わたしの初期刀となってくれた山姥切国広。彼の美貌を覆うようにかけられた布について、いたずらごころならわいたことがある。彼がまどろんだ隙に、その布をとってしまおうだとか、考えたことはある。でもその計画を成功させたことは、未だかつて、無い。

「珍しく山姥切が縁側でうたた寝してたことがあって、それでそーっと手を伸ばしたことならあるんだよね」
「へえ!」

 今日の雑談に応じてくれる今剣が、赤い目を大きく見開いて言う。

「でも、だめだったんですか?」
「そうなの。あとちょっとのところで彼に気づかれちゃった」

 企みが失敗に終わった時のことはよく覚えている。
 美しい寝顔が、急に敵意を持ってわたしを睨みつけ、反射的に目をさました彼に、手を払われたのだ。強くたたかれた手の甲がじんじんと痛んだ。ちょっとおかしかったのは、彼もわたしも、お互いに驚いていたことだ。
 わたしは強い力で拒絶されたことが驚きで、多分山姥切にとっては、わたしの手を叩いてしまったことは予想外のことだったのだ。辛そうな表情で「すまない」と告げ、去っていってしまった山姥切に、わたしは随分後悔したものだ。やらなきゃよかった、と。

「でもきっとあるじさまがちゃんとたのめば、やまんばぎりくにひろはかおをみせてくれるとおもいますよ」
「そうかなぁ……」

 わたしにはいまいち、そのイメージは浮かばない。彼は初期刀として付き合いも長く、わたしは彼に信頼を置いているけれど、彼にもプライドというものがある。わたしが頼んだからといってそう易々と、あの布を取り去ってくれないだろう。

「そうですよ!」

 だけど不思議なくらい今剣は強い口調で言い切った。

「やまんばぎりくにひろは、あるじさまがいちばんだいすきですから!」






 山の斜面を駆け降りる。ほとんど落ちるようでもあるのに、まだ転んでいないことが不思議だった。わたしの手をがむしゃらに強く掴む山姥切国広に、自分でも出したことのないスピードでついていく。

「大丈夫か」
「う、うん。まだ走れる」
「よし……」

 敵はまだわたしたちに追いつかない。

「山姥切、あそこ!」

 ふと気づいた岩の影に、わたしたちは身を寄せ、息を潜めた。

 最悪な運の積み重ねだった。
 わたしが本丸の外へと出る、滅多にない日を狙われた敵襲。ここは山中で見通しはひどく悪い。陽は暮れようとしていて、ますます視界を悪くさせる。
 そしてわたしたちは本隊とはぐれ、山姥切国広と二人きりだった。

「敵は」
「少し距離はあけられたが油断は出来ない」
「ひどい数だったもんね……」

 数打ちゃ当たる、を体言したかのように襲ってきた大群にあっと言う間にわたし達は切り離されてしまったのだ。

 この岩の影に身を隠したものの、いつまで通用するかは分からない。
 彼は神経を尖らせながら、生き残るために手段を探している。
 わたしもこのまま彼に庇われっぱなしのつもりは無い。周辺の地図を思い出し、僅か残る太陽の色からどうにか方角を割り出す。
 とにかくみんなと合流したい、というのが願いだった。私が生きていることを伝え、彼らを安心させてやりたいし、彼らがちゃんと生き残れているかが心配だ。

「本隊のことは心配するな。戦力が固まってるんだ。やられたりはしない」
「でも……」
「あんたはあんたの身だけ心配してろ」
「……自分の心配なんか、してられないよ。被害がどれだけ出ているのか、一刻も早く確認したい」
「あんたな……」
「あのね、山姥切。わたし、この場面はどうにかなる気がしてる。だって山姥切がここにいるんだから」

 山姥切国広はわたしの初期刀だ。一番最初に出会い、常に関係を強く結び直してきた。彼が、どのように強いか、どのように強くなったか。わたしには充分に分かっている。
 わたしは彼の腕を信頼していた。肝心の山姥切はまだ少し卑屈なのだけれど。

