髭切と私の関係は、出会った瞬間に決まった。座っていた席にあらかじめ役割が振られていたことに気づいたみたいで、互いにすんなりとそれを飲み込んでいた。
あてがわれた役柄から逃れられなかったのはそもそも、目が合ってしまい、見抜かれてしまったのだ。寂しい、欠落した生き物な私を。
「主」
髭切にそう呼ばれるのは未だに慣れない。言う方がからかいを混じえた言葉選びだからだ。
彼が放つ主従の言葉は全て、ごっこ遊びの延長に見える。自ら源氏の重宝を名乗る髭切は、その自負も強い。彼が一介の人間に過ぎない私に、従う道理があるとは思えない。
「はいはい」
従順を装う彼に今日も違和感を覚えながら、私は顔を傾ける。
と、髭切は黒いタートルネックに身を包んでいる。つまりは内番服だ。内番を命じた覚えは無いのに彼は勝手に戦装束を解き、普段より一層、害の無さを装っている。
「何。代わりに畑当番でもやってくれるの」
「あはは、まさか。この前の時に、思い切って、そこらじゅうをえいっと刈り込んだからね」
「………」
「しばらくは坊主のままだよ」
なるほど、前回の内番を、彼にしてはかなりまじめに取り組んだらしい。畑周辺がやけに殺風景だとは思っていたがどうやら髭切の仕業だったようだ。
「僕が出るような戦場はしばらく無さそうだからね。のんびりしてるんだ」
長身を折って彼は私の真横に座る。柔らかく横に伸びている血の気の薄い唇から、僅かに犬歯が覗いた。
他の刀ならば来る戦に向けて鍛錬に励むものだが、私なんかの隣で、「主」なんて遊びで呼んで時間を食いつぶそうとしている。
「主。手を貸して」
「何?」
「両手だよ」
言われるがまま両手を差し出すと、髭切はそれを捕らえてくるりと私の体の向きを変えさせた。この時期にしては冷えるからと、薬研がどーんと置いていった火鉢に手のひらを向けさせる。
「な、何……?」
「んー。もうちょっと」
髭切が何をしたいのか、さっぱり分からない。現状は、ただ私の手があったかいだけだ。
訳が分からないまま火に手をかざして、次第にちりちりと焦げそうに思えてきた指。まだ手を温めなければいけないのかと焦れてきたところを、髭切のそれがすくい上げた。
息を詰めたのは、触れあったのが素肌同士だったことだ。いつの間にか髭切は手袋を取り去っていた。現れた白皙の指が、私の赤く熱をため込んだ手を包み込んで、言った。
「うんうん、あったかいなぁ」
開いた口がふさがらない。この男は、どうやらただ暖をとるためだけに人の手を火鉢で焼いたらしい。
私の方は焦げそうに熱かったのに、髭切は上機嫌で触感を楽しみながら溜められた熱を味わおうとしている。
先ほどまで炙られていた手と比べてしまえば髭切の手のぬくさなんて無いようなものだ。熱く腫れ上がるような私の手、冷やっこい髭切の手。ふたつが合わさればそれは少し高めな体温に落ち着いた。
体温を分かち合う、甘さのある行為。
私は何も言えずに手と、そこにくすぶった熱を髭切に与えている。
髭切がこんな姿をさらけ出しているのは、一番に私に原因があるのだろう。結局、私が強く言えず、髭切を許してしまっているからだ。
ひとたび目が合った瞬間から、髭切には見抜かれていた。私がどうしようもない寂しがりであること。それが冷やかしだとしても隣に誰かがいてくれることを求めてしまう。
今だって、呆れてはいる。けれど怒れない。分かっているんだろうな、彼は。こんな戯れに私は心絆されている。知っているのだろう、彼は。私の望むこと、望むがゆえに拒めないことを知っている。
そんな自分を見抜かれて、私は今日も、弱みにつけこまれている。
「……浮かない顔だね」
「いつもそうでしょ」
「ううん。もっと、沈んだ目をしているよ」
「そう」
「嫌だった?」
口では問いかけながら、私の手に頬ずりをしてくる。私は彼も想像したであろう通りに、「そうじゃない」と返事をした。
彼の甘やかしは、言わば適切な処置だ。傷口を押さえて止血したり、やけどを冷やして軟膏なんかを塗ったりするのと同じ。
拒むわけが無い。ただ。
「皆の目があるところでは、やめてね」
「どうしてだい」
「膝丸が、嫉妬するのよ」
大切な兄を盗られたと、尊敬する兄を私が狂わせたと、恨みを抱くのよ。
そう昔の話でも無いのに、今は懐かしいこと。
源氏の重宝を揃って名乗る二振りは、弟の方が数週早く顕現したのだった。彼は名を告げ、二言目には兄のことを訊ねたのだった。
明らかに蛇を思わせる眼が、意外に敵意なく私を見下ろし、またも意外に家族の所在を気にしている。なんだか毒気を抜かれたのを覚えている。
