「ね、一兄」

 髪を梳いて。乱にそう言われ櫛を手渡された時、私は笑顔で了承しつつ、物珍しさを感じていた。自分の外観に関する手入れは、まめで、私より随分長けている。可愛いねと愛されることは好むものの、甘えるような、誰かの加護を必要とするような子ではない。その乱が私にわざわざ櫛を手渡してきたことに、物珍しさを覚えていた。

「梳くだけでいいのかい」
「うん!」

 櫛を通すまでもなく髪は一回のひっかかりもなく、さらさらと流れている。けれど私は乱の言う通りに、その髪に丁寧に櫛を入れた。
 頭をゆだねてくる弟に、腕を何往復もさせ、全ての髪をこれ以上無いというくらいに整えた。直に満足したらしい。乱の方から離れていく。

「……ありがと、一兄」

 そう言って乱は笑顔を咲かせた。顔の周りの髪に気持ちよさそうに指を通している。これくらいで乱が喜ぶのならおやすい御用だ。

「あっボク、これから遠征なんだ」
「そうか。気をつけていっておいで」
「うん。だから、この櫛、主様に返しておいてよ」

 乱が視線で示したのは、まだ私の手の中に残ったままの櫛だ。

「主様が貸してくれたんだ。さすがに戦場に持っていって、壊しちゃいけないしー。一兄、お願いねっ」

 調子良く乱は言い切ると、帽子を被りなおし、私と櫛を残して駆けていってしまった。

 手の中の櫛を見つめ、私は途方に暮れてしまった。

「……困った。これは、主のものだったのか」

 主の部屋を訪れ、「乱が主にお借りしていました櫛です。乱に代わって、御礼申し上げます」と感謝の気持ちを伝える。それは私にとって、ここで立ち尽くして動けなくなるほどに難しいことだ。


 主は私がお嫌いなのだ。それを悟ったのはいつであろうか。鍛刀されて間もない頃だと思う。気づけば私は主に嫌われていた。

 たとえば、同じ部屋にいれば去っていく。
 たとえば、直接言葉交わすことを避ける。
 たとえば、不意に合った視線を外される。

 他の者とはごく普通に同じ空間で過ごし、談笑し、自然な表情を向けるというのに、私が記憶に刻み続けたあの人は、ほとんど最初から、私に、明らかに周りのものたちと違う感情を向けてきた。

 主と言葉交わした日は、もうどのくらい前になるだろう。数える間もなく、けれど随分話していないと確信できるくらいに、私と主に接点は無い。

 私とて何もしなかったわけでは無い。
 誉れの数を揃えれば、何かお話する機会も増えるかと思い、意気込み励んだが、結局褒め言葉や世辞のひとつも貰えなかった。
 時々、人づてに褒美として団子や甘味や、特上の装備が届けられる。が、私はそれを受け取ると大抵、落胆してしまう。喜ばなければいけない、有り難く受け取らなければいけない。そう思っても、別の事実が私へのしかかってくるのだ。
 ああ、今回も、主は私を避けた。私は主の言葉ひとつあればそれで良いのに、と。



「前田」

 彼を見つけた私は迷わずに声をかけた。
 はい、という気丈な声とともに前田は私の方にすぐ向きなおる。その動作に、彼の肩掛けがふわりと膨らんだ。

「どうされましたか、一兄」
「済まないが、届けものを預かってくれないか?」
「はい、なんでしょう」
「これを、主の元に」

 そう言って手の中の櫛を見せる。私の手には小さな女性ものの櫛を。

「もしかして、主君のものでしょうか。どうして一兄が?」
「乱から預かったんだ。遠征に行かなければならないから返しておいて欲しい、と」
「え、っえ……!」

 それを聞いた前田は目ばかりか口も大きく開けて驚く。それほど驚くものだろうか。急に慌てだし、せわしない仕草で櫛を私の元へ押し返す。

「すみません、行けませんっ!」

 ぎこちなくそれだけ言い切ると前田は駆けていってしまう。またも困ってしまった。

 私が届けにいくより、普通に接しあえる誰かが主の元へ届けるべきだ。乱の無礼を他の方に後始末をさせるわけにはいかないので、私はまた本丸をゆっくり歩きながらこの櫛を受け取って、主の元に届けてくれる弟を探したのだった。

