審神者になってから初めて、政府からの呼び出しで現代に戻った日のことだった。
その時、わたしはもう子供ではなくなっていた。大人にはなりきれていないけれど、もう学校には行ってないし、親ともしばらく会ってないし、最後の最後は自分で後始末つけなきゃいけない審神者だから、子供ではない。
と思いながらも目の前で青がきらめいた時、理由なくわたしは歓声をあげていた。
「わっ! 海だあっ!」
「お、急に走らき」
海と言っても、坂の下、建物と建物の隙間に青い水平線がちらりと見えただけだ。だけどそのちらりと見えた青いきらめきはわたしの目の奥をしっかりとらえた。坂を勢い任せに下っていくと、自分の足が道から跳ね返されそうになる。
あなたの行く方向はそっちじゃない、寄り道なんてしてる場合じゃない。そんな言葉を言わない、わたしを止めない、陸奥守吉行に甘えて足を進めた。
「ちっくと待て」
松の木の下を通り抜ければすぐに海岸通りに出て、砂浜を踏みしめようとしてようやく、陸奥守がわたしの首根っこを掴んだ。しっかりとした筋肉のついた腕を辿って、むっちゃんの顔を見上げると、彼はにやりと笑ってた。
「下駄と足袋、脱いでおきーや。汚れるぞ」
「……うん!」
「海、久しぶりー」
「そうながか?」
「うん。っていうか2205年自体が久しぶり」
ていうか、審神者になってから初めてだ、この年代に戻ったのは。笑い混じりにそう言う。町並み、人と人との間にある距離とそこに満ちる空気。もの悲しいくらいなんにも変わらないまま廻り続ける、わたしにとって“今”だったものがそこにあった。
「海に入りたいかえ?」
「うん。足だけ浸したい。水、冷たいかな」
「おお、ひやいやろうなぁ」
むっちゃんはわたしの行動に良いも悪いもつけなかった。
波が届くところまでは石や貝の破片があって危ないからと、むっちゃんはわたしを負ぶさってくれた。わたしの下駄、足袋を持って、それでもってわたしまでを持ち上げてしまうのだから、刀剣男士はたくましい。あんな恐ろしい姿をした歴史修正主義者の敵たちと斬り合い、勝って帰ってきてしまうのだから、たくましくて当たり前なのだけれど。
むっちゃんの背中に揺られて、目をつぶる。潮の匂いがいっそう強くなる。
生まれは中流階級。特段変わったところのない人生を送っていたわたしが、ある日政府に審神者という役目を任されことになったのは青天の霹靂という言葉がぴったりだ。言われるがままに歴史修正主義者たちとの戦うため、本丸と呼ばれる場所に籠もり、直感で選んだ陸奥守吉行ことむっちゃんを初期刀として迎えて、出陣の号令を繰り返した。
本丸での記憶は、途方もなく長い時間を過ごしたようで、ありえないほど短かく閉じてしまう。
わたしの身に起こったことは、薄味のわたしの人生には毒になりそうなくらい濃密な出来事ばかりだったのに、時間の感覚は曖昧に歪んでいた。
目を開ける。水面を反射する光に過ぎ去っていった時間に目が眩んだ。
波の音に包まれる。さりさりと砂を踏んでいた足音が、ぴたぴたと水っぽい音になった。むっちゃんの背中の上から下を見ると調度、白波に彼のくるぶしが浸かっていた。
「そろそろいいぜよ」
言われて、そろそろと足から降ろしている。つま先をつけると、その冷たさに身体中が痺れた。
「〜っ!」
「がっはっはっは」
言葉も出ないわたしに、むっちゃんが大きな口を開けて笑う。
「むっちゃんは冷たくないの!?」
「ひやいぜよ」
「全然冷たそうじゃない……!!」
こっちはつま先だけで全身震えてるというのに平気そうなのが悔しくて、わたしも根性でそろそろと足を降ろす。海水の滲む砂を踏みしめる。足の裏から伝わってくる冷たさに唇を噛んでいると、追い打ちのように波がやってきて足首まで濡れた。
「慣れれば平気ぜよ」
「そ、そだね……」
まだぶるぶると寒さが身体を伝ってくる。だけどあらがおうと、自分の中から熱が生まれるのも感じていた。
海風に吹かれてわたしの視界を覆う髪を、むっちゃんが捕らえて耳にかける。
「思ったがり元気そうで良かった」
「何で?」
「政府っちゅうんはどうしたち、大人の都合をおんしに押しつけるところがあるからなぁ」
「そうかもね。でも仕方ないよ」
政府の都合で曲げられてしまったものを挙げていったら際限がない。それこそ、わたしが審神者になったことも、大人の都合だった。
「本当に、わたしじゃ考えつかないくらい複雑で、どうしようもない都合ってものがあるんだと思うんだ……」
「そういう言い方はわしは嫌いぜよ」
むっちゃんはちょっと拗ねたような言い方をして、それから笑顔で、どうしてそんな気楽に構えられるのって途方もないものを感じてしまうくらいのことを言った。