調子を崩されたのはそれだけじゃなかった。
兄の存在を問われて、私は苦々しい気持ちで今在るのはあなただけだと答えた。すると膝丸は、「そうか」と。一言だけの返事をした。きっと失望させてしまう、審神者として情けなく思われるだろうと覚悟していた私からすれば、そっけない返事から優しさすら感じてしまったのだ。
隙を見せず、冷静な戦いぶりを見せる膝丸は、すぐに私にとっても皆にとっても、頼れる存在になった。ただ私には、頼りにするだけでは、終えられなかった。
私という人間は、常に他者を警戒し、いつだって仮面を必要としている。審神者として、主としての仮面だ。皆に嘘をついていたいわけでは無い。が、ただ本当の私はみっともない。
生まれたままの私ではきっと日々の進軍や出陣の号令すら腰が引けてできない。それくらいの臆病者なのだ。だから必要不可欠だった。私は主たりえる人間だという嘘が。
膝丸は。
彼はどこかで自身の胸の内を明かそうとはいなかった。同じように、本当の私を見透かそうとはしなかった。
彼の声に乗って「主」と呼ばれる。それは髭切のものと違い、真実みを帯びている。という人間ではなく、私を主人として、仕えるものの生死を引き受ける存在として必要とする、一途な声色だ。
それを聞くと、私は安心するのだ。
『膝丸に主と呼ばれるのが一番、良い』
髭切のまだいない時期だ。馬鹿正直に膝丸にそう打ち明けたことがある。
好きだとはとても言えなくて、良いと偉そうに彼の喉を批評した。
『そうかな』
捕らえ方に迷う言葉を返されたが、言い方はいつものそっけなさがあって、また安心していたのを覚えている。
『膝丸に呼ばれると、なんだか、自分が少し良い人間みたいに思えるの』
彼との関係は、味気なくも確かに私に夢を見せてくれる。
無理するなとか、頑張っているねとか、お疲れさまとか、大変だろうとか。そういう言葉を素で言える優しい心を持つ刀ばかりの本丸で、膝丸ばかりは、偽る私を偽りのままでいさせてくれるのだから。
膝丸が私の嘘を嘘とも真とも言わなかったのに対し、髭切は、正に真逆だった。
嘘を嘘と一目で見抜き、嘘は嘘と肩をすくめて切り裂き、私が怯えることも承知で、心の奥底で欲望するものを突きつける。
それは救いになったはずなのだ。膝丸にさえ、許されれば。
膝丸のことを考えることは今は辛い。顔を合わすことも今は苦痛を伴う。
髭切を慕うが故に私に向けられる、膝丸の汚らわしいものを見る目が、少しの間結ばれた穏やかな時を塗り換えていってしまうから。
「できた!」
弾んだ声とともに私の髪を巻いたり引っ張ったり撫でつけたり解いたりしていた手がようやく離れていった。
本日も、私は髭切に甘やかされている。今度は頭を弄ばれるというかたちで。
「………」
「もっと嬉しそうな顔しなよ」
「何がどうなってるかよく分からないもの」
ただ髭切に、されるがままになっていた私には、いつもは下ろしている髪の毛が全て首から上に集まっていて頭が重いのと、それからやたら良い香りが頭から降りてくることくらいしか分からない。
「……、ああ!」
「今気づいたの!」
「うん、自分の目で、自分はなかなか見えないよねぇ」
髭切は勝手知ったる様子で迷わず引き出しを開けると手鏡を取り出した。
ただ手渡すんじゃなく、私の手をとって鏡を握らせるのが髭切の甘いところ。
のぞき込むと、頭を飾りたてられた私が少し間抜けな顔をして映っていた。
私のとかしただけの髪と、五虎退が虎くんたちと庭から集めて差していた花。ふたつをおもちゃにした結果は、息を飲む出来だった。
花は茎をピンに挟まれ、さぞかし息が詰まることだろう。けれどさすがと言うべきか髭切の趣味が良い。どう配置すれば、それぞれの花が引き立つのか知っているようだった。耳の横にあしらわれた花の玉は嫌みの無い色使いで、出来上がりは高貴な女性を思わせる上品さだ。
「………」
「あはは。減らず口がどこかに行っちゃったねぇ」
思わず彼に持たされた手鏡に見入って、首を傾けたりなんかしてしまう。
「気に入ったみたいだね」
「……上手く、言葉にならない」
素敵だと思う。だけどそれを喜んで良いのか、嬉しがって良いのか、感情が選べないのだ。
「今日は僕はここにいられないから、それを残していくね」
そう。今日の髭切はしっかりと戦装束に身を包んで入る。出陣を命じたのだ。
顔を歪ませているであろう私に、髭切は晴れ晴れとした様子で手を振った。
「うんうん。そうやって、困りながら僕を待っていてね」
ひとりになった部屋でまだ私は手鏡を置けていない。