 私が次に見つけたのは五虎退だった。五虎退に優しく訳を説明したのだが、なぜか困り果てて良い返事をくれない。

「難しいことじゃ無いんだよ」
「でも……」

 そう。難しいことではない。私が主の元に向かうことに比べれば。
 五虎退は返事を渋るが、「頼んだよ」とその小さな手に櫛を握らせ託した。なぜそうも迷うのだろうか。五虎退は自分の手の中と私を何度も見比べた。しばらく俯いて、そして意を決したように顔をあげた。

「こっこれは! 一兄が持っていった方がいいと、……思う、んです……」
「そんなわけないだろう」
「すっ、すみません……」

 私の即答に五虎退が後込みする。けれどそれを後ろから支えたのは骨喰だった。

「俺も、そう思う」
「骨喰まで……」
「どうして俺たちに押しつける」
「私は、主のために頼んでいるんだよ」

 私と同じ空間にいることを嫌がるのだ。しばらく顔も合わせていない。同じ本丸に過ごしているくせに時々遠くにみかけると、髪が伸びたかもしれないと感じる。そんな異常な間柄なのだ。
 私とて、あのひとに会いたいと思う。対面し、櫛ひとつ笑顔で渡す、それだけで良いから関わりたいと思う。けれどその願いすら叶えればあのひとは顔を歪める。想像するだけで申し訳なく、私の胸も軋みだす。

 やはりこの櫛は弟たちが届けるのが得策であろう。私が向けた背に、骨喰が言った。

「嫌われることを恐れてばかり。恥ずかしく無いのか」

 そこまで言われたら。粟田口吉光の手による唯一の太刀、一期一振の名が廃る。
 結局私を動かしたのは、なけなしの自尊心なのであった。




 愛すべき弟たちだが、最近は理解できないこともある。
 なぜだか弟たちは、私と主をたびたび引き合わせようとするのだ。

 骨喰の言葉をひとつ訂正するのなら、私はもう彼女に嫌われることを恐れていない。

 もうどのくらい前になるだろう。私がぷっつりと、主に多少なりとも好いてもらうことを諦めたのは。
 食事の時間も、非番の日であっても、頑なに主は私を遠ざけ続けるのだから、私はよほど彼女に何かしてしまったらしいが、思い当たる節が無い。

 あのひとに対し、私は何をする間もなく嫌われた。何かしたって、それは何も変わらない。
 嫌いなのは嫌いで、良いと思う。私に何か、理由があるのだろうから。仕方がないことなのだ。だから最後私にできることと言えば、彼女を不快にさせないよう大人しくも義務を果たすこと。そしてなるべく長く、この本丸に存在を許してもらうことだ。

 主の部屋に近づいていくと声が聞こえた。ここ最近、近侍を務める厚と主の声だ。どちらも楽しそうに弾んだ声で、時に笑い声までもが廊下に伝わってくる。私はそれが耳を通りのどに入ってくるたび、息苦しさを覚えた。ああ、この空間に、私は存在できない。
 呼吸を整えてから襖の中の存在に声をかける。

「主」

 ぴたり、と楽しげな声が止んだ。ほら、と誰かが囁く。

「一期一振です」

 ほら、ほら。

「入ってくれ、一兄」

 そう言ったのは厚だ。主は何も言わない。

「失礼致します」

 襖を半分開け、それから肩幅分を開ける。部屋の中の主が見えた。ほら。ほら、きまずそうだ。私の方を見ない。
 誰もかれもと同じように接してくれればそれだけで良いのにと思う。そして私はどうしてこの気持ちをさっぱり捨て去れ無いのだろう。
 感情を押し殺し、頭を下げる。室内に入って半身になって襖を閉じる。

「一兄、主に何か用か?」

 感情を殺して笑顔を繕う私。私が存在することで硬直する主。唯一厚だけがいつもの調子だ。

「厚、実は乱が……」
「あっ、すまねえ一兄! しばらくここにいて貰って良いか? 俺、先に済ませなきゃいけない用事があるんだ。一兄がここにいてくれるなら有り難いや」
「えっ、厚……?」

 主は立ち上がった厚を縋るように見上げる。こんなに近くで声を聞き、横顔を見たのはいつぶりか。

「厚、だめ、行かないで」
「心配すんなって大将。絶対、大丈夫だから。一兄もたまには大将の相手してくれよな!」

 そして私と主のみが部屋に残された。

「………」
「………」
「……っ一期さん」
「はい」

 名を呼ばれたのはいつぶりだろうか。この響きを、自分はどれだけ望んでいたか、自分でも分からない。

「いえ、そうじゃなくて、……一期一振さん」
「はい」
「いや、一期一振さま、でしょうか……」
「………」
「よく、来てくださいましたね……」

 酷く明白な嘘を仰る。そのひきつった青白い顔を見れば分かる。
 空気は数分でさえも耐え難いものだった。何か、世間話をとも考えたが主に無理もさせたくない。私は早々に諦め、すぐさま頭を下げた。

