ネオンが光り出してきた街に溶けていってしまう友人に手を振った。彼女はこれからサークルの飲み会らしい。これからの予定なんて無い私は、誰も待っていないワンルームの部屋に帰らなくちゃいけない。なのに、あれ、と違和感を覚える。
 胸に刺さりっぱなしの、寂しい時にばかり自己主張してきた棘が、痛くない。

 そう気づいて視界のすみにちらつくのは、象牙色の髪だ。真珠色の肌だ。それと同じく薄い色をした唇だ。
 けれど、今日も期待はしない。そう厳重に心に決めてから帰ったのに、アパートの玄関には、彼が長い四肢を折り畳んで座っていた。

 待っている姿が大きな、白猫にも見えた彼が顔を上げる。


「おかえり」
「髭切、来てたんだ」


 彼は髭切。その他に彼について知っていることは、あまりない。全く知らないというわけでもないけれど、それは顔が綺麗だとか背が高いとか、髪の毛が柔らかそうだとかまつげが長いとか。見れば誰でも分かる、その程度の情報だ。


「久しぶりだね。いつぶりだっけ」
「ちょうど一ヶ月だよ」
「そんなこと、よく覚えてるね」
「誰かさんに接近禁止されてたからねぇ」
「そういえば、そんなこと言ってたね」


 一ヶ月前にうちを訪れた髭切は、次来るまでに少し時間が空くとは言っていた。ここに来たことで怒られてしまうんだぁ、と言いながら、特に困っているわけでも、誰かの怒りを恐れているわけでもなさそうだった。
 誰に怒られるのと聞いたら「名前なんか覚えてないよ」と笑い混じりで言うから、他人事のくせに私の方が冷や汗をかいたんだった。そっちの方が怒られちゃうでしょ、って。


「あ、どうしよう……」
「ん?」
「自分のぶんのお弁当しか買って来てない」


 私は片手で、コンビニの袋を持ち上げる。一ヶ月も間が空いたし、髭切は毎回事前の連絡なんてくれないしで、まさか髭切がくると思っていなかった私は自分のぶんの食事しか買っていない。
 冷蔵庫の中身といえば、ヨーグルトとマヨネーズと牛乳と……。とりあえず乳製品地獄である。


「髭切のぶんも、買いに行こっか」


 髭切はすっくと立ち上がる。その背は私より頭ひとつぶん高い、おそらく年上の男のくせに


「うん、いいねぇ!」


と、ひどく子供っぽく微笑んだ。





 髭切が現れたのは私が大学入学のため、このアパートに越してすぐだった。アパートから見える、桜の花房を後ろに「やぁ」と挨拶された。


『元気だった?』


 そう、問われた。私は、『どちら様ですか?』と返したんだった。
 私は彼のことを知らなかった。忘れているのかと何度も考えた。けれど彼ほどの美しい、けれど異様な姿の人間は忘れるわけがないので、初対面なのは間違いないと今は納得している。

 それから何度も彼は私を訪ねてきては、食事やおやつを食べると、帰っていく。
 またくるよ、と目を細めて。少しすると本当にまたやってくる。

 私は髭切が何者かを、全く知らない。
 多分、仕事はしている、のだと思う。服装はきっちりしているし、物腰は柔らかいけれどだらしないところは無いからだ。私を訪ねてくる髭切はいつも同じ服を来ている。舞台衣装のようだから、たぶん人の前に立つ仕事をしているんじゃないかと想像している。

 髭切という名前だって、彼がそう呼んでくれと言うから合わせたのだ。ネットで調べればSNSで何かしらひっかかるかと思ったけれど、出て来たのは日本刀の名前だけ。髭切なんて名前の人間は見つからなかった。
 彼は苗字を聞いても教えてくれない。「そんなの無いよ」と柔らかく言い張るのだ。
 だから、やっぱり髭切というのは偽名なのだろう。私は、彼の本当の名前だって知らないのだ。


「いただきます」
「いただきます」


 わたしはペペロンチーノのスパゲッティ。髭切はざるそばを前に手を合わせた。もちろんどちらもコンビニ製だ。


「大学、どうだった?」
「え、ふつうだよ」


 髭切はいつもこうだ。一緒の食卓を囲むと、学校生活を聞いて来たり、元気にしてるのかとわざわざ言葉で確認したりと、私の、保護者みたいな質問をする。
 知ったてなんの得にもならないことを髭切はにこにこと聞きたがるのだ。