「俺はただの打刀だ。それに、写しだ」
「ばか! 何度でも言うけど山姥切国広は山姥切国広! ただの打刀じゃないし、国広の傑作でしょうが」
「………」
「今ここにいてくれるのが山姥切で良かったって、わたし本当にそう思ってるんだから」

 そんなことを言いながらも、互いに周りの気配を探っている。
 山のさざめきが恐ろしいが、足音などは聞こえない。わたしはそっと、彼に自分の考えを伝える。

「本隊は多分、一時退却していると思う。……いや、一番部隊はその場に残って足止め、第二部隊以下は退却後、人を揃えて再出陣かな。本丸に遠征帰りの太刀たちがいるはず。それに太郎太刀次郎太刀を残してきてるから、彼らを加えて合流してる頃だと思う。敵の数は多いのに、大太刀なしじゃやってられないからね。こういう時の手はずは今剣に伝えてある。あの子はすばしっこいし、うまくやってくれてると思うよ」
「なるほどな」
「だから本隊の場所は、そう移動していないはず。移動しているとしても、わたしたちの本陣寄りの西側に移動をしてるはずなんだけど、さあどうするか」
「そんなの決まってるだろう。俺たちは西に降りる。敵を退けながら、な」
「……やってくれる?」
「あんたが生きて帰らなきゃ、俺のいる価値は無い」

 そんなこと無いと思うけれど。伝えようとした言葉は、遠くに見えた篝火に、噤むしかなくなった。
 浮遊する光の正体に、山姥切も見ただけですぐに気がついたようだ。骨ばかりになった竜のような姿をした、敵の短刀である。

「どうする、俺はあれくらいはなんとも無い」
「判断は任せる。戦うのは山姥切だから……」
「……

 不意に振り返られ、なぜか今、わたしは彼と体が密着していることに気がついた。彼の金色の髪が、美しい色の瞳が視界いっぱいに飛び込んできて、岩影に隠れようと、限りなく身を寄せ合っていたことを思い出したのだ。

「あんたおすすめの陣系は」
「ここは、山だから。相手は平地みたいに陣を展開することも出来ない。投石もやりにくいと思う。とにかく足場が悪いから、それをしっかり読んで、一対一に持ち込む。地に足がつかない短刀を優先的に排除。木があるから、太太刀、薙刀もやりにくいはず。だからとどめは後回しで良い、距離をとって泳がせておきな。あとはなるべく上に立って、相手に圧をかけること。同じように、自分より上の斜面に立ってる敵には気をつけて」
「……分かった」

 一気に知識を吐き出すと、彼の瞳が鋭さを増す。山姥切は、やるつもりだ。わたしも腹を括る。
 山姥切のことは信じている。だけど苦境であることは確かだ。わたしは、暴れる心臓を抑えようと、息を吐き出していると、ふっと額に息がかかる。山姥切国広が、吐息だけで笑ったのだ。

「大丈夫だ、心配するな」
「うん……」
「あんたはこのまま隠れて、これを被っていろ」

 そう言って、わたしの視界が白くなる。驚くわたしに、白色の次に伝わってきたのは彼の香りと体温だった。
 信じられない出来事だった。山姥切が頑なにとってくれなかったあの覆いが、今わたしを包んでいる。

「これを被っていれば、敵にあんたのこと、見せなくて済む。それに、あんたが余計なものを見なくて済むからな」

 なんていうことだろう。わたしはこの覆いの下の、美しい彼を、まじまじと見てみたかったのに。彼はあの布を脱いでくれたが、願いは叶わず。

「山姥切国広、参る……!」

 勇ましい声が耳に触れたと、思った布の隙間、ようやく姿を露わにしたわたしの大好きな山姥切国広が微かに見えた。わたしの目を奪ったその姿は、わたしを生かすべく闇へと駆けていった。