「おんしは何にも諦めたらいかん。何ひとつだって、諦めさせたくない」
震えながら身体に力を入れていると、じんわり足の裏に痛みが走った。どうやら降り立ったちょうど足の下に白い貝殻が落ちていた。そろそろと足を退けると、流れる砂に貝が埋まっている。それを拾おうと、指を伸ばした。けれど指が上手に動いてくれなくて、それから、わたしは自分が結構な力で陸奥守吉行の着物を握りしめていたことに気がついた。
ザアザアという音が少し遠くなる。またむっちゃんに負ぶってもらい、下駄でちゃんと歩ける道へと出た。
わたしを降ろした後、つかれたそぶりも見せないですっくと背筋を伸ばした姿に少し見とれた。
「ねえ。のど、乾いてない?」
「おお、乾いちゅう乾いちゅう」
「よかった。なんか飲もうよ」
ふたりで海岸線を歩いて、一番最初に見つけた自動販売機で飲み物を買った。
寒いから、わたしはお汁粉。甘い飲み物は平気だと言うので、むっちゃんには昔ながらの乳酸菌入り清涼飲料水、カルピスをおすすめしておいた。
お汁粉入りの缶を指で包んで暖をとる。
ごくごくとのどを鳴らして、カルピスを飲んでいるむっちゃんの姿はなぜだかわたしの涙腺を刺激した。
つーんと、鼻が痛い。そして疑問に思わないようにしてた、様々なものが姿を現した。
大人の都合で審神者になったこと、政府に流されてよくも考えずに歴史修正主義者を攻撃したこと、言われるがままにこんのすけに促されるままにそうした仕事をこなすうちに、失ってしまったものごと。
「むっちゃん」
「ん?」
「ここまで、ついてきてくれてありがとう」
何も分からないわたしの近侍になってくれた。今日まで見放さず、わたしの命令のために戦ってくれた。そして今も。審神者になってから初めて、政府からの呼び出しで現代に戻った。政府の用事が終わったというのに、この現代をさまよい歩くわたしの後ろについて、一緒に歩いてくれた。
怪我をしないようにと時に首根っこをつかみ、波に足を触らせてくれた。
むっちゃんはずっと、本丸に帰ろうとしないわたしを良いとも悪いとも言わなかった。
「これ飲んだら、はやく本丸に帰ろう」
「……その言葉をわしがどれだけ聞きたかったか」
「うん、ごめんなさい」
ごくごくとのどを鳴らして、乳酸菌入り清涼飲料水を飲んでいたむっちゃんの姿を見上げてわたしは思ったのだ。
わたしは審神者になって、途方もなく遠い世界にたどり着いてしまったけれど、言うほど失ったものは無いんじゃないか。そして失ったものをこの陸奥守吉行という彼の性格は上手に埋めてくれるし、さらにたくさんのものをくれているんじゃないかと。
「大丈夫、帰りたくなったよ」
わたしはお汁粉を飲み干した。とんとん、と缶の底をたたいて、なるべくきっちり飲み干し、ゴミ箱に投げた。からんからんと音がする。足袋の中に残る砂の感触。お汁粉の糖分が巡り巡るわたしの体。残響が消えて、耳の奥がきいんとした。
ふと私が動きを止めて耳を済ませてみれば、本丸の家屋に反射して、様々な音が聞こえてくる。声や、誰かが体動かす音、道具扱う音、水の音、風の音。今やこの本丸では五十近い刀剣男士が顕現し道を共にしている。本丸の中、ひとり増える毎に音が増えた。
それを寂しいと思うことは間違っているのだろう。ただ騒がしさをよそに思い出してしまう。この本丸に、わたしとむつのかみよしゆき、一人と一振りしかいなかった時のことを。
わたしはそっと、棚の、一番上の引き出しを開けた。宝物を、わざわざ腕をいっぱいに伸ばさないと届かないそこに閉まったのは、思い出にすがっている自分がちょっぴり恥ずかしいからだ。
視線の届かない引き出しの中を指で探って、白い和紙に包まれたそれを取り出す。
中身は、あの日海で踏みつけた白い貝殻だ。冷たい世界で耐えようとして、陸奥守吉行の着物を強く強く握りしめていたあの日。
「むっちゃん」
そう呼ぶとすぐ、
「ん?」
と、返事が投げかけられる近侍の位置に、陸奥守吉行は今日もいる。
「馬鹿だって、怒られそうなこと言っていい?」
「なんじゃ。ゆうてみい」
「……本丸に人が増えて、嬉しいはずなのに、時々それが寂しいや」
だからわたしは白い貝殻を取り出した。あの時、わたしには彼しかいなかった。だけどそれが一番にわたしを救ってくれた。悲しむべきことより、幸せな気持ちでいるべきことの方が多いのだ、と。
目をつぶり。貝殻のかたちを、指で隅々まで探る。ざらざらも、つやつやも。けれどどれだけ思いを馳せても、あの時わたしに巣食っていた途方も無いむなしさや寂しさを思い出すことはできないのだった。