「申し訳ありません、主。厚がわがままを言ったようで。すぐに彼に近侍の任に戻らせますから。厚か、でなければ代わりのものを呼んできます」
「………」
「失礼致しました」

 そして全てが巻き戻っていくように私は全ての手順を丁寧に踏んで、部屋を出ていった。最後、廊下に座ったまま襖を閉じる時。意外にも主は去っていく私を見ていた。
 その堅い表情で何を思っているのだろう。私はただ、不毛な喜びの中にあった。呼び慣れないまでも、私の名を覚えていてくださって、嬉しかった。

 廊下に出て立ち上がると、角の向こうにすぐ、ふわりとした白と黒い縞のあるしっぽが見えた。あれは五虎退の虎だ。

「なんだ、お前たち」
「あっ」
「わわわ」

 大股で近づいて角を覗くと驚いたことにそこに五虎退、骨喰だけでなく、鯰尾や薬研、秋田に後藤。そしてさすがの早さか、もうひとつ向こうの角を曲がって去っていく博多の残像が奥に見えた。

「こんなところで集まって、何を?」
「え、えーっと。それは……」
「何か悪巧みしていないだろうね」
「そんなんじゃあないぜ」

 慌てふためく鯰尾や秋田をよそに、薬研がきっぱりと言い切る。薬研がそう言うのなら、そう悪質なことも無いだろうと判断して、とりあえずは安心できるだろう。
 私はそのまま、薬研を見据えた。

「ちょうど良かった。薬研、主の元へ行ってはくれないだろうか。厚が急に席を外して、代わりに私にいろと言うのだが、ほら、私ではね」
「………」

 薬研は目を見開いて、何か言いたげに思案したが私が重ねて「頼む」と言えば、頭をかきながら主の部屋に入っていった。
 意外に壁が薄かったのだろうか。それとも私の耳が主の言葉を貪欲に求めているせいか、部屋の中の声がかすかに漏れ聞こえてきた。途切れ途切れでも主の、震えた「ごめんなさい」が私の耳を伝う。

「……ぱり、わたしには無理な……よ……。ごめん、ご……ね、薬研……」
「なーに言っ……だ。頑張……な、大将」

 ほら、とまた誰かが言う。
 彼女は私を嫌悪して、我慢までさせていたではないか。

「お前たち。私と主のそりが合わないのは見ていて快く思わないかもしれない。だが、こういったことはもうしないで欲しい」
「そんな……」
「主も、望んでいないだろうし、私も同じだ」
「主君は!」

 食ってかかったのは秋田だった。精一杯に私を見上げて訴える。

「主君は、不器用なんです。一兄に対しては、そうなってしまうだけで……」
「嫌いな相手と付き合う器用さなど、無くても良いと私は思うけれどね」

 がたん、と何かが倒れる音が部屋の中から聞こえた。聞かれた?と誰かが声を忍ばせた。
 私に中の声が聞こえていたように、こちらの声も向こうに漏れていたらしい。でも私は何も取り繕うとは思えなかった。全て本心だった。

 嫌いなものは嫌いで、良いと思う。主の自由だ。それを我慢する必要も無い。彼女は彼女のまま何も変える必要は無い。
 そして私が嫌われていても、彼女を好きなのも、また自由だ。
 だから私に最大限できることと言えば、彼女を不快にさせないよう大人しくも義務を果たすこと。そしてなるべく長く、この本丸に存在を許してもらうことだ。






 今日は少し冷えるようだ。庭で吐く息が白く曇る。
 一日明けて、私は夢心地だった。我ながら愚かと思うが、間近で主と視線交わしたことへ喜びを抑えきれないのだ。
 もちろん手放しで喜ぶほど阿呆では無い。主に久しぶりに会ったことで私は主との埋めようのない距離を再認識した。それでも嬉しいという気持ちが存在しているのは紛れもない事実だった。

