どこにあるとも知れない本丸で、刀剣男士を従えるという審神者は、明朗快活な人物だった。
 奥で座し、物静かに書き物をしていることの多い女性だが、したたかさを線にして描いたような柳眉が、の本質を示唆する。考えが読めないことがしばしばあり、だが打ち出す作戦は女子と呼ぶには力押しのものが多く、何かにつけて「あっはっは」と笑う姿が女らしさに欠ける。それがへし切長谷部から見る、今の主の姿だった。



 特にその日、は日常を強く感じた。起床し、食事をし、肩をまわして疲れを紛らわせながら机に向かい、戦況を整理し、本丸の財政を確認し、政府からのお小言に腹を立て、間食でそれを忘れる。口を動かす間にふと、刀剣たちの放った言葉を反芻し、首を傾げたり、思い出し笑いをしたりする。

 昨日もこんなことをした、と思った。外はよく晴れていて、明暗のコントラストが目の奥を突きなぜか懐かしさを感じさせた。
 近くには秋田藤四郎が、ちょこんと正座している。今頃の近侍は秋田藤四郎に指名している。彼の持つ花とも空とも言える色がこの部屋に在る。彼が明るい面もちで侍り、時折その丸い目で外の様子を観察する様。この光景も昨日同じようなものを見たな、とは考えた。

 歴史修正主義者と戦う。その状況の中で日常を感じる。は一度ふ、と息だけで笑った。
 時刻はちょうど、窓からの光が傾き影が延び、彼女の手元が暗くなる頃。は秋田藤四郎にひとつ言いつけた。


「秋田。へし切長谷部を呼んできてもらえるだろうか」
「はいっ」


 明るい返事で、すぐさま秋田藤四郎が席を外す。ぱたぱたと軽い足音を見送ると、一度背伸びをし、髪をなでつけてからはへし切長谷部が部屋に来るのを待った。

 直に軽い足音と、秋田藤四郎の物とは全く違う足音が近づいてくる。静かだが重々しい足音だ。


「失礼いたします」


 部屋の影から見ると眩しいくらいの明るみの中。深々と頭を下げたのは秋田藤四郎と比べればずいぶんと薄暗い色合いに身を包んだ男だった。
 まずはひとつ仕事を終え、またちょこんと横についた秋田藤四郎に優しく声をかけた。


「ありがとう。秋田はそのまま、食事の時間まで好きにしていなさい。何かあったらまたその都度呼ぶ」
「はい、ありがとうございます」


 自由な時間をもらえたことを喜びながら、先ほどよりは少し気落ちした風に笑み、秋田藤四郎は一礼し出ていった。そしてやっと、ぴくりとも動かず待っていたへし切長谷部に、は声をかけた。


「頭をあげなさい」


 がそう言うと、言葉のままにへし切長谷部は顔をあげた。礼をしていた時は小さく見えた体の、正しい体躯、正しい手足の長さが姿を現す。


「長谷部」


 暗がりから名を呼ばれると、へし切長谷部の中で言いようのない喜びが生まれる。
 出会ったばかりの時からそれは変わらない。何もなければ名さえ呼ばれないことを知る体が温度を上げ、元から備わる機能のように気持ちが浮き立つ。

 だが、主に対する思いのようなものは随分変わってきたなとへし切長谷部は彼女の声を待つ傍らで考えた。こうして考えを持つようになったことすら最近生まれた変化のひとつだ。以前は彼女がこれから何か言おうとする時に別の考えごとをするのは自らに禁じていた。
 出会ったばかりの時の方が、今のように「長谷部」と名を呼ばれた時も気持ちにも表裏なく純粋に頭を垂れていた気がする。

 主命を受け入れる気持ちが揺らいだのは、近侍を外されたことがきっかけだった。ある日突然、配置替えをは誰にも相談することなく決定、決行したのだった。
 近侍という立場を、へし切長谷部は易々と手放しはしなかった。自らを猛省し、に対しみっともなく挽回の機会が無いかと伺いを立て、一番近くにいることを強く望んだ。けれど結局、「長谷部は近侍でない方がいいと思う」というぼんやりとした考えを伝えて、決定が覆ることは無かった。

 出会ったばかり、近侍を務めた時、近侍から外された時。そして今。比べれば俺自身面もちが多少変わっただろうと、長谷部にはその自覚もあった。彼はいっそう唇を引き締める。


「長谷部。今日の日課は終えたかな」
「はい」
「では、日課帳を出しなさい」


 言われたまま胸から小さく折り畳まれた紙を取り出して、の手に乗せた。
 日課帳と呼ばれるが、実際は一枚の紙だ。はそれを机に広げ、しわをよくのばしてから筆を手に取った。そして紙に書かれた最初の項に目を落とし、読み上げる。


