一番最初に獅子王さんががおーと鳴いたのを聞いたのは、この本丸が走り出した本当に最初の頃でした。政府から支給された打刀と、それから出会った短刀の子が四振り。そして初めての太刀となる獅子王さん。わが本丸が、ようやくまともなひとつの隊が組めるようになっていたあたりでした。

 その日わたしは、正直に言えば気落ちしていました。
 仲間は増えた。刀剣たちは少しずつ力をつけてくれている。けれどみんなの成長と、自分の采配に自信を持つことは全く別の問題でした。政府からの任務を眺めているとまだまだ出向かねばならない時代は多く、途方の無さにため息が出ました。
 もう夜更けに、自分のことながらやめておけばいいのに、薄明かりで書類を見つめては肩を落としていました。
 そんな時でした。

「がおー……」

 急にかけられた声に、わたしはあまり驚きませんでした。
 その声色が、申し訳なさそうにもこちらを伺う色をしていたから。緩やかに首を伸ばすと、そこに獅子王さんがいました。夜のさなかだと、獅子王さんは降りてきた星のように見えました。

「どうしたんですか?」

 言いながらわたしは広げていた書類を集め、記帳の類は閉じました。
 この本丸で唯一の太刀。獅子王さん。獅子王さんの丈夫さと強さに、すでにわたしは存分に頼っていて、なんとなく情けない主の姿を見せられなかったのです。

「獅子王さん、獅子王さん。どうして鳴いたのですか」
「いや、……もう寝ろよな」

 彼は言葉を濁し、鳴き声の意味など答えてくれませんでした。






 獅子王さんが頼れる太刀としてこの本丸に顕現して以来、彼はわたしの近侍です。まだまだ先の長いわが本丸ですが、獅子王さんが戦闘に立つと全体が明るくなるのです。
 彼自身はあまり事務仕事が得意なのではないのかな、と踏んでいましたがわたしの思い過ごしでした。彼は時に真剣に、ちょっとどきっとしてしまうくらいまじめな表情で、審神者としての本丸主務としてのわたしの仕事を手助けしてくれるのです。

「獅子王さん、お待たせしました。はい、どうぞ」

 わたしは丁寧なビニル包みの大福を獅子王さんに手渡しました。人間のお友達から季節の挨拶にお菓子をいただいたのです。

「おおっ、なんだこれ!」
「いただきものの大福です。みなさんには配ってきたので、一緒に食べましょう」

 先に初期刀の彼に、短刀の子たちに振る舞い、最後はわたしたちとなりました。わくわくで封を開ける獅子王さんを横目に、わたしも一つを机の上に置き、お茶を入れ直します。

「んんっ。これ塩大福じゃないですか……!」

 かぶりついた瞬間に分かりました。この甘じょっぱい味がわたしは大好きなのです。もっちりとした餅の下、餡のうまみを引き立てるのはほんのりと紛れる塩の風味です。

「へー。塩大福っていうのか!」

 初めての塩大福。獅子王さんの舌にも無事に合ったみたいです。
 わたしはひれ伏したいくらい愛する塩大福の味覚に感動の涙を流すしかありません。

「あー、おいしー。好き!」
「っん……!」

 どうやら大福の餅が彼ののどに張り付いたみたいです。急に獅子王さんがげっほげほげほとむせ始めました。いつも元気いっぱいの獅子王さんはむせるときもなんだか元気いっぱいで、苦しそうです。
 彼がのどを詰まらせ死んでしまってはいけない。わたしは大福にかぶりついたまま、自分のお茶を差し出しました。

「っはぁ……」

 のどの餅は無事に飲み込めたみたいですが、彼は涙目のまま呆然とわたしが手渡した湯呑みを見ています。

「あっごめんなさいわたしのお茶……」
「がおー……」
「なんでがおーって言うんですか」

 涙目で、真っ赤な顔のまま、視線を反らされる。真剣な顔をされるといつも思ってることではありますが、いつもとは違いすぎる反応に、どきっとしちゃうじゃないですかとは言えませんでした。





 本丸はやや手狭になり、戦闘における一振りあたりの負担が少しずつ軽くなってきた頃でした。

「がおー」

 獅子王さんはどうして、不意にがおーと鳴くのだろう。
 隣の、隣の部屋。二枚の襖越しに彼のつぶやきを聞いてしまったわたしは、執務は小休止。そんなことを考えていました。
 片方のわたしがそれは彼の癖なんだよ、と囁きます。けれど、もう片方のわたしはそれをうまく飲み込めず、今すぐ獅子王さんの目の前に座って、その金色の目の奥を探りたくなってしまうのです。

 歌仙さんが同室していたらしい。彼の落ち着いた声が、獅子王さんに問いかけます。

「なんだい、急に。主のことかい?」

 わたしのこと、なんだろうか。獅子王さんのがおーの理由が、どこにあるのかすら見当もつきません。
 歌仙さんが言います。

「そんな顔をして。何が不満なんだ。君は立派に近侍の任を務め、随分長くその位置にいるじゃないか」

 歌仙さんの言葉に、もっと獅子王さんなら気をよくするんだろうと思いました。わたしの知る獅子王さんはそういう少年らしさのある刀剣なのです。だから獅子王さんの返答に、一瞬筆を落としそうになりました。

