知ってしまった後はもう、知らなかった頃には戻れない。
私にはもう以前のように、彼の安らいだ顔が見たいという理由で太郎太刀を万屋へのお共に選べなくなっていた。万屋どころか、本丸にいても彼相手に無駄話もできなくなってきた。
彼の美しい顔を見る度に、考えてしまうのだ。その澄ました表情の下で、いったいどんな娘のことを考えているんだと。明らかな嫉妬がどこからかやってきて、私の理性を乗っ取ろうとするのだ。
太郎太刀はもう誘えない。部屋から出て一番に目についた刀剣の名を私は口にした。
「鶴でいいや」
「なんだその失礼な言い種は」
「鶴丸国永様でいいから、万屋についてきてくれる」
「慇懃無礼とは正に君のことだな」
そう言いながら鶴丸国永様は私に「上掛けは持ったか」と声をかけるのだから、ノリの良いやつだ。ちょうど通りかかった小夜左文字に、鶴丸と万屋に行く、なるべく早く帰ると伝え、私も草履をひっかけた。
鶴丸を連れて外に出てみれば、以前より陽は弱まったもののよく晴れていた。空風の吹く道。あの日を思い出す。ちらりと横を見ると私の頭の小さな影が、彼よりもずっと白く華奢な皺をつくる着物に落ちていた。
「なあ。太郎太刀の奴と何かあったのか」
ごくあっさりと、でも鶴丸らしい繊細さを見せて、その質問は浅く投げかけられた。
「……特に何も無いけど」
「とてもじゃないが、そうは見えないぜ」
「訂正する。彼との間には特に何も無かった。ただ私に問題が起きただけで」
「ほお」
「簡単に、言うのなら」
それから紡ぐ言葉に私は細心の注意を払った。声が震えないように、この邪悪な気持ちが漏れ出てしまわぬように。
「私があげた手間賃で、彼が贈り物を買ったのよ。懸想してる子にね」
「………」
「それが今の私には、許せなくて、さ」
声には注意した。けれど次第に目頭が熱くなるのがわかった。
「でもね、鶴。私きっと、彼がどこかの娘に贈るものを選んでいると分かっていても太郎太刀に金を握らせたと思う」
彼の好意が、私じゃない人間に向けられるとしても、私は彼の恋路を応援していたと思う。太郎太刀の、大切な物や人への思いを、大切にしたい。そう願ってやまないのが私だからだ。
そしてこれは惚れた欲目かもしれないけれど、太郎太刀に見初められて振り向かない娘なんていないと思うのだ。きっともう、私には止められない。
だから私はきっと苦しさを噛みしめて、彼の背を押す。貴方の好きな人を喜ばせてあげなさい、と。
「だって、それくらい太郎太刀が好きだから」
なんにも関係無い鶴丸に、まっすぐそれを言い切った時。目から熱いものが、それから意味の分からない笑いがこみ上げて、私は道の半ばで俯き泣いた。
私は本丸の中からいともたやすく彼を見つけだし、微笑んだ。
「太郎太刀さん。今、手は空いているかな」
「……、はい」
「良かったら、万屋へ。つき合って欲しいのだけれど」
「すぐ支度をします」
「焦らなくて良いよ。私はいつでも大丈夫だから準備ができたら声をかけてね」
少し、虚を突かれたようであった太郎太刀を残し、私は上掛けを脇に抱えると、土間に腰をかけ、草履を履いた。
息を吐く。久しぶりに彼に声をかけたが、思ったより心は平静を保てている。それどころか愚かな私は、やはり太郎太刀と出かけられるのが楽しみだ。
幼い子供みたいに膝を抱えて彼を待つ。好きな人を待つ。この行為は短時間ならばなんだか楽しいもので、ふんふんと鼻が鳴った。心地よく目を閉じていると不意に頭に衝撃がある。
「っわ」
柔らかい衝撃。5本の指がつむじから髪をかき乱し、すぐに去っていく。
驚いて手が過ぎ去った方を見ると、内番姿の鶴丸が背を向けたまま手を振っていた。
「なんだあいつ……」
「主」
「うわっ」
鶴丸に気を取られていたらまたその逆方向から声をかけられ、変な声をあげてしまった。
「ああ、太郎太刀か」
「お待たせいたしました」
そうして私の前に太郎太刀は立ち、外へと促す。久しぶりだ。こうして同じ高さの地面に立ち、彼を見上げるのは。
「主?」
「ごめん、なんでも無いの。行こうか」
「はい」
本当に鶴丸のやつはなんだったんだ。乱された髪をあわてて直しながら私は少し早足で本丸を出た。
嫉妬に駆られた時は本当にいやな感情ばかりに私は埋め尽くされていた。その時はこうしてまた、自分のわがままに、太郎太刀さんと一緒に歩けると思わなかった。
