目の玉がそこだけオーブンにつっこまれたみたいな熱さがあった。夢の中で会ったと思いきや家の前に現れたこの人が、私の何者であるか。まだ決まったわけではないけれど、どうしようもない安堵が私を包んでいる。まだ、この人と話をしていられる 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせた。どうにか涙を止めて、擦り硝子の向こうで慌てているその人に見せられる顔にならなければ。制服のシャツの裾で涙をぬぐい、前を向いた瞬間だった。

 真っ白な手が、擦り硝子から生えていた。


「っぎゃわーーー!!」
「すまんすまん!」


 焦った声が聞こえたと思いきや今度は目の前の戸から鶴丸さんの生首がにゅっと生えてきた。


「んっぎゃーーーー!!!」
「顕現できたかと思っていたんだがどうやら実体はまだ持てないらしい」
「あんたか!!」
「おお、俺だ」


 こっちは突然の恐怖体験に心臓がつぶれそうになっているというのに。鶴丸さんは戸から首を生やしたまま、へにゃりと笑った。その頬の端はうっすら透けていた。透けるような白い肌の人だが、まさか本当に透けているとは。
 

「な、なん、な、ななんで……」
「さあな。俺にもさっぱり分からない。入ってもいいか?」


 問いかけとともに、「」と名を呼ばれる。私がこの人に名前を教えたのは、ただ一度、夢の中だけ。やっぱりあの夢は本当だったのだとじわじわ実感がわいてくる。


「えと……、どうぞ……」


 怖いのかうれしいのか、もう感情がごちゃ混ぜだ。かすれ声になりながらかろうじて伝えると、そのまま鶴丸さんは戸をすり抜けて全身を家の中へ現した。


「えと、えとあの……」
「ん? これからどこか行くところだったか?」
「あ、はい。学校に」
「そうか。気をつけてな」


 そう言って鶴丸さんは戸を開けようとしてくれた。が、その手が戸に触れることは無く鶴丸さんの指先は物体を無視して通り抜けてしまう。


「っとと、俺には実体が無いんだった」
「あ、自分で開けます」
「そうか。いってらっしゃい」
「い、いってきます」


 がらがらがら、ぴしゃん。何事もなく閉まった扉。私は家の外の景色を望みながら立つ。不意にどっっとものすごい汗を全身にかいた。なんだこれ。今朝から一体何が起きてるんだ。なんだ、これ。

 そのまま私が学校に向かったのは、とりあえず気持ちを落ち着けたいからだった。ありえないことばかりが起こっている状況で、日常と同じ行動をすることで、冷静さを取り戻したかった。混乱する頭のままいつもと同じ道をたどり、通い慣れた校門を過ぎて校舎に入り、自分のクラスへと向かう。クラスではもうすでに三時限目の授業である「国史」が始まっていて、たっぷり遅刻した私は先生からのチクリと刺されるようなお小言を背中に受けて、席についた。その時にやっと、忘れられていた疲れがどっと吹き出し私を襲った。まるで遠い遠い国から帰ってきたように体全体が重くなって、私はすぐにノートを枕にして意識を飛ばしてしまった。




ちゃん、起きて。ちゃん」


 授業中に爆睡を決めた私を揺り動かしたのは甘く優しい声。顔をあげると、国語教師であり私のクラスの担任である女の先生だった。若く独身のその先生は、親しみを込めて私を「ちゃん」と呼んでくれるのだ。驚きつつ辺りを見回すと、国史の先生はもういない。そして他人事のように目を反らすクラスメイトたち。
 どうやら三時限目は寝過ごしたらしい。時計はまだ正午より前を差しているので、私が意識を飛ばしていたのは、どうやらほんの数十分のようだ。


「大丈夫?」
「ご、ごめんなさい……」
「それより、ちょっと」


 先生がいっそう声を潜める。ぞわりと、幽霊がわたしの首裏を頬をすり寄せたような悪寒が走った。先生がこれから告げるのは、悪いニュースである。直感でそう分かったが、身構える間もなく、その知らせが届けられた。


「今ね、病院から電話があったの。おばあさまの具合が、急に」




 母を亡くした私が、今までどうやって生きてきたかと言えば、それは一重におばあちゃんのおかげだった。時代遅れの和風の家屋はおばあちゃんのもので、母もおらず、父を知らない私を、厳しく優しく受け止めてくれたおばあちゃんと二人きり、暮らしていた。
 けれどここ最近は一人暮らしのようなものだった。元々体調を崩しがちだったおばあちゃんが、家より病院で過ごすようになってからもう一年が過ぎようとしている。

