※平野藤四郎の極ネタバレです
※審神者のさんがおばあちゃんになって、孫まで生まれてます
※その孫→平野→さんの一方通行
※孫視点
この家のもの、全てのありか。それを全部知っているのは平野藤四郎だった。爪切りなんかの些細なものから、わたしの小さい頃の工作、学校で配布されたプリント、大事にしまってある宝物の隠しどころまで、平野藤四郎は全部全部知っている。
もちろん棚の、上から二番目の段にお茶のための道具が揃えてあることだって。
慣れた手つきで平野藤四郎はお盆に湯呑みを並べる。少し、背伸びをして。
家のことなんでも知っている、その平野藤四郎は知っているものの量とは正反対の、初等部に通うような男の子の姿をしているからだ。上から二段目の棚は、平野藤四郎にとっては背伸びしなければ届かない。
じいっと見ていると、平野もわたしに気がついた。もうひとつ湯呑みをとってから、聞いてくる。
「様にお茶をお出しするのですが。お嬢様も召し上がられますか?」
「……お菓子は?」
わたしは緑茶の味にまだあまり慣れていない。お茶が飲みたいかどうかは甘いお菓子次第だ。平野藤四郎は目を細めて言う。
「はい。一緒にお菓子もお出ししますよ」
すらっと延びる背丈と首筋の上にちょこんとのっかる小さな顔。切りそろえた髪に、この国の人間にしては薄い色合いの丸い瞳。わたしの家に仕えるこの平野藤四郎に、わたしはあと数年したら見た目の年が追いついてしまうのだろう。だって平野は、わたしが赤ちゃんの頃から姿を変えないのだから。
平野藤四郎は人間じゃない。
おばあちゃんは言った。「昔々、私を助けてくれた神様なの。そして今も私を守ってくれるの」。
おばあちゃんの言葉通り、平野藤四郎という神様は、おばあちゃんを守るために家に住み着き、おばあちゃんを主とした家族の身の周りのことを助けてくれている。
平野藤四郎は家族の全員に優しい。わたしがお祭りから連れ帰ってきた、金魚すくいの金魚にまで優しく毎日えさをあげてくれている。
でも知っている。平野はわたしにも優しくしてくれるけれど、一番に仕えるのはおばあちゃんたった一人だけなことを。
「お待たせいたしました。お嬢様、様の元へ参りましょう」
「え、おばあちゃんのところ?」
「はい。お嬢様がご一緒にお茶を飲んでくだされば、様は喜ばれますよ」
「そう、かな……?」
「ええ。お嬢様は様の大事な初孫なのですから」
確かにわたしは初孫だ。おばあちゃんはわたしを大事に大事に愛してくれている。だけど、平野の言葉に頷けないでいた。
わたしは思ってしまう。平野が、おばあちゃんと一番一緒にいたい平野が、一緒にお茶を飲めば良いじゃない、と。
だけどそれを言い出せずに、わたしは平野の後ろを歩いた。
おばあちゃんの部屋に着いた平野の足が、ぴたりと止まる。襖の中に痛切な視線を注いでいる。わたしも平野の背中から部屋の中を覗く。
「あ……」
そこにはベッドの中で眠っているおばあちゃんがいた。
布団はかすかに上下している。平野は声を落として言った。
「先ほどまでは起きていたのですが……」
「最近おばあちゃん、よく寝てるよね」
「ええ。……お嬢様、あちらの部屋に戻りましょうか」
「はーい」
わたしは大人しく、座卓のある部屋に戻る。そこにお茶をお菓子を並べると、平野は「失礼します」と一言おいて、部屋を出ていってしまった。
ほら、平野が一番大事なのはおばあちゃん。わたしと一緒にお茶を飲もうなんて思わない。
わたしはまだ少し苦手な緑茶を、お菓子で紛らわして飲み下した。
政府の機関で働いていたというおじいちゃんが亡くなったのはわたしが物心つく前。その頃からおばあちゃんは少しふさぎ込むようになったとお母さんは言う。
そのうちにおばあちゃんがほとんど歩けなくなって、もう2年。頭ははっきりしているけれども、おばあちゃんの人生がそろそろ閉じようとしているのは明らかで、お父さんもお母さんもその準備について時々話し合う。
湯呑みとお皿を片づけようと立ち上がる。こっそりおばあちゃんの寝ている部屋を覗くと、やっぱり平野が傍らに立っていた。何も言わずに、おばあちゃんに視線を注いでいる。老いてますます小さくなったおばあちゃんにつき従う、姿の変わらない男の子。
平野はそよ風みたいにかすかな声でおばあちゃんに囁く。
「警備の確認をして参ります」
警備の確認は、平野の昔からの仕事らしい。おばあちゃんと平野は、名はない、ただひたすらに「本丸」と呼ばれる場所で一緒に働いていたのだという。その本丸の主だったおばあちゃんを守るため、警備や警護などは毎日行っていたと、平野が言っていた。
お屋敷の周りを一巡りし、異常がないかを確認する平野の後ろをついて回る。
今お屋敷にはわたしとおばあちゃんと、平野だけ。おばあちゃんは寝ているし、起きていても動けないわけだし、つまり、わたしは暇だった。
「あのさぁ」
「はい」
「警備って、必要なの?」
「どんな敵が、様を狙うか分かりませんから」
「意味分からない……」
「様は本当に大変かつ危険なお役目を担っておられたのですよ」
「でも、それは昔の話でしょ?」
「確かにお役目は終えられましたが、様の能力は今も失われていません」
「そうなの?」
「ええ。僕がこうしてここにいられるのが、その証拠です」
「ふうん……」