不思議なことだ。恋破れたというのに、好きという感情を強く自覚したことで私は楽になれた。淡い憧れでなく、確かに私は太郎太刀に恋をしている。そして同時に汚らしい感情も抱く。そんな自分を受け入れてしまえば、存外楽なものである。
言葉少なに歩いていると、話しかけてきたのは彼の方からだった。
「久しぶりですね」
「そうね……」
確かに、彼とこういう時間を過ごすのは久しぶりだ。互いにたわいもない話ができることも。だからこそ痺れるような緊張が体には走っているし、心臓は早鳴りしている。
「……最近は、鶴丸さんと一緒にいるところをよく見かけます」
「え、そう?」
「はい」
「そっか……」
言われてみるとそうかもしれない。太郎太刀への感情を知られてしまって以来、彼は何かと突っかかってくる。おかげで最近、一人でいる時間の方が珍しく感じるくらいだ。
「なんだかね、ちょっかい出してくるんだよ、鶴丸から」
「なぜ?」
「さあ。でも鶴丸って根っこは寂しがりなんだよ、きっと。それに私が弱みを見せたからじゃない」
「弱み、とは?」
「あー、それはもう良いの。解決した話だから」
改めて考えると、私は彼のおかげでふさぎ込む暇が無かったように思う。こっそり、胸の内で彼に感謝を述べる。ありがとう。そして、今日の帰りに何か、彼が驚きそうなものが手に入ったらそれを土産にしようと心に決め、私は万屋ののれんをくぐった。
用事を終えて外に出ると、以前より少し冷たくなった風が太郎太刀の髪を揺らした。それに見惚れながら私はまた微笑んで口にした。
「少し、寄り道をしていこうか」
太郎太刀はひとつ頷きをくれたので、あの日と同じように大通りを行く。
前のように彼は喜ぶのではないかと思ったが、太郎太刀は浮かない顔で私をかばいながら通りを歩いた。あたりに視線を散らしているが、それはたくさんの人を避けようとするためであり、好奇心は全く見られない。
私は心配になりながらも声をかける。
「この前、二人で行った小物屋に行こうか。品ぞろえが変わっているかも」
「いえ……」
「何か見たいものは?」
「すみません、今は特に」
「そう。……じゃあ、帰ろうか?」
彼の目が凍る。それも気分とは違うらしい。
「私は……」
太郎太刀はしばらく言葉を濁らせたが、やがて彼にしてはか細く願いを伝えてくれた。主の行きたいところに行きたいです、と。
私の行きたいところ。そう聞かれたら欲はある。でも私が欲しいのは物じゃない。太郎太刀との時間だ。私は適当にお茶とお菓子を出してくれそうな店を見つけ、そこに入った。
「ここは?」
「初めてきたお店だよ。何もしないで帰るのも惜しいじゃない。それだけ」
出してもらったお茶をとりあえず一口。お茶にはお菓子がついてきたが、私はそれを様々な角度から観察しただけ。口に運ぶ気は起きなかった。
それは太郎太刀も同じだった。同じどころか、彼はお茶にすら口をつけない。ただ彼の手には小さな湯呑みを握っている。
「……あまり、楽しそうじゃなさそうだね」
あーあ、と私は心の内でため息を吐く。私は彼が好きだった。そして彼の、珍しい表情が見たくて万屋に誘っていた。
私はもう彼の前で“主の”を繕える。そう思ったから彼を誘ったというのに、求めた彼はそこにいない。
「悩みごととかあるなら、聞くよ。なんでも」
「………」
「太郎太刀がそんな暗い顔しているの、初めて見たかもしれない」
「私は暗い顔をしていますか」
「そうだね……」
私を見下ろす彼。端正な顔立ちは、暗く、小さく傷ついたような表情に歪んでいる。
「主は、どうなのですか」
「……え?」
「この間まで貴女は一人になると思い詰めたような顔をしていました。それなのに今は何も無かったような顔でここにいます」
「………」
「とても苦しそうでした」
太郎太刀の言葉に不意に泣きそうになる。恋の痛みに苦しみもがいた私を見ていてくれたのだ。その優しさがまた痛いほどに突き刺さる。
「そんな貴女を助けになりたかったのですが」
「そうなの……。ありがとう。でももう、大丈夫」
「やはり、もう解決したと仰るのですか」
「……そう、だね。うん。全て解決したわけじゃないけれど、もう答えは出たから」
未だどこぞの娘に対し嫉妬心は消えない。けれど太郎太刀への思いに心は決まっていた。