「長谷部、今日は茶は飲んだか」


 朝食の後、へし切長谷部は彼女の言いつけ通りに、一杯の茶を飲んでいた。なのではい、と従順に返事をする。
 それを聞いたは細い筆で、紙に一線を書き足す。ちょうどその一線で正の字ができあがったところだった。へし切長谷部がいっぱいの茶を飲む日課を課されて今日で二十日目だった。

 の目線が次の項へ移る。ひとつひとつを読み上げる。


「茶と一緒に何か口に入れたか」

「少し出かけ、外を歩いたか」

「縁側に腰かけしばらく過ごしたか」

「誰かにお前から話しかけ、天気の話をしたか」

「花を何かひとつ生けたか」

「窓から外を見たか」


 からの問いと、へし切長谷部の、はい、はい、という静かな肯定がしばらく続く。

 確認されるのはすべて、ささやかな項のひとつひとつ。それは主に言われなくとも自ら行うことも在る日課と呼ぶのに相応しい些事ばかりだ。
 けれどどれも主からの命として、へし切長谷部は律儀にひとつひとつをこなしていた。


「遠くの山はどうだった」


 これは紙には書かれていない項目だ。ふと所感を言うよう求められた。彼女の求める最適の言葉を、へし切長谷部なりに考えこう答えた。


「今日はよく晴れていたので、木々の枝までよく見えました」
「そうか」


 は口端を引き上げ、筆を置いた。すべての項の確認が済んだからだ。


「さすが長谷部だな。ひとつたりとも欠かさずにやっていて。偉いな」
「ありがとうございます」
「それでお前はどれが一番楽しかった?」
「……と、言いますと」
「楽しかったことくらいあるだろう。逆に言えば性に合わないことはやめても良いんだ。言ってみなさい」
「どれも、特には。主命を果たしたまでのことです」
「そうか。じゃあこの中からひとつは止めて良い。どれかひとつ、選びなさい」


 の声色が、僅かに強制の色を含んでいたことに気づけば、彼が逆らうことはない。


「……花を生けるのが面倒でした」
「あっはっは。そうか。そんなに面倒だったか」
「花を選ぶのが、自分に向いているとは思えません」
「分かった。じゃあこの項は無しだ。もうしなくて良い」


 再び筆を手に取り、ぴっと縦線を引いてその項は塗りつぶされた。


「そうか、花が面倒だったか。意外だなぁ」


 誰かに必ず話しかけるというのを一番に面倒がる。それがの予想だったが、誰かと会話することはひとまず花を選ぶことよりは楽な日課らしい。
 意外な一面を知ったなとは今度は自然に笑んで、手元の日課帳に目をやった。


「まあ、いいさ。じゃあ長谷部。次は料理をやってみなさい。料理はいやかな? 他に思いつくのは、畑仕事、馬当番、掃除当番、出納の管理もあるがそれは仕事じみているな。……魚か鳥か狩ってくるなんてのも有りか」


 の意図は相変わらず分からない。不可解な気持ちはあるものの、だがへし切長谷部の答えはいつも決まっている。それにならい、静かに答える。


「主命とあらば、なんでもこなします」
「そうか。まあ物は試しだな。やはり料理をやってみなさい。戦に出なかった日だけで良い。台所を手伝ってやりなさい。出来れば一品は全て自分の手で作りなさい。魚を焼くだけでも米を炊くだけでも良い。何か言われたら私の名を出して良い。出来れば、楽しみなさい」
「かしこまりました」
「これもまた二十日経ったら感想を聞くよ。以上だ、私の話は終わりだよ」


 ご苦労様、とはへし切長谷部をいたわる。やりとりが途切れ、お開きの雰囲気が部屋にはあったが、彼は堅い面もちで立とうとしなかった。


「何か言いたげだね」


 彼の気が変わる前にと、はへし切長谷部の態度を指摘した。


「言ってみなさい」
「………」
「自由に話せよ、へし切長谷部」


 柔らかな声色だったが急に丁寧に読み上げられた彼の名には迫力があった。その脅しを聞くと、へし切長谷部は嬉しくなるのだった。この人にはまだ俺の上に立っている、俺を所有しているという感覚があるのだと言外に知れるからだ。


「なぜこのような事を俺に課すのでしょうか」
「……なぜかと聞かれると」


 一度は言葉を切った。表情は笑んでいるが、心の流れから笑っているのではなく、端からは笑顔をかたどったまま固まってしまったように見えた。


「困るな。なんと言うべきか。そうだな、私がわがままで、嫉妬深い人間だからだ」
「………」
「続けていけばそのうち分かるさ。私の死後には特に、そのどん欲さが分かると思う。長谷部、私はお前より先に死ぬからな。どうしたってそうだ。だから何を残すか、慎重に考えているだけだよ」
「ならば貴女の願いを俺に仰ってください。主命の名の元に刻んでくだされば、俺はなんなりと」
「それは分かっているさ」


