ぬしさまと小狐丸は恋仲であり、互いの無限の将来性と有限の時間に泣き笑いした仲であります。が、それを知る刀剣はおろか人間もおりません。誰もがぬしさまはこの小狐丸のものであると知らぬままです。
それもそのはず。ぬしさまも私も、この交際を他言無用で続けて参りました。
部屋の内では私たちは神も人も忘れて個々人で在ろう、だがしかし部屋より一歩出れば主と刀で在ろう。そんな物言いで、誰よりもぬしさまが、この小狐丸に口を噤むよう命じたのでした。
約束ごとをする時はいつだって私の胸はじくじくとぬしさまを裏切るものかと鳴きます。が、私はどこぞの圧せば切れる刀と性質やら何やらが違い、愛らしくも堅物のぬしさまもうっとりの柔らかな唇の持ち主ですので、果たして約束を守れるかどうか。それは怪しいものでした。
そしてついに、私は刀派を同じとする三日月宗近に言ってしまったのでした。彼があまりにぬしさまを下心ありきで語って私に聞かせるので、我慢ならなくなった末の意趣返しでした。
「ぬしさまと私は、心通じ合った仲ですゆえ」
「ほう」
「ですから、あまり下卑た言葉で語らないようお願いします」
「あの堅物が最近妙に愛らしく、色づいて見えることがあると言っただけなんだがな」
三日月宗近は驚きを含みつつも、大変に楽しそうな顔をして私をしげしげと眺める。
「にわかには信じられない、が。嬉しそうだなあ、小狐丸」
「はい……」
「そうか、そうか」
春でも見つけたと言わんばかりに、三日月宗近は朗らかに相づちを打ちます。
初めてぬしさまとの交際を口にした興奮に、体が熱い。そこにはぬしさまとの約束を破った反省は微かにしかありませんでした。
「このことは、ぬしさまには言わないでください」
「相分かった」
関係は漏らさじ。魂に誓ってしかと口を噤まねば。そうまで思わせる理由を、関係深まりつつある今もぬしさまはくれません。
遂に言ってしまった。遂に言ってやった。対のようですがどちらの言い回しも、私にしっくりと来ていました。
ぬしさまと私の関係の告白に、三日月宗近は「にわかには信じられない」と言いました。この私の、浮つきはにかんでいたであろう顔を見ていなければ、今も納得してはくれなかったでしょう。それもそのはず。
「小狐丸、暑苦しい」
半纏を着込んだ小さな背に私がそっと寄り添うと、ぬしさまの第一声がそれでした。
ぬしさまはいつだってこの調子です。昼間はどんなに言葉を尽くしても、私達が相思相愛だと察させる可能性を踏みつぶすがごとく極寒の返答しかされません。
しかし私がぬしさまのこういった物言いには慣れっこです。
「そう仰らずに。今日は随分冷えます」
外の庭を、張りつめた寒さが支配しています。
寒さは音も吸ってしまうのか。部屋の中はお互いの肺が膨れる音まで聞こえます。
「おかげさまで。私は寒くは無いよ」
「ではあたたかなぬしさま。私を暖めてくださいませんか?」
「そうかでは今すぐ風呂に入っておいで」
「………」
部屋の向かいで三日月がいつにもまして面白いものを見たと言わんばかりにぺっかりと笑っていました。それが面白くなく、私は拳一つ分腰を浮かせるともう半歩、ぬしさまとの距離を詰めました。ぴったりと寄り添うと呼吸ごとに体がゆったりと互いを押し合います。
すぐ、近いところでのぬしさまの呼吸……。じんわりと胸があたたまろうとしたのを、阻止したのはぬしさまでした。
急に立ち上がったぬしさまが顔をしかめて私へ吐き捨てます。
「暑苦しいって、言ってるでしょう」
声には怒気が。あまりにしつこい様子に心底嫌悪した。そうありありと読みとれる表情でした。
大きくはあっとため息をつかれるとぬしさまは、最低限の筆記具と書類をかき集め、荒々しく足音を立て、部屋を移ってしまいました。
部屋に残されたのはぺかぺか笑いの三日月と私です。
「ええと。主と小狐丸がなんだったかな」
「心! 通じ合っております!」
「はっはっは」
「見事な痴話喧嘩でしたでしょう」
「はっはっはっは」
その言い訳が苦しいのは、私も重々承知しておりました。三日月は笑うだけ笑って、私に慰めの言葉もかけませんでした。
ぬしさまのああいう態度は、きっと本意では無い。心の底ではちゃんと私を想ってくださっている。そう信じてはいるのですが、先ほどの嫌悪の表情はあまりに迫っていて、その信頼をざわりと揺らすものでした。
さきほどまでぬしさまが座っていた場所に這い蹲る。この寒さゆえ、温もりはもう残っていません。
「ぬしさま……」
涙を飲んで私は目をつぶります。
ぬしさまを信じよう。そう願望を重ねます。が、あえて願わねばいられない状況が、私を恋仲であることを他言するなという忠告を破りたいという心境にさせるのです。
三日月だけでなく、会う人会う人に、垣根に咲くつつじの花にまでぬしさまに選ばれたのがこの小狐丸であると言い触らしたくてたまらない。そして皆が、ぬしさまは死ぬまで小狐丸のものである、それが当然であると認識してくだされば良いと願ってしまうのです。
「………」
「おお。立ち直ったか」
ぬしさまとあまりに離れているのは私の性ではない。むくりと起きあがって、わたしはぬしさまを追いかけました。
ぬしさま、ぬしさまと呼びながら通る部屋ひとつずつ開けて回りますが、ぬしさまの影はありません。