 ついにこの時が来た。正直な感想はそれだった。お医者様からは「よく保っている方だ」と言われていた。覚悟はしておきなさいとも言われていたが、覚悟なんて結局できなかった。そう、私は何もできずにこの時を迎える。

 ついにこの時が来た。私が最後の家族を失う日。
 こんな時どうしたら良いか。それを教えてくれる人も、私にはいない。






 私はひとまず、来たばかりの学校を早退して駅へと向かった。電車を乗り継ぎ、この辺りでは一番大きい病院へ向かう。我が家は不思議なくらいお金には恵まれている。だからおばあちゃんも一番良い病院へ通った。けれど、命の終わりはあらがいようもなく近づいてくる。
 おばあちゃんは本当に死んでしまうんだろうか。でも実感は私には無い。世界中がとても気楽に嘘をついている、そんな気分だった。

 病院につくとすぐ、よくしてくれている女性の看護師さんが私を迎え、おばあちゃんの容態を私にも分かりやすく話してくれた。看護師さんの硬い表情から伝わるいやな予感が私の全身をすっぽり飲み込んだ。けれどやっぱりわたしはどうしたら良いか分からない。
 看護師さんがぱたぱたと走り回り、お医者様が処置を終えて、「あとは待つことしかできない、何かあればすぐ駆けつける」。そう告げてお医者様は一度、部屋を出ていってしまった。私は何も言えなかった。看護師さんだけが、優しく「そばにいてあげて」と私をベッドの横へ導いてくれた。

 か細い息のおばあちゃんは、顔に血の色も、肌の色も無い。薄暗くくすんだ顔色が、黒いもやを纏ったように見えて、死がこの人を誘っているのだと、私は感じた。


「おばあちゃん……」


 管の繋がれた腕に触れる。生ぬるい。けれど、まだ暖かい。おばあちゃんは虚ろな目で、私を見つけて、のどを動かす。


「何? どうしたの、おばあちゃん」


 耳を寄せてその声を聞こうとしたけれど、煮詰まった唾液が絡んで、くちくちと言うだけだった。

 おばあちゃんは強く、しなやかで、私がこの人と同い年になってもかないっこないと思ったくらいに強い女性だった。けれど病院に通うようになり、私は一年という期間をかけて、この人が衰えていくのを目の当たりにしてきた。
 まだ弱くなった。また、また、小さくなった。その“また”が何回も訪れて、ここまで来てしまった。人が死んでいく。生命を亡くしていく、そのリアルが目の前に存在している。
 おばあちゃんが死んでしまう。それが分かっていても、死の手触りの恐ろしさが私を縛って、いっこうに泣けそうも無い。


「私はここにいるよ、おばあちゃん……」


 仕方なく笑ってみようとした時だった。おばあちゃんは目を虚ろにさせたまま、私の腕を掴んだ。まだそんな力があったのかと驚くくらい、強い力で引き寄せられる。


「な、何?」



 驚いていると、かすれかすれだけれどようやく声らしいものが耳に伝わる。


、だめ」
「え?」
「その男は、だめだ」
「お、男?」
「ゆる、さない……」


 驚いたのは、おばあちゃんの言葉から怨念のようなものが滲み出したからだ。元から怒らせると怖い人で、私が木登りから落ちて、大きな傷を作った時もものすごく怖かったけれど、こんな恨むような声は聞いたことが無い。全く向けられたことの無い怒りに、身震いするとともに、おばあちゃんの目が私ではなく私の奥の存在へと向けられていたことに気づく。
 はっ、として振り返る。いつの間にやら、鶴丸さんが目を眇め、そこにたたずんでいた。


「鶴丸さん、どうしてここに……?」


 私がそう聞いたけれど、鶴丸さんは返事をくれない。代わりに一緒についてくれていた看護師さんが「え、ツルマルさんって? 何?」と戸惑う。どうやら実体の無い鶴丸さんは、私とおばあちゃん以外には見えていないらしい。

 私と看護師さんは置いてきぼりのまま、二人は対峙する。


「来るな、出ていけ。私はおまえを、ゆるさないよ……」


 鶴丸さんは物の怪にでも退治するように声を低く唸らせて、おばあちゃんへ言い放った。


「ああ、やっぱり君か」