「私は馬鹿だな」

 この本丸に顕現して以来、一切かわいがられもしなかったのに、私はあのひとが好きなのだと気づいたのはいつだろう。
 おかしな話だが、与えられなかったからこそ強く求めてしまったという気がしていた。
 あのひとの愛が、ほんの少しでも欲しいと願っていた。愛じゃなくても良かった。心無いお世辞でも決まり文句でも、与えられたかった。せめて、皆と同じように接して欲しいと切望して遠巻きに眺めているうちに、あのひとの愛らしさや優しさに気づいてしまったのだ。目で追えば追うほど彼女の動作に見入ってしまう。弟たちが慕う訳が分かるほど、何もかもへ思いやりに満ちていた。
 端的に言えば私はこじらせたのだ。憧れを、嫉妬を。

 吐く息がまた白く立ち昇る。感情になんか浸っている場合では無いと気を引き締めようとした時だった。
 だだだだだだだと何かが縁側を走ってくる。複数の足音。何が来るんだと思わず身構えれば遠くからものすごい早さで走ったきたのは博多藤四郎だった。
 いや、博多だけじゃない。その後ろに手をひかれた誰かがいる。転げそうになりながら、必死で博多の後ろについているのは誰かじゃない。主だ。
 博多は本当に主が転ぶんじゃないかという早さでこっちに近づいてくる。そして、

「持ってけえ、どろぼー!!」

 状況が分からない。その上兄を泥棒呼ばわりとは何事かと思ったが、そんなことを置いておいて、今度は私が走らねばならない理由があった。あろうことか博多が、主を縁側から庭に突き落としたのだ。
 縁側は相当の高さがあるし、主は私たちと違って人間で、女性だ。博多に乗せられ全力で走って、突き飛ばされて、そのまま地面にたたきつけられてはひとたまりもない。この体は一瞬のうち、彼女のもとへと走ってくれた。

 柔らかな衝撃。私は彼女を受け止め、一緒になって庭に倒れた。

 走らされたからだろう。彼女の熱い息が肩口にあたる。宙に放り出されしがみつくしか無かったのだろう。華奢な腕が背中に回されている。必死で喘ぐ肺。わたしの胸を滑っていく髪。何もかもが痺れそうになるくらい強烈だ。

「申し訳ありません」

 私は今、どんな顔をしているのだろう。分からない。けれど口はちゃんと欲望とかけ離れたことを紡いでくれる。

「すぐ、離れますから」
「ま、待って!」

 地面に手をつき、主が上体を起こすと真っ赤な顔が見えた。汗をうっすらとかいていて、目は赤く潤んでいる。心臓が焼き切れそうだ。

「い、いち、ご、ひとふりっ」
「……、はい」
「じゃなくて……、いちご、ひと、ふりさん……」

 名を呼ばれたのはいつぶりだろうかと思えば、つい昨日のことだ。部屋の中で対峙し、距離を取るようにではあるが、三度も名を呼ばれた。なのに私はこの響きを、またも貪欲に望んでいた。そして名を呼ばれて今、痛みを覚えるほどの幸福が胸にあった。

「わがままを、承知で言い、ます。あなたの……それを、その感情を、止めていただく手段は……わたしには、無い、のでしょうか……」

 それは残酷なわがままだった。
“その感情”とは、私が抱く恋情のことに違い無い。信じたくは無い。だが今確かに主は言った。私に、恋するのを止めろと、慕うことさえ許さないと言ったのだ。

 未だに愛しいのに、なんて酷いひとなのだろう。何度遠ざけられても私は雑草のように絶望しきらなかったというのに、今や全ての望みが絶たれた。そう思えた。
 この本丸で、そっと、静かに、生きていようと思っていた。
 いつか解刀されてはかなわないから、せめてここのいられるように想いを押し殺そうと決めていたのに。

「それは、できかねます」

 刀剣男士でなくなってしまえば、恋することもできない。それだけは嫌だと思っていた。

「私がどういった感情を抱こうと、私の勝手ではありませんか」

 ああ、可愛くない。こういったところが、かわいがられない。どこかで私は従順になれない。嫌われてるのも当然の結果なのだろう。

「そこまで私を許せないと仰るのなら、気に食わないのなら、もうどうぞ解刀でもなんでもすれば良いではありませんか!」
「そんなこと!」

 予想外だったのは、ついに声を荒げてしまった自分。負けないくらいに声を張った主。そして、目の前で主が泣き出したことだった。

「できるわけ無いじゃない……!」

 それだけ言い切るを、わああっと声をあげて主は泣きだした。私の、腹の上にのっかったまま、大きな水の粒を次々にこぼして、声にならない声を漏らす。
 どうしてだろうとまた疑問を抱いた。このひとの涙をすくって、泣けば良いと頭を撫でたいのに私にはそれができない。呆然と愛しいひとの泣き姿に見入り、落ちてくる水を胸で受け止めるしか私にはできないのだった。

