この人の膝枕から、この至近距離から逃れなくちゃ。そうでなければ、とてもじゃないけれど冷静になって喋られない。実際、起きあがって、少し間を開けて座れば私は徐々に気分が落ち着いていくのを感じた。
 私が寝かされていた場所はお屋敷の縁側だったらしい。ぷらん、と縁側からのばした紺ソックスのつま先が少し冷える。
 ああもう恥ずかしかった。私は自分を立て直すようにささっと髪を直した。さっきまで膝が触れていた後頭部にさわる時、一瞬胸が詰まったけれどごくんと飲み込んで、深呼吸してからその人に向き直る。その人は、ただ穏やかな笑みをたたえて私を見ていた。


「えっと……、ごめんなさい。もう一度お名前聞いても良いですか? つる……なんでしたっけ」
「鶴丸国永だ」
「つるまるさん……」


 ツルマルという名字も、クニナガという名前も珍しい。でも奇抜なお侍さんと思えば、有りな名前に思えてきた。時代劇の登場人物はみんな、ウエモンとかザエモンとかドラエモンとか、わけ分かんない名前だもの。


「わ、わたしは、です」
……。そうか……」


 その人は私の名前を何度か言い直してから、良い名前だな、と笑った。


「由来は?」
「さあ。ちゃんと聞いたことない。でも多分、お母さんが自分の名前好きだったからだと思うよ」
「どうしてそう思うんだ?」
「私、お母さんと同じ名前なの」
「母親と」
「うん。お母さんも、私も……。ちなみにいうと、書き方も全部一緒だよ」


 私は正直、この名前が好きでは無い。響きは好きだ。名前単体ならば気に入っている。誰かから「」と呼ばれる時、紛れもなく私を呼んでいると感じられて、少し嬉しくなる。
 けれど、お母さんと同じ名前だというのが、どうしても受け入れられない。

 まず母親と娘が同じ名前なんて、絶対に面倒だ。どっちが呼ばれてるか分からないし、手紙もメールも私宛なのかお母さん宛なのかこんがらがる。
 だけど実際、私とお母さんが名前のことで困ることは無かった。なぜなら私がちゃんと読み書きできるようになる前に、お母さんはお空の向こうへ行ってしまったからだ。
 だから、私は自分の名前が嫌いだ。お母さんが死んだことを責めるつもりは無い。だけど、私は思ってしまうのだ。

 お母さんは、私が大きくなる前に自分が死んでしまうことを知っていたのではないか?
 だから、自分と同じ名前なんかを娘につけられたのではないか?
 もしそうならなぜ、長くは育てられないのに娘を生んだのか?


「変でしょ。親子で同じ名前なんて」
「……、いや。母親の想いを感じる良い名だと俺は思う」
「母親の想い、かぁ……」


 私はそっと下唇を噛んだ。封じ込めていた思いが、不意によみがえりそうになったからだ。母親へのいらだち、疑問、会いたいという気持ち、染み着いた寂しさ。今、という名前をこのツルマルクニナガさんに呼ばれ、褒められてそうして息を吹き返しそうになったものに、また蓋をする。
 全てをぶつけたくても、その相手は今はもうこの世にいないのだから。



「え、あっ、はい。なんですか?」
「……、と呼んで良いか?」
「いい、ですよ?」
「それじゃあありがたく。と呼ばせてもらおう。それじゃあ、
「はい」
「………」
「………」


 ツルマルクニナガさんは、何かを私に言いかけた。けれど、言葉が出てくることは無かった。口をぱくぱくと開け、そして急に顔をしかめる。それが、泣きそうな顔にも見えたと思ったら、顎に添えられた手が上へとあがって髪をかきあげた。その手が過ぎ去った時には、私を柔らかに見つめるツルマルクニナガさんに戻っていた。


「何を、話したら良いか。分からないな。情けない」
「そ、そうですか」
「その上時間切れらしい。そろそろ君を現代に返してやれと、が言っている」
「え……?」
「君ではない。君のお母さんだよ。——ああ、分かってるって、


 ツルマルクニナガさんが虚空に向かって話しかけ、そして限りなく優しく、私の名を呼ぶ。違う、私では無い。この人は母の名を口にしたのだ。
 愛を込めて、母の名を。未熟ながらも私に宿った女の勘で私はそれに気づいた。そして、「もしや」とも思った。目の前の男の人。この人は、本当は私にとって他人などでは無いような気がした。


「会えて良かったよ、。君が大きくなって、元気な姿が見られて良かった」


 鶴丸さんが、急に別れ際に交わすような言葉をかけてくる。それだけで涙があふれそうだ。
 待って、鶴丸さん。もしかしたら私のお父さんかもしれない人。ずっと寂しかったの。お母さんをなくして、お父さんを私は探していたの。お母さんにも言いたいことがたくさんあるけれど、お父さんにだって聞きたいこと、言いたいこと山ほどあるんだから。

 けれど、急激に全てが遠ざかる。お屋敷が、遠くの掃除機に吸い込まれていくように縮小し、鶴丸さんは白いもやに包まれて、その形が見えなくなる。


「達者でな」


 そんな言葉、昔昔のお話の中でしか聞いたことない。見た目も昔のお侍さんみたいだけど、言葉使いもそうなんだね。
 古すぎる言葉がおかしくて、泣き笑いしてしまった。彼の正体がはっきりしないまま離れたくないのに、この体がちぎれるみたいに悲しくて仕方がないのに。

 お父さんのばか、と思った。








 会ったことも無いお父さんを夢見て、けれど、しっかりと話せないまま離ればなれになってしまう。
 そんな悲しい夢から、はっと意識が覚醒した時、私の頬にはぬるい涙が伝っていた。起き上がると、顔からぼたぼたっと粒が落ちて、私の制服のスカートを濡らした。

 夢の中で思い出した通り、私は制服を着ていた。肩にかばんをかけた状態で玄関前の床で眠っていた。
 なぜ、こんなところで夢を見たのだろう。いくら私が学校に行きたくなくて、玄関前で躊躇していたとしても、これから学校っていう時に寝るだろうか。

 でも、寝ちゃったんだよなぁ。信じられないけど。


「はぁ……」


 自分に呆れながらもようやく立ち上がる。遅刻だとしても、無断欠席よりはマシだろう。顔についた涙を制服の袖で拭って、ローファーのつま先をとんとんと鳴らして、私は家の戸に手をかけた。
 夢で見たあのお屋敷よりは少し小さいけれど、古い日本家屋。だから、出入り口は引き戸になっている。
 開ける時はがらがらという大げさな音をたてるが、それが私の日常に宿る音。


 がらがらがら。


「や! こいつは驚いたぜ。まさかの存在無しに現世に顕現でき——」


 ぴしゃん。

 擦り硝子の向こうで、あの夢の中で会った白い人がわたわたを慌てている形だけが見える。信じられない信じられない信じられない。けれど「?」「まさかこんなすぐにまた会えるとは」「すまない、俺もさっぱりなんだが来られたんだ」「おーい」「ー?」「頼む……開けてくれないか……?」、そんな戸の向こうであの人が何かを言う声、私を呼んでくれる、その声が耳に入り込むたび、理由の無い涙がぽろりと落ちた。今度のそれはやけどしそうなくらい、熱かった。