自分が飾られるということ自体、本来身分不相応で落ち着かない。けれど、身の丈に合わないことをしている恥ずかしさのために、見事な花の玉が犠牲になって崩されてしまうのはもったいなく思われた。
髭切が願った通り、私は困り果てていた。彼はこんな反応をすることまで見透かしていたのだろうか。頭がくらくらして苦しく、ため息が出た。
「主」
熱を抱えた私とは正反対の、冴えた声。思わず肩をびくりと、震わせてしまった。
「何をしているんだ」
膝丸の声だ。さっ、と血の気がひく。
「こないで」
反射的な拒絶の声が出た。彼に見られたら、不快になるのは彼だ。一目見れば分かってしまう。この本丸で大胆にも主をおもちゃにしているのは髭切くらいなものなのだ。
膝丸をこれ以上苛立たせたく無い。嫌な気持ちをさせたくない。だけどそのために私は、髭切のいたずらを引きちぎれない。
「主……」
昼間のまぶしいくらいの光を背に、膝丸は姿を現して、私を見るなり分かりやすく固まった。隠れる場所も無く、私は彼から顔を背けるしかできない。
「どんな用ですか」
「何をしている」
お互いの声がぶつかり合って、二人で沈黙した。
「いや……、何をしていたと言うべきだな」
「………」
「兄者か」
その通りだ。だけど彼の気持ちを知りながら、無邪気に答えることなどできない。
膝丸は無言で私に近寄ると、強い力で飾りを引きちぎった。それはピンごと私の髪をひっぱり、あるいは茎からちぎれて青臭い匂いが舞った。
「これは兄者か」
「………」
「兄者だろうな。主はこんなことができる器用物では無い」
「………」
嫉妬に歪む薄緑。弁解は、できたと思う。違うとも、髭切がやったんじゃないとも、私と髭切は何も無いし奪うつもりも無いとも。髭切はここにはいないし、私は髭切からの一方的な行為を受けているだけで、彼と想い合っているわけでは無いと、言ってもよかった。
ただ私が下手な言葉を使って髭切の尊厳を傷つければ、それは膝丸をも傷つけることになる。
膝丸は様々な感情を混ぜ込んだ複雑な、けれどかろうじて辛そうとは言い切れる表情で私を見下ろしていた。
「ごめん、なさい」
果たして私に膝丸へ何ができようか。
泣いたって何にもならない。だから泣くまいとこらえているけれど、謝罪だって、何にもならない。何をしても、彼の不快にしかならない状況に、情けなくて眼だけが熱い。
「兄者が好きなのか」
黙り込んでいた膝丸が不意に言う。
「それは……」
好きとは違うのだ。髭切は私に必要なものを持っている存在なのだ。怪我の処置と同じで、主としての自尊心を保つための嘘とも同じ。
答えを言いあぐねていると、膝丸は忌々しげに言った。
「先に主を見つけたのは俺だ」
「え……」
「なのに主は、兄者なのか」
ガツンと頭を殴られたようだった。
急に温度が分からなくなって、喉がからからとした。
「先に、主と関係を築いたのは俺じゃなかったか。俺は、俺の働きは、主を支えられていたと思った。けれどもう主は、兄者が良い、と」
ずっと疎ましげにこっちを見ていた。妬みの目を向けていた。私に歪めた顔ばかりを見せるようになった。
けれど違った。原因は私であったけど、私だけでも無かった。
そっち、だったのか。理解がするする頭から、全身を伝って流れ落ちていった。
どうしよう、どうしよう。
からくりは分かった。けれど状況が良くなったとは思えなかった。決して近づくことは無く、遠ざかりもしない関係が好きだったと言えば、私は彼に今度こそその刃で斬られるかもしれない。
髭切が帰ってくる時間が迫っている。
「主」
混乱ばかりの頭に、その音が響く。
「……ひ、ざまる。もっと……」
「何がだ?」
「主と、呼んで欲しい……」
髭切は私に必要なものを知っていた。それを与えることもできる存在だった。けれど彼の声色は、欠けた私を、何も頑張らない、欠けたままの私でいさせてくれる。
膝丸の手が伸びてきて、私の両肩を捕まえて、やがて抱きすくめた。私たちは、すがたかたちは男女であるし、手入れは行うものの、主従を結ぶ関係である。こんなに濃密に、お互いに触れたのは初めてだった。
「主……」
たくさん傷つけたかと思っていた。私のことが嫌になったとばかり思っていた。私はまだ膝丸からそう呼んでもらえるのだと思うと、体中の緊張を打ち砕く安心が広がっていく。私の体を、あまい安堵が支配している。身動きひとつしたいと思えなかった。髭切が帰ってくる時間が迫っていると、分かっていても。
「主?」
そして部屋に、柔らかいが違和感のある声が届いて私を呼んだ。