 大泣きは次第にしゃくり上げに変わったが、主の一番の感情の波は去ったようだった。
 唇がはくはくと動き、かろうじて言葉を紡ごうとする。

「そう、そうね……」
「主……」
「貴方の感情は、貴方のもの。わたしの感情は、わたしのもの。そうですね……」
「………」

 それから主は、涙を目から溢れさせたまま唇を横に引き結んだ。必死になって笑顔をつくろうとする不器用な笑みだった。涙でぐしゃぐしゃで髪も乱れている。けれど、私は思わずその顔に見入ってしまった。しかも初めてと言って良いほどに珍しく向けられた笑みに、また私の胸は喜びを覚えている。

「一期さん、あなたは私が嫌いだと思うけど」
「え、……」
「私は、一期さんのこと、とんでもなく好きです」

 頭が反応してくれなかった。ありえない言葉がふたつも続いたからだ。

「今……、なんと……」
「一期さんが、好き……」

 聞き間違えの可能性を否定するようにもう一度、ありえない言葉がわたしに降り注ぐ。

「え、わ、私を……?」
「あなたの心は分かっています」

 私の反応を待たずに、主はまた笑顔らしきものを作って言葉を続ける。

「あなたは命令がなければわたしの近くには来てくれない」

 それは貴女が私を嫌うから。嫌われ者は遠くから見ているだけにしようと思ったまでだ。不用意に近づいてこれ以上嫌われたくないと、私は自分を守ってすらいたのだ。

「それなのに、主だからと権力を振りかざして、貴方と関わろうとした」

 そうだっただろうか。私は確かに彼女に仕える身だ。その言葉通りに働きもする。
 けれど私はいつだってもっと彼女の横に、心に寄り添い働きたいと思っていたのに、それをさせてくれなかったのは主だ。

「私にほとほと愛想が尽きていることと思います」

 それは、私のことでは無いのだろうか。
 未だ諦めきれない私に、結局は主の思いでなく自分の思いを守りきろうとした私に、愛想が尽きているのは貴方の方ではないか。

「貴方の大事な弟たちにまで、手伝わせて。ますます嫌悪したことでしょう。本当に、見苦しいですよね、ごめんなさい」

 このひとに、言いたいことが山ほどある。昔も、今この時も。

「それも、今日で終わりにしますから」

 おなかにあった重みが離れていこうとする。その時やっと、私はこのひとに手を伸ばすことができた。あんな泣き顔を見せられて、涙ひとつ拭ってやれないほど私は怯えていたのに、今彼女のおかげで、やっとその手に触れられる。

様」

 言葉ひとつ、何になると言うのだろう。堪え忍んだ期間は長い。押し殺した感情の量は最早はかれない。私は過ちをいくつ重ねただろうか。そこに言葉ひとつ差し出したところで、過去に失ったものを取り戻せるとは思えない。
 けれど、それでもやっと告げられるこの一言が私たちの凍った仲を暖かく溶かしてくれるのだ。

「お慕い、しております……」

 手を伸ばし抱き寄せる。何度もこのひとを抱きしめようとする夢を、そして突き離される夢を見たというのに、この腕の中にいる主はすべての想像を裏切って私に全てを預けてくれたのだった。







「それでは一旦、失礼致します。はい、またすぐ戻ります」

 そんな言葉を残し主の部屋を出た。しばらく歩いたところで、乱とすれ違う。一兄、と私を呼びながら乱がひらひらと手を振るので私も笑みを返した。

「あれ一兄」
「ん?」
「今まで主さんに会ってたでしょう」
「ああ。乱が主に借りていた櫛を、やっと返したんだ」
「あ、あの櫛? 今頃返したんだ。まあ、良いけど……ふふふー、やっぱりね」

 にやにや笑いをする乱に、私も笑みながらも首を傾げると、乱は少し意地悪い声で言った。
 顔がゆるんでいるよ、と。今まで見たことが無いくらいにね、とも付け足された。

 嫌な気はかけらもしなかった。こんな日に笑まず、どうすると言うのだろう。

「私は幸せなのだから、笑わなくては」

 そう言いつつ主を思いだし、笑みを深めているとくるりとスカートを靡かせて乱が最後の答えをくれた。
「みんなみんな、一兄のその顔が見たかったんだよ」、と。