「俺が近侍なのは、俺がここに来た一番最初の太刀だったからだよ」

 俺は隊長が良いなとわたしに言い、いざ隊長にすれば弾けるような笑顔で喜んでいてくれていた獅子王さん。彼ならもっと得意げに自分の働きを語るのかと思っていたわたしは驚き、口が開いてしまっていました。
 もう一度、がおーと彼が鳴きました。かわいいその声は、彼に呼ばれているんじゃないかと、わたしは勘違いを起こしそうでした。
 そのまま襖をすぱんすぱんと二回開けて、隣の隣のお部屋に入って彼に何か、気持ちの明るくなることを言いたいと思ったのですが、そんな便利な言葉、わたしは見つけられなかったのでした。





 たくさんの、さっと血の気の引くような数の重傷者が出てしまった日のことでした。
 あまり自分を責めてはいけないよ。辛うじて中傷で済んだ燭台切さんがそう言って、手入れを待つ間に濡れた布で自分の血と、返り血とを拭きました。

 同じく中傷の獅子王さんは、他の仲間を先に手入れ部屋に入れさせた後は、近侍としての任のためかすぐわたしの元へと戻りました。

「戻ったぜ」
「はい……」
「まぁ折れた奴はいなかったんだ。落ち着けよな」
「うん……」

 重傷で済んだ。怪我はしても、勝利を勝ちとって帰ってきれくれた。そうは思っても絶えず、目の前のピントが奥に手前に、合わさっては外れ、目の前の景色がゆらゆらと揺れていました。心臓が変な風にどくんどくんと鳴っていて、指先は感覚を失っていました。

「主。いや、……」

 わたしの名を呼んで獅子王さんはわたしの肩を抱き寄せました。わたしも、横に並ぶ彼のわき腹に腕を回しました。そうじゃないと、打ち負けてしまいそうだったからです。
 支え合うように、同じ方向を見ながら、わたし達は肩を抱き寄せあっていました。そうしていると様々なものがわたしの感覚に流れ込んできました。呼吸、鼓動。汗と血と、鉄と土の匂い。それらに目を閉じていると、わたしは不意に真昼のお月さまと抱きしめ合っているような感覚を覚えました。いつもの彼は元気で明るくて、お天道さまの方が似合うというのに。
 不意に彼が「がおー」と鳴きました。獅子王さん、どうして鳴いているの。そんな考えがわたしに渦巻く後悔を、少し追い出してくれました。







 大きな作戦の終わりでした、わたしが高熱を出したのは。熱がかなり上がったのは確かだけれど、疲労と緊張による睡眠不足で弱ったところにかかった、単なる風邪でした。
 頭はがんがんと横から槌でたたかれているように痛かったですし、体は熱いのに胃の奥に寒気が住み着いている気持ち悪さがありましたが、わたし自身は寝ていればきっと治ると信じていました。

 その日も相変わらず近侍の獅子王さんは、誰かと交代しても良いと何度言っても部屋にとどまり、わたしを見守ってくれるのでした。
 だいたいは静かにわたしの横にいてくれました。少し目線を起こすと、水が飲みたいか、何か欲しいものはあるかと優しく聞いてくれました。
 そっと布団から手を出すと、彼はその手を握ってくれました。熱に浮かされた今のわたしにはそれが冷たくて気持ちいい。
 そして、

「がおー……」

 獅子王さんは唇を噛んで、そう言いました。

「獅子王さん、獅子王さん。どうして鳴いたのですか」

 熱く煮えそうなのどで問いかけると、獅子王さんの答えは「言わせないでほしい」とのことでした。

 頭の中では熱が、沸騰しそうな血液ががんがんとわたしを揺らしていました。いつもの調子ではない頭の中では、普段考えないようなことがたくさん浮かび、忘れていたことも思い出されました。たとえば彼が、がおーと鳴いたときの、数々の記憶とかです。






 あなたががおーと鳴く意味をわたしは未だ知りません。たしかに意識を引っ張られるのに、がおーと鳴き終わり、ぴったりと唇を閉じた彼がいったい何を思っているのか、これだという答えに感づくこともできません。
 だから直接聞くのです。

「獅子王さん、獅子王さん。どうして鳴いているのですか」
「別に。なぜ、なんて理由は無えよ」

 獅子王さん曰く。わたしの後ろ、部屋の暗がりからだるそうに、でもおそるおそるといった様子にも見えた「がおー」にワケは無いんだそうです。それならば獅子王さんは少しずるいひとです。
 なぜならば理由のないあなたの鳴き声に、わたしは少しときめいていたからです。何か欲しているような寂しさがあなたの鳴き声にはあって、ひょっとしたらわたしのこと呼んでくれているのではないか、そう勘違いをさせるくらいには誘うような声だったのです。
 でもそれは、わたしのうぬぼれ。

「そうですか」
「ああ」

 わたしは再び、筆のさきを墨で濡らして、手紙の続きに取りかかります。

 あなたががおーと鳴く意味をわたしは未だ知りません。
 わたしの頭は残念かつ、都合の良い代物です。がおーという鳴き声に、薄くも積み重ねられた記憶があって、わたしは思い出すのです。

 途方もない使命に立ち尽くしそうになった時、味方が負ったひどすぎる傷に足から力が抜けそうになった時、彼がそばにいた。
 獅子王くんのがおーと鳴いた。それがきらきらの、金色のたてがみを持つ獅子の王さまが、勇敢な声で悪いものを散らしていく、絵本の中みたいな光景に重なるのです。

 手紙へまなざしを伏せながら、わたしはいたずら混じりの気持ちで言葉をかけた。今日も変わらず近侍の獅子王さんに。

「獅子王さん、獅子王さん。どうぞ鳴いてください」

 あなたは今日もここにいてくれるのだから、がおーと鳴いてください。