「答え?」
「うん。私の頑張る方向」
「主にその答えを出したのは、鶴丸さんでしょうか」
「そう、かな……」
正確に言うのなら、彼に話しているうちに私が自分で答えを見つけた。けれど繊細に気遣ってくれた鶴丸がいなければ、気持ちが見つかっていたのかも分からないので、私はぎこちなくもうなずいた。
「なぜ、私ではいけなかったのでしょうか」
「え……?」
「いえ本当は鶴丸さんと私の違いは分かっているのです。私はあの人に比べ堅物で、口下手です。けれど私が、貴女を助けたかった。心の支えになりたかった」
「私は……、太郎さんのこと、頼りにしてます、よ……?」
「いえ。貴女は優しいばかりで、肝心なところは決して私に話してくれない」
「そんなこと」
「私にばかり秘め事をしていませんか。何故、私ではいけないのですか……」
私は、どうしたらいいのか全く分からなくなっていた。絶句した私に「すみません」と謝罪の言葉が落とされた。
「こんなことを言っても主を困らせるのは分かっていました。しかし私はどうしようもなく辛いのです。自分が、主の一番の存在で無いことが」
「………」
「今日、頃合いを見て、お返ししようと思っていました」
そうして私たちの間に置かれたのは、あの日太郎太刀が購入した簪。それとほんの少しの金だった。
「これは……。誰かにあげなかったの?」
「渡せませんでした」
「でも、なぜ私に返すの?」
「いただくべきでは、ありませんでした」
彼の買った簪が、今ここに存在することがまず驚きであった。もう彼はこれを想い人に渡したんだとばかり思っていた。
未だ渡されていなかったのだ。
手に取って、初めてまじまじと見てみる。派手すぎないけれど、きっと存在感を放つであろう装飾は私好みだ。太郎太刀が選んだと思えば、さらに尊く思える。
「もう金のほとんどは簪に変えてしまいましたが」
「……別に、好きにしたらいいのに」
こんな律儀に返さなくても、彼は私の一番だ。一番に恋してやまないひとなのだ。
けれど言えるわけが無い。私の恋慕など。彼が欲する一番は、私の抱くどろどろしたようなものでは無いのだから。
指先で遊んでいた簪。このまま胸の内にしまってしまいたいくらい、私はこれが欲しい。だってこの簪は太郎太刀に想われた証拠なのだ。
私はひとつ息を吐くと、彼の手をとり簪を握らせた。
「太郎太刀さん。これは、渡してきなよ。誰かへの贈り物でしょう」
「………」
「貴方が渡したい人に渡す。貴方が喜ばせたい人が喜ぶ。それで良いと思う。私は、太郎さんの気持ちを大切にしたいと思うから」
「……っ」
次の瞬間、そのまま彼の方へ押しつけようとしていた手は、いとも簡単に押し返された。そしてそのまま、簪と手と、私ごとを太郎太刀さんは抱きしめた。
「太郎、さ」
「ならば、」
大きな彼にすっぽりと飲み込まれ、息の止まった身体に切なげな声が降りかかる。
「ならば、受け取ってください。そして喜んで。今よりほんの少しで良いから、私を好いてください……」
触れたところから伝わる体温が熱い。太郎太刀の美しさに、冴えるような刀身に似合わない熱が、私をじわじわと犯す。
私、太郎太刀に抱きしめられている。頭は混乱するばかりだが、どこかからたとえようもない嬉しさが沸き上がってくる。空に浮かされた気分で、そして譫言のように打ち明けてしまう。
「す、すきだよ。太郎太刀さんのこと」
「いいえ」
即座に降らされた否定の言葉に、私はもう一度つぶやいた。
「すきだってば。本当に」
「いいえ、貴女のは、私の抱く感情とは違います」
「そんなこと、無いとおもう」
「私は貴女に、醜い感情ばかりを覚えているのです」
「太郎さんの感情と同じじゃないかもしれないけれど、私だって醜い。醜いけれど、それでも私は好きです。太郎太刀さんのことが。誰よりも好きで、たったひとり、貴方にだけ恋してます」
太郎太刀に閉じこめられた私の身体。その中心で硬くつっぱねるあの日彼が選んだ簪。ねえこれは、私のものですか。そう問いかければ言葉も無く頷かれた。
嬉しい。そう言って見上げればそこに熱に歪んだ顔。ああこれが、私は一番欲しかった。
「こりゃあ驚いたぜ」
慣れないくせに髪をまとめ、ぎこちなくも手を繋いで帰ってきた私たちを見て、鶴丸国永様はとろけるような笑みでそう言った。