俺というのは本当に、手遅れな男のようだ。妙な行動力はある方だと自負していたが、それはに対しては発揮されなかったようだ。

「ん……?」

 空に何か見えた気がした。軒下から手をさしのべると、雨粒が俺の指をさらりと濡らした。雨か。
 雨粒を指で擦り潰して俺はその場に座り込んだ。やがて強くなる雨を見やって、絶え間無く出てくるのはため息だった。

 あの日から。が、燭台切光忠に寄せる好意を指摘してから俺に渦巻くのは後悔だ。
 初対面で二の足を踏んだ。その一瞬の躊躇が今では途方もない大きな差を生んだ。なんであの時、を"苦手"だなんて感じたんだ。

 光忠と上手いことやっているのか、とは最近喋ることすら少なくなっている。同じ本丸にいても、必要最低限の関わりしか無くなってしまった。
 そうは言ってもまあ、元に戻っただけのような気がする。俺は元から、が苦手だったのだ。そう言い聞かせても、俺は落胆してしまう。

「しっかし……」

 こう、どんよりしてると気が滅入ってくるな。肩を回しながら廊下を歩いていくと、この本丸では唯一無二の女の後ろ姿を見つける。だ。最近言葉交わすことがめっきり減ったからだろうか、瞬時にぎくりと胸が跳ねる。それこそ出会った頃のような、妙な緊張がせり上がる。
 そのまま見なかったふりをしようかと思った。が、俺には出来なかった。微かに伺えたの表情が、ひどく落ち込んで見えたからだ。

 友でも、落ち込んでいる相手を気遣ったり、寄り添ったりくらいはできる。それくらいの権利はあるだろう。
 大丈夫だ。そう俺に言い聞かせて、を追った。


 が入った部屋の前で、一度呼吸を整える。それから一言断りを入れて部屋を覗く。
 雨空のせいで暗い部屋に、は肩を落として座っていた。


「鶴丸……?」

 はっ、と驚きながら鈍い光の色が俺を見る。

「どうしたの、何かあった?」

 そう問われると不意に、あの日を重い出す。鶴丸と呼んでくれ、言葉も崩してくれと必死になって願い出た、あの日だ。何か相応のことがなければ、俺と関わることはないと、きみは踏んでいる。

「何かあったか聞きたいのは俺の方だぜ。大丈夫か? 随分、顔色が悪いように見える。まあ今日の雨は気が滅入るよな」

 さっきの俺もそうだった。重たい雲を見上げて、せり上がる後悔に浸っていた。

「何か悲しいことでもあったのか」
「………」

 沈黙は肯定だ。
 君はいつも精一杯で、頑張りやだな。うずくまってる姿。少し乱れたつむじ。愛らしさがあって、俺は頭に手をのばした。

「……、っ」

 触って、少し後悔をした。さらりとした、しなやかな髪の束。微かな体温。俺は息を飲んだ。その感触が驚くほど気持ち良いからだ。
 俺の手を受け入れながら、は眉を強くしかめた。そして俺の目を見ないまま言う。

「……髪、乱さないで」
「分かった。宝物のように君の頭を愛でよう」

 髪を整えるように撫でると、畳に向かって、いっそう彼女が顔を歪める。
 そんなに優しさに飢えていたのか? それとも泣きそうな顔をするくらい思い悩んでいたのか? ならば俺に一言くれれば良かったのに。でも言ってくれないんだな。ひとまず友達には、なれたのに。

「何があったか、話してくれないのか」
「………」
「だめだろうか。話を聞くくらい、させてくれないか。何せ俺は君の友だ」

 我ながらずるい言い方をするなと思った。
 でもこれも、至って事実だ。この関係は友だ、俺がどう思っていようと。
 そしてきみとのこの繋がりも大事にしたいと思うのも確かだった。彼にはかなわなくとも良い。

「どうしたんだ? 戦いのことか。審神者の使命のことか。それとも……」

 少し小ぶりで、かわいい頭だ。綺麗な髪だ。それに、何かを堪えてくしゃくしゃな顔。
 泣きそうな姿にどっと溢れ出した。
 苦手だな。きみが。

 薄々、感づいていた。自分の感情についての話だ。
 きみの無自覚な様子が妙に苛ついて、まくし立てた時から、より強く、自分のおかしさに気づいた。
 今、諸手を上げて降参だ。弱った様子のきみがやたらと愛しい。愛しくてたまらない。俺のこの感情を、恋慕とか、好きって言うんだろう。だから今、友じゃ足りないと思ってしまうんだろう。

 俺はやっぱり、一目惚れをしていたんだ。出会った時に、見つめ合った時に。だけど目を反らされて、かなわないこともすぐに感づいて、危機感が悲鳴上げた。この恋は虚しい。
 でも、嘘でもきみが嫌いとは思えないから、苦手なんて言葉にはめこんだ。俺を好きにはならないだろうきみがずっと苦手だった。俺は馬鹿だな。

「それとも例によって燭台切光忠か?」

 その名を出すだけでぱっと顔を上げるのだから、憎たらしい。
 なんだ図星か? と問うと、は吐き捨てるように答えた。

「鶴丸なんて、嫌い……」
「………」
「大嫌い」

 繰り返したのは、とどめをさす為か。はそう言った。

「そうか」

 俺は、頭が徐々に考えられなくなるのを感じながらも、少し笑ってしまった。だってここまで来るといっそ滑稽だ。俺がどんな感情を抱えようと、俺たちは悲しいくらい友達だと思っていた。けれどそれすらも無かったらしい、もっと空っぽの関係だったらしい。

「それは、すまなかったな」
「鶴丸」
「まさかきみに、嫌いと言いきれるほど嫌悪されてたとは思わなかったな。気付かなかったよ」
「違う……、言い過ぎた……」
「言い過ぎたってことは、少なからず本音も混じっているってことだろう。いや、良いんだ。すまない」
「つる、……」
「俺はずっと好きだったよ、きみのこと」

 言い切ってから、口づけた。そんなことを出来たのは、きみに嫌い大嫌いとまで言われたからだった。俺には守りたい関係すら無いんだから、もうどうにでもなれ。
 部屋にはざあざあという雨の音で満ちていた。すぐ近くできみの香りがする。悲しさと一緒にそれを味わった。この一回の口づけで全部おしまいだな。ちょっとずつ君の大切になれるようあがいた、周回遅れの努力が全部溶ける、溶けだして、無になる。

 呼吸を止めている間、俺は目も閉じていた。きみがどんな顔してるか見たくなかった。でもそういうわけにも行かなかった。熱い滴が俺の手を打ったからだ。
 唇を離すと同時に、ぼろぼろと大粒の涙がの頬を伝った。
 を泣かせた。それはまた別種の驚愕を俺に与えた。

 なんだ、泣くほど嫌だったのか。
 なんて声をかけたら良いか分からない。いや声もかけずに去ってやる方がいいに決まっている。彼女の視界から、消えてやらねば。そう思ったのに。

「……、離してくれ」
「だめ」

 俺が立ち上がろうとしたのを察したのか、はなぜか俺の着物を掴んでそれを制止した。

「鶴丸、行かないで。違うの。こ、これは、涙が出るのは、鶴丸が思ってるようなものじゃなくて、ちゃんと、せ、説明するから、ここにいて……。お願いだから、