彼女の香り、と呼べば良いのだろうか。俺が彼女が空気を揺らすのに気づかないはずが無い。そんな妙な自信を身につけてしまうほど、俺は彼女に視線を注ぐ日々を送りすぎていた。主である彼女ことをすり越えて、子女である彼女へ、視線を。
 だから後ろから、子供っぽく砂を足で突くように歩いてきた主には気づいていた。ただ、背後から抱きつかれるとは思ってはいなかった。

「おっと」

 追突と言っていいほど彼女がぶつかってきて、俺もふらついて片足が前に出た。抱きつかれる、といっても甘い気配は無い。
 その白い腕が俺の腹をぎりと締め上げるし、ぐりぐりと額の骨が俺の背骨に突きつけられている。言うなれば泣かされた幼子が、加護と慰めを求めて大人に縋りついているような状況だ。そうさ、こうして俺を両腕でひとりじめしようとするは加護と慰めを求めている。

、どうしたんだ」
「………」
「いや、答えなくて良い。けれどもしきみが相づちを求めているのなら聞く準備は出来ている」

 こうされるのは初めてでは無い。頻繁でも無いが、彼女の温度を忘れきる前には俺に追突して、離れなくなる。
 少々きつい体勢になるが、注意深く探ればそのさらりとした頭を撫でることが出来た。俺とは違う髪質。彼女のはさらりと流れるのに指に吸いつくようで、これがなんとも触り心地が良い。返事の代わりか分からないが、がいっそう額を俺の背に押しつけてぐりぐりとしてくる。くすぐったくて俺は少し笑う。着物を隔てた先にある熱い体はそれこそ泣き出しそうな子供の体温だ。

「肉の無い体で悪いが、まあ今は君の刀剣男士だからな。好きにすればいいさ」

 彼女からすれば俺は、無い無い尽くしだろう。肉どころか、腕に龍もいない。声に彼のような硬さも、潜む暖かさも無い。肌の色も違ければ、信条も違う。
 全く、伽羅坊と似ているところなんてありはしないのに、彼女は俺で人恋しさを満たそうとする。

「しかし……」

 背中越しに彼女の呼吸が伝わってくるように、俺の気の抜けたおおげさなため息も彼女に伝わったのだろう。

「どうして俺なんだ?」
「……こうしていれば、嫌われる心配、無いから」
「っはは! その通りだな!」

 実にはっきりとしていて、良い答えだと思った。俺を抱きしめることで、彼女は傷つかないでいられる。大倶利伽羅に拒絶される痛みを知らないまま、腕の中を人肌で暖めることができる。
 分かっていた。加護と慰めを得るのに、俺は都合の良い存在だ。

 女子にしては力が強くすがりついてくる腕。骨と骨が擦り合うことになぜか身体の奥まで痺れる。
 生け垣の躑躅が美しい。君はあたたかい。君が愛しい。躑躅が美しい。愚かさや臆病さまでも君の一部だなと、君を嫌悪できないでいる。仕草から体温から髪の美しさから何から何まで彼女を子どもに当てはめるのは、それが俺が傷つかずにいられる術だからなのだろう。








 鶴丸はどこで何を見て、そう思ったか知れないが、いつからか信じきっていた。私は大倶利伽羅が好きなんだ、と。私が好きで、何度も諦めようとしているのは、他の誰でもない鶴丸国永だ。なのに鶴丸の中にそんな偽の私が張り巡らせられていると知ったとき、どれほど怒りと悔しさを抑えるの苦労したか、彼は知らないだろう。
 けれど意味の分からない、"片思いする主"という偶像を私にあてはめて、自分は第三者のような顔をして私を見ようとしない彼を、私は結局嫌いにはなれなかった。むしろ貴方は他人の恋路をそんな真っ直ぐに応援する男なのねと、その表情に胸くすぐられていることもあるのだから私は重症だ。

 そんな取り返しのつかない私はいつしか、鶴丸の勘違いを利用するようになっていた。
 私が別の誰かを好きだと知った鶴丸は、「俺にできることは無いか」なんて言って、今まで以上に私に無邪気に接してきたのだ。
 その距離はもちろん友人としてだ。恋にはもっとも遠い距離感だけれど、主と刀の関係よりはずっと心地よく、気楽に言葉交わすことができた。
 どうせ叶わない恋なのだから、都合が良い。私の恋の相手を、他人に置き換えることで、私は安全圏に入れることが出来るのだ。

 貴方がそう思うのならそう思っていれば良い。私が大倶利伽羅に懸想をしているのだと思い込んでいて。そうすればこうして急襲して必死にかき抱いたとしても、貴方は汚い私には気づかないのだから。

 遠くから見ると薄く感じるのに、こうして両腕でだきしめるとたくましく、良い香りのする鶴丸の体。白いそれを私は潜水からの息継ぎをするように、抱きしめた。

「しかし……」

 呆れたように鶴丸が気の抜けたため息を吐く。それが耳の中いっぱいに反響して、こんなにも彼の呼吸が近いことに、密かに胸が高鳴った。

「どうして俺なんだ?」
「……こうしていれば、嫌われる心配、無いから」

 私を嫌うひとを、鶴丸は大倶利伽羅だと思うのだろう。本当は今抱きしめられている貴方だというのにね。

「っはは! その通りだな!」

 私は息が詰まって、歯を噛みしめていなければ涙が出そうだというのに、鶴丸は余裕で生け垣の躑躅を見ている。私には鶴丸しか見えていないのに。その白い背に、涙が伝わってしまわないように一生懸命だと言うのに。

 ひとつの嘘のおかげで、鶴丸には一生この気持ちを気づかれずに済んで、私の下心を知らないまま。そして私は鶴丸に拒絶される痛みを知らないまま。彼が、時に生まれたばかりの人間として子ども扱いしてくる度、時に友人として捧げてくれる友愛に浸る度に思い知らされる。一生想い合うことなんてありえない。だから、一生傷つかずに済む方法を選んだまでだ。

 こらえるように腕に力を込めると、私の強ばった手に、彼の温度が重ねられる。何気ない優しさを受け取る度に、私は、ああ嘘をついて良かったと思う。