「ふつうだけど……、今日告白された」
「そう」
「断ったけどさぁ……。正直きまずい。こっからサークルがどろどろしたらヤだな」
「ふふ、そうなんだね」


 ひたすら綺麗だけど、素性の不明な髭切。怪しいということは分かっている。けれど、誰かと食べるご飯はなんというか、とても誘惑的なのだ。甘い匂いなんかさせないけれど、あと1ピースで完成するパズルみたいなものだった。
 胸に刺さりっぱなしの、寂しい時にばかり自己主張する棘を小さくしてくれているのは、間違いなく髭切だ。

 プラスチックのフォークで、プラスチックの器をつつくと食器じゃなくておもちゃみたいな音がする。髭切はずるずるとお蕎麦をすすっている。


「ねえ。私真剣にかんがえたんだけど」
「うん?」
「髭切の正体ってさ、本当は私の遠い親戚かなんかなんでしょ。それとも生き別れの兄と妹だったり?」


 髭切が目を丸くさせる。まだ口にお蕎麦があって、彼が何も言えないうちに言葉を継ぐ。


「ほら、前に言ったでしょ。私施設育ちだから、本当の両親のこととかよく分からないし。なんだかんだで髭切が私を気にする理由考えたら、やっぱり、そうなのかな、って……」
「僕と、君が?」


 確かめてくる髭切の声が、もう楽しそうだ。だからすでに私は自信を無くしながらも、頷いた。


「……うん」


 案の定、あっははははと髭切がお腹から笑う。


「うーん。そっかぁ。僕たち、血が繋がっているように見えるかなぁ?」
「いや、それは……」


 見えない。髭切の何もかもが、私と持っているものと違う。骨のかたちだって似ていないし、肌も構造から違うような気がしている。ひょっとしたら人間ではないんじゃないかと思えるくらい。


「そうだったらきっと面白かったよねぇ。君が僕の側(がわ)に生まれて来てもいいし、僕が君のそばに生まれても良かった」


 髭切が、もしも私たちが親類だったらを夢想して目を閉じる。そのまつげの長さは精巧という言葉がぴったりで、やっぱり、私と髭切はひとかけらの遺伝子も重なっていなさそうだ。
 ならば、なんだというのだろう。私と髭切をつなぐものとは。


「ああ」


 髭切が嘆息する。彼の視線はカーテンの隙間から窓の外を見ている。


「どうしたの?」
「また奴らが、かんかんになって来てるよ。僕を叱ってやろうってね。まぁ、いいんだけど」
「髭切って、誰に、なんでそんなに怒られてるの?」
「うーん誰かは、さすがに言えないなぁ。でも僕が約束を破っちゃうからね、怒るんだ」


 言いながら髭切は、蕎麦つゆを流しで始末をしている。深刻さが全く伝わってこないし、髭切自身もそのことを重大に受け止めてはいないらしい。


「……髭切がしていることが、誰かを怒らせるようなことなら、それはやっちゃいけない理由があるからじゃないの?」
「うん?」
「約束を、破っていいの?」
「よくないねぇ。でも、またくるよ」


 何が”でも”なの?
 約束は破るのはよくない、でもまたくるよ?
 彼らを怒らせるのよくない、でもまたくるよ?

 私は一人暮らしをする、ただの大学生。血の繋がりはないし、髭切と知り合いだったわけでもない。だけどなぜか髭切は、私に会いに来ては保護者のような質問をする。


「髭切は、私に会いに来てなんかいいことあるの? 髭切に得することがあるとは、思えないんだけど」
「損得じゃないよ。ただ、幸せかなぁ、元気にしてるかなぁって思うだけさ」


 あっけらかんと髭切は笑っている。白金の上着を羽織り直して、彼はもう行ってしまうらしい。

 頭で考えたら、私は今までで一番幸せだ。施設で育てられた人間が学費なんか出せるわけないからと諦めていた大学に、政府から奨学金を出してもらうことで通うことができた。同じく政府からの支援もあって、一人暮らしもどうにかなっている。風邪も怪我も、誰かに殴られた後も今は無い。

 だけど急に、髭切の前ではそれを隠したくなった。


「じゃあね」


 元気だよ、昔よりずっと幸せだよ。だけど寂しいからここにいてよ。そう言いたいのだけど、胸にひっかかる何かが口を動かさせてくれない。何かは髭切を見送るように、と声を縛り付ける。
 羽織った服がたなびく背中が寂しそうに見えてもそれを見送るように。それが罪にふさわしい罰なのだから、と。