた出来事たち。私はそれをどうにかひねりだそうと言葉を詰まらせていたのだった。

『なんでもいいです。たのしかったこと、あるじさまがすきだったこと、すきだったひとのこと。なーんでも』。今剣はそう言った。けれど、現代を思い出すのは今の私にとって、そう簡単なことでは無かった。
 何でもない日々が今は恐ろしいほどに遠い。


「あるじさま……?」


 目頭がかっと熱くなる。ぱたぱたと、雨に降られた時と同じ音が膝の上でした。
 私の袖を握っていた手が、おびえるように一度離れ、また握る。


「どうした、大将」


 問いかけられて、待たれても言葉になってくれない苦しみが気づけば涙になっていた。

 自分に生きるべき時代で私の人生は、ごく普通の部類だろうと思いながら生きていた。良い出来事と悪い出来事の繰り返しの日々。だけどもっと辛い人がいる。そう自らに言い聞かせ、日々をやり過ごす。
 けれどこの本丸で日々を過ごす中で、眠れないほどに皆の息づく音が、呼びかける声が染み着いた体で、自分がやり過ごした時間を思い出す。するとそれは恐ろしいほどに色褪せて見えた。

 皆に出会ったことで、皆に囲まれてこの本丸で過ごしたことで私は知ったのだ。
 幸せが本当はどういったものなのか。
 そして、今までの自分がそう幸せでなかったと知ってしまったのだ。

 人の笑い声が耳にこびりついて離れない。現代の中で一度たりともそんな経験をしたことは無かった。笑い声だけじゃない、誰がどんな表情をしていても例え怒っていても、それをくすぐったい感情の中で見守ることなんて無かった。屋敷の中で、人の動く音を感じ取り、それに思いを馳せる楽しみを私は知りやしなかった。自分が緊張を伴わずに誰かと一緒にいられるなんて、思いもしなかった。

 たのしかったこと、あるじさまがすきだったこと、すきだったひとのこと。
 今剣が問いかけた全ては現代には無く、この過去と今の入り交じる本丸に全て存在するのだ。

 今が幸せがゆえに、過去があっけなく、くだらなく、そして自分も惨めな部類に属する人間だったと気づいてしまった。

 過去のさもしさと、今流れる時の愛しさ。両方がこみ上げて、涙が出てしまう。
 そろそろ声を抑えられなくなってきた。
 ばかげた理由で泣くような主なのに、心配そうに私を見る短刀たち。この光景もいつしか、甘く毒のような記憶になるんだろう。私が死ぬ時まで、燦然と輝く最上の日々の記憶として。

 強い花の香りと共に、目の前の光景が脳に刻みつけられる感覚。耳の奥が騒々しく、潤む視界で目を見張れば皆がいる。
 私は今が一番幸せで、今までは幸せで無かったと知らしめたこの日々が、みんなが、憎くて愛しく、やはり憎らしいのだった。

 もう手のつけようが無い私のために、一期一振さんが弟達に呼ばれるのはもうすぐ後のこと。