空は、厚い雲の切れ間からわずかに青い色を見せていた。晴天から急に曇るこんな日、主は青白い顔をして仕事をするが、終いにはくったりと畳から起きあがれなくなってしまうのがいつものことだった。
彼女の様子を見ては「無理をするな」と声をかけ、座布団をしいてやり、体に何か掛けてやるのは、今や近侍のおれの仕事だ。おれの性に合わないと思いながら、主が俺に渡した仕事を怠ることはできない。今日も例に漏れず体が辛いようで、彼女は早々に座っていられなくなってしまった。今は横になり、おれの羽織を握りしめ寝ている。
いつのことだったか。すぐ近くに彼女にかけてやるものがなく、おれの羽織を仕方なしにかけてやった。それ以来、彼女は具合が悪くなればおれの羽織を求めた。これがいい、なんだか安心する。青い顔でそう言われてしまえば、一刻も早く良くなってくれることを願っておれは自分の羽織を彼女に明け渡してしまう。
横たわる、この小さな人間の体におれは何もしてやれない。ただ傍にいるだけ。
窓のそとの、僅かな空を見ていた。
「大丈夫か?」
「すみません、大丈夫です」
「白湯でも、飲むか」
「いえ、大丈夫。もう少ししたら起きて、はたらきますから」
「無理をするな」
焦らなくて良いのだ。ただ体が動かなければ、それは休む時であるのだ。
「そう責任に強ばるな」
女らしいすべすべとした手を握りさすってやる。そうすると、ふうっとの体から息が抜けていく。
「長曽祢さん」
「なんだ?」
「頼りない主で、ごめんなさい……」
「……頼りないなんて、思ってないさ」
本心からの言葉だった。がいなければ、俺たちはここに在ることができない。審神者なしでは付喪神は肉体を得られないこともある。だがそれ以上に様々な時代に生まれ様々な時を経て付喪神となったおれたちがひとつの部隊としてまとまるためには、このひとがいなければならないのだ。
人間ならざるおれたちの体を思いやり、短刀から槍やら薙刀まで引き入れひとつの集合体として受け入れてしまう、彼女の優しい魂がなければおれたちは今日まで戦えていない。
だが困ったことにこの主は、自分が果たしている役割について全く無自覚なのだ。
現に、そんなことないですよ、とは少し唇を緩める。そして自らの存在価値を感じられずに、悲しげに眉をひそめるのだ。
「長曽祢さん、覚えていますか。あの日のこと」
「あの日?」
「わたしがあなたに近侍をお願いしたのも、こんな寒い日でした」
おれはちっとも寒くないが、彼女の体は寒さを感じているらしい。おれはまた丹念に、彼女の手をさすってやる。
「驚いたよ。浦島がおれを呼びに来て、大事な話があるっていうから何かと思えば」
「大事な話だったでしょう」
「ああ、そうだな」
おれは戦うことには長けている、と自負している。刀としての働き方なら自分の背負う名に負けない自信があった。だが、彼女が突然に提示したのは近侍。彼女の一番近くにつき従う、彼女の刀ではなく彼女の腕となるための仕事だった。
『どうしておれに?』
そう問えば彼女は弱々しい声で語った。「先の作戦でわたしを信じてくれたから、私の決断を待って控え、そして叶えてくれたから」と。
おれにしてみれば当然のことだった。主として認めた人物が答えを出すのを待つこと。そして長考してでも出した自分の答えを、信じさせてやりたくて、戦った。
『刀としての仕事は精一杯果たしていると思う。が、おれはそう特別、主に何かしてやれていない。だからその評価は的外れに思える』
そう素直に伝えたのだが、刀剣の言葉を優しくも聞き入れてしまいがちな主は、そこだけは譲らなかった。頑として、おれに言ったのだ。
『長曽祢さんがいい。だから、わたしはあなたを近侍にします』
「あの時に言っただろう。おれは力仕事なら負けないが細かい仕事はあまり得意じゃないと。……どうだ、言葉通りだっただろう」
茶化して言えば、彼女も笑い混じりに同意してくれた。
彼女の近侍になって以来、どれだけ間違え、どれだけ彼女に仕事を教わっただろうか。それでもは俺を隣に置き続けた。振り返れば幾度となく、優しく許しをくれた彼女の顔が思い浮かぶ。
「でも長曽祢さんは、とても謙虚で。わたしなんかの言葉をよく聞いてくれて。教えればきちんと覚えてくれて。本当に、本当にできたひとです」
「そうか?」
「はい。長曽祢さんは何か教えると必ず“ためになった”“感謝する”って言って。強いひとなのにわたしなんかに頭を下げて……ううん、強いひとだからそう振る舞えるんですね」
「かいかぶりだ」
「そうでしょうか」
そう言うと、彼女は起きあがろうとした。
「まだ寝ていろ」
「いいえ。そろそろ遠征部隊が帰ってきます。こんな姿見せられません。わたしは頼りない主ですから、これ以上皆に余計な心配をかけられません」
「遠征部隊が帰ってきたらまずはおれが出迎える。はそれから起きあがれば良い」
「でも」
「空元気は見抜かれるぞ」
「………。そう、ですね……」
やはり辛かったのだろう。彼女は、立ち上がれず、こてんと頭をおれに預けた。触れているところから熱が行き来して、じんわり互いにあたたまる。
「長曽祢さん、ここにいて」
「ああ……」
そんな甘いことを言うから、おれは強い言葉では伝えられない。は十分に有能な主である。慎重な考えの持ち主だから決断まで時間を必要とするだけだ。女人であるせいか、男に比べれば体を壊しやすいだけだ。皆はを慕っている。刀たちは、主が自分たちを決して見捨てないと知っているから彼女のために働いているのだ。主が皆の中に在る大切にされている自分を認めれば、そして皆が主の隠している部分を分かり合えば、全ては上手く回り出す。
「あなたがそばにいるだけで良いんです」
お前の言葉は時々、おれの背筋をなま暖かく舐め上げる。特別な愉悦を抱かせる。
だから、おれ無しでも十分やっていけるなどとは言えずに、今日も明日も、彼女は盲目のままなのだ。