 へし切長谷部に効果的な言葉なら、はもちろん分かっている。自分がその魔法のような言葉を使うことのできる立場に在ることも。だがは肩をすくめ、日課帳の紙をまた小さく畳み始めた。
 まだ何か言いたげなへし切長谷部からわざと視線をずらし、次に顔をあげた時にはほがらかに長谷部の後ろへ声をかけた。


「秋田。もう戻ってきたのか」
「主君を呼びに来たんです」
「分かった。すぐ行こう。それじゃ長谷部、また励んでくれ」


 が片手で差し出したそれを、へし切長谷部は両手で受け取った。日課帳を胸元にきちんとしまったのを黙視し、それから長谷部を追い抜いては秋田藤四郎と歩き出した。
 座っていた向きを整え彼女が出ていくのを見送ると、角を曲がるその瞬間、秋田藤四郎が無邪気にの手に飛びついたのが見えた。柔らかなふたつの手が絡みあって遠のいていく。その光の中の光景を、今度はへし切長谷部や影の中から見送った。




「主君」


 秋田藤四郎はやんちゃな少年かと思いきや、そんな少し大人びた呼称でを呼ぶ。


「なんだい」
「僕も長谷部さんみたいに主君から日課が欲しいなぁって」
「……本気か?」
「本気ですよ! だめですか?」


 蔓草のように繋いだ手を揺らしながら、らんらんと目を輝かせて秋田藤四郎がねだる。


「だめとは言わないが。実際は続かないものだよ、人から言いつけられた日課なんて特にそうだ。私が決めるより秋田自身で何か決めてやってみるのが良いんじゃないかな」
「えー」
「その方が長続きするよ。どうかな」
「僕は主君に決めてもらいたいんです。だって、長谷部さんに言いつけたことを、主君がする時、主君は長谷部さんを思い出してます」


 今日一番の、目が覚めるような驚きがを襲う。と同時に、秋田藤四郎を長らく近侍にしていた事を多少後悔した。


「長谷部さんもきっとおんなじで、さんのことを思い出していると思いますよ」
「それは、どうだか。分からないが……」
「僕にも何か約束をください」


 ただ毎日の課題を与えているのではない。たとえそれぞれがひとりで生きる時が来ても、その生活の中に相手の気配が紛れ込むような呪いをかけあっている。秋田藤四郎は気づいて、その約束が欲しいと願っている。逃げられないなとこっそりは舌を巻いた。


「……分かった。考えるよ」


 降参だ。がそう言うと、秋田藤四郎は笑顔を咲かせて喜んだ。彼の本当に嬉しそうな笑みを見て、は無意識にへし切長谷部を思いだし頭の中で比べていた。
 彼は与えた日課を喜びはしなかった。ただいつもの通りに頭を下げただけだった。ただ、戦いとはほど遠い命令に、その表情に得意げな笑みが無かった。


「なあ」
「はい?」
「長谷部は私が死んでも日課を続けるかな。私がいなくなって、次の主が現れても、……」


 いつもこうだ、とは頭を振った。長谷部の行く末を思うと、途中で言葉を続けられなくなる。
 いつ彼は消滅するのか、それまでは幸せに過ごせるのか、私がいなくなったその後の長谷部はどう生きるのだろうか、彼に救いはあるのか、彼は穏やかに生きられるのか。しかし同時に嫉妬深い自分が顔をのぞかせる。
 誰が彼を消滅させるのか、私がいないところで長谷部は幸せになるのか、私がいなくても長谷部は生きるのか、私がいなくとも彼は救われるのか、私がいない方が彼は穏やかに生きられるのか。

 急に胸が辛くなる。解放した屋敷に強く吹き通った風を真正面から受けては眉をしかめ唇を噛んだ。
 風によろめかないよう小さな手を握りしめて、床を踏みしめながら歩く。


「秋田。いつも迷惑かけてすまない。ありがとう。秋田の存在には助けられてばかりだ。頼もしく思うよ。まだしばらく、近侍をお願いしても良いだろうか」


 へし切長谷部が望むであろう言葉を山ほど秋田藤四郎にかけると、秋田藤四郎はへにゃりと優しげに笑んだ。

 どちらも分かっているのだ。その言葉の数々がしかと音になって紡がれるのは、今近侍を担う彼が、へし切長谷部ではないからだ。今の横に立つのが、がたったひとり全てを告げられない刀剣でないからこそ紡がれる。

 秋田藤四郎にひどい裏切りをしている自らに気づき、は再度問いかけた。


「秋田は、まだ日課が欲しいかな」
「欲しいです。主君との約束が」


 淀みなく戻ってきた答えにまた、己の弱さが打ち出された気がした。は屋敷を通る風の中一度すん、と鼻を鳴らした。それから表情を整え歩調も正した。何時へし切長谷部が追いかけてきても、彼が失望しない毅然とした私であるように、と。