中庭で鞠で遊んでいました。高下駄で鞠を蹴る今剣も、長身をうまく屈め今剣の高さに合わせて同じく遊びに興じる岩融も見事なものです。
「おお、小狐丸!」
「あるじさまですか? それなら……」
遊びは一旦休め、私の顔を見ただけですぐ今剣がそう言い出しました。最近自分がぬしさまぬしさま口うるさくなっていたことは重々自覚しておりましたので、あまり驚くことではありません。
しかし今剣は、肝心なところではっと息を飲みました。
「あるじさまは、そっとしておいたほうがいいかもしれません」
「何故です」
「呼び止めたのだがな。誰の声も耳に入っていない様子だ」
「いくらこぎつねまるでも、ぼくはおすすめしません。いわゆる、おとりこみちゅうでしょう」
おとりこみちゅう、お取り込み中……。ぬしさま側の事情が込み入っている。そう聞けば、ことさら放ってはおけません。さっと顔を上げた私を、今剣は咎めました。
「こぎつねまる」
「いえ。込み入った事情があるのならば、尚のこと。私が行かなければ」
「あるじさまのじゃまはだめですよ」
「ぬしさまの邪魔には」
ならない、とは言い切れないが。それでもあのひとの辛い場面に私がいなくてどうするのだ。聞き分けの悪い私へ、今剣はいっそう赤い目を鋭くさせます。
するとふと、あの思いがまた沸き立つのです。
言ってしまいたい。知らしめてしまいたい。私はぬしさまの特別であると。
心の一番近いところに小狐丸を住まわせると、そう言ったのは他の誰でもないぬしさまなのです。そこに住むことを許された男の使命とは、やはり存在在る限り彼女を守り、許し、なるべく苦難の無い道を歩かせてやることなのでは無いでしょうか。
ここでぬしさまを放っておくなどとのたまえば明日には長旅を言い渡されるのもさもありなん。私はそう思うのです。
三日月宗近に引き続き、言ってしまおうか。一歩も引かない今剣に、胸がざわめき立ちました。
「小狐丸っ」
不穏な全てを断ち切ったのは件のぬしさまでした。小狐丸をめざし、小走りでやってきます。
タンタンタンと、ぬしさまにしては荒々しい足音でした。
「来て」
すれ違いざまに腕を捕まれ、ぬしさまがやってきた方向へと引っ張られます。絶句した今剣と岩融を置いて、小狐丸はぬしさまに回収されました。
私たちが抱き合ったのは、本丸の上部に備え付けられた物見櫓の中でした。形式上備え付けられてはいますが、ここに見張りが立つことはありません。とは言え物見のための場所なので風吹きすさびます。その場所で、ひしと、私たちは抱き合います。
最初は抱きつかれていると思いましたが、腕をまわすとすっぽり収まってしまうぬしさまがなんとも愛おしい。ほら、今日は冷えると言ったではありませんか。私のうなじを這った指先は冷水にくぐらせたようです。冷たい指先を私は存分に受け入れました。ぬしさまに浮かされる私の熱で溶けますよう、頬を擦り寄せました。
「小狐丸」
皆から見えぬ死角に連れ込んで、抱きつかれたかと思えば、次には口を吸われました。ぬしさまの色香に、目まぐるしく早変わりした目前の光景と自分の気分とに目眩がいたします。
唇が離れ、はあ、とぬしさまが白靄を吐きました。
「小狐丸」
「はい……」
「三日月の前で、ああいうことをしないで」
「ああいうこととは」
「言わなくてもあなたなら分かるでしょう」
「私がぬしさまにだけなれなれしいのは初めてお目にかかった時からです。心配いりません。今いくら小狐丸から愛を示したところでぬしさまのあの態度では誰も私たちの関係になど気づきはしません」
「………」
黙りこくった彼女を私は抱え直しました。なだれ込んできた体を、今度はあやすような横抱きです。私が首を丸めれば彼女の肩が私の毛艶に埋もれました。寒いのに首もとからぬしさまの香りが立ちます。ぬしさまはぬしさまで体を熱くしていらっしゃる証拠です。それは私の涙腺をつつきました。
「ぬしさま。私は全てのものにもう言ってしまいたいです。小狐丸はぬしさまのもので、ぬしさまは私のものです」
この人間が真に私の所有にはならないと知っていても、それが嘘になるとしても、高らかに宣べたいのです。
しかしぬしさまは首を降りました。横にです。
「それは、だめ……」
「なぜですか」
「だめなものはだめ」
「そうまでして頑なに拒むのならせめて訳を仰ってください」
「………」
「なぜなんですか、ぬしさま!」
「……、は」
「は?」
は、とだけ言ってぬしさまは数秒固まりました。首に回っていた指先はいつの間にか寒さを蹴り飛ばしようで、私の意識が逸れるくらいに熱を持っている。
ぬしさま? そう聞き返すとやけどしそうに熱いあの指が、小狐丸の胸ぐらを掴み上げました。
「はっずかしいからに! 決まってるでしょうが……!」
ぬしさまは天才です。その顔も四肢も宿された性別も、知性も恥ずかしがりの性格も、喉の作りさえ、私を手玉をとるために賜ったに違いありません。涙目で顔をくしゃくしゃにした姿でこの私の全てをなだめて負かしてしまったのですから。そうでなくてはこの世はあまりに不条理です。
「ぬしさま、愛しております」
「わ、わたしもよ」
耐えきれず想いを伝えれば、ぬしさまからは蚊の鳴くような声を聞きました。以上がぬしさまと小狐丸の、冬のある日の一部始終です。