おばあちゃんは、昔の仕事について半分くらいはわたしに教えてくれる。だけど半分くらいは教えてくれない。
政府で働いていたこと、平野たちとともに戦っていたことなんかを教えてくれる。だけど大事な情報は秘密のベールに覆い隠してしまうおばあちゃんの過去は、物語みたいな曖昧さにまみれている。
わたしは庭の片隅に落ちていた花を一輪、摘んで、匂いを感じながら平野の後ろを歩く。
「ねえ、平野。あのお話して」
「あのお話?」
「平野は、旅に出たんでしょ」
そこまで言うと、平野はわたしが言っているのが"どのお話"なのか、分かったみたいだった。
「ええ、そうです。60年ほど前になるのでしょうか、秘密のお方に連れられて江戸城、それから加賀へ行く旅へ出していただきました」
そう、そのお話が聞きたかった。平野がおばあちゃんの元を離れて旅へ出たときのお話。平野とおばあちゃんが離れて過ごした、最初で最後の日々。
「様は、僕を笑顔で送り出してくださいました。だから僕も感謝のみを胸に過去へと飛んだのです」
竹林をざくざくと歩き鳴らしながら、わたしは平野のお話に耳を傾ける。大好きで、心がまどろむ、子守歌のようなお話。
「良い旅でした。取り戻しようのない日々を垣間見る、懐かしさと、切なさが交わった時間でした。
懐かしの加賀を歩いていて、ふと思ったのです。ここを様と歩きたい、と。だけど隣には様はいなかった。当たり前です。僕が彼女を置いてきてしまったのですから。ふとその時、加賀の景色の中に、様の泣き顔を見たような気がしました。今考えてもおかしな話です。僕は様の泣き顔を見たことが無かったのに。
想像上の様の涙する様子は、まるで思い出の中で何度も見たかのように胸に迫りました」
「うん……」
「それで僕は、旅をすぐに終えて主の元へ帰りました。そして誓いました。この方に、どこまでもお供しようと」
「それで?」
わたしが意地悪に続きを促すと、平野は少し言い淀んで、恥ずかしげに顔を背ける。
「いえ、あの時は戦のまっただ中でしたから。覚悟の現れと思ってください」
「で? なんて言ったの?」
「"今後もお供します。……地獄の底まで"」
子守歌の最後に落ちる、密かにぞくぞくしてしまう、刃のような言葉。わたしはその落ちも含めて、このお話が好きだった。
優しい、平野がおばあちゃんを大好きになるまでのお話。だけど最後に落とされる、恐ろしの言葉。
「あれは覚悟の言葉でした。この人が例え地獄に行くとしてもその横に立っているのは僕でありたい。いや、どこへいこうとこの人の隣には僕がいるのだ、絶対に離れない。……と、そう伝えたいがための言葉でした」
「言い訳しなくて良いのに」
「言い訳ではありません。だけど、どんな辛いことも耐えきると心に決めました。なのに不思議ですね。今、この時は地獄とはほど遠い。むしろ平和や幸福以外に、なんと呼ぶべきなのか。僕には分かりません」
平野藤四郎はそう言って長く長く伸びる竹たちを見上げた。その顔は充足感に満ちあふれている。
確かにここに敵は来ない。わたしは命なんか狙われたことがないし、思い当たる節もない。現代は、過去に比べると最高の安全性を保っていると報道が言っている。だけど、わたしは平野になんて言葉をかけたら良いか分からなくなる。
平野は年をとらない。だけどおばあちゃんはあと一年、保つかも分からないのに、なぜ幸せだなんてなんて言えるのだろう。
「ね、平野は、おばあちゃんがいなくなったら、平野は……」
「お嬢様、僕は」
「………」
「どこまでも、主のお供を致します」
あっけらかんと平野藤四郎は笑う。
「地獄の、底まで?」
「その覚悟です」
きっとそうなんだろうな、と思っていた答えを平野はそのまま口にした。
何度も自分に言い聞かせている。この家のことをなんでも知っていて、誰にでも優しくて家族を守ってくれる平野藤四郎という神様。だけどどんなに優しくとも彼が守っているのは家でも、家族でも、わたしでもない。おばあちゃんたったひとりなのだ。
だからやっぱり、いなくなるのだ。おばあちゃんの命がこの世から飛び去ってしまうとき、この少年もいなくなる。寄り添って、お供してしまうのだ。
平野藤四郎が話す、修行のお話がわたしは大好きだ。地獄の底まで。平野がその覚悟を口にした時のエピソード。わたしはそのお話を聞く度に、平野藤四郎に恋のようなものを覚える。胸の痛さ、先々の人生までをこの男の子に奪われる、嵐に遭遇したかのような感覚。
そして、おばあちゃんがなぜ平野藤四郎を家に住まわせたか、その理由を知ることができる。
おばあちゃんにはおじいちゃんがいた。おじいちゃんとの間にお母さんを産み、そしてわたしが生まれた。だけど、おばあちゃんは平野藤四郎が好きだった。
今ここに平野藤四郎が存在するのはおばあちゃんが彼に恋をしていたから。きっと、わたしと同じように、平野藤四郎が好きだから。
竹林の見回りが終わり、わたしたちはお屋敷に戻ろうとしていた。勝手口をあける平野に、わたしは近寄らずに声をかける。
「平野!」
わたしは平野が好きだよ、おばあちゃんみたいに。
だけどそれは告げずに、わたしは笑った。
「おばあちゃんのこと、よろしくね」
「はい」
どこまでもお供しますという返事が嬉しく、悲しく、竹林とお屋敷と、両方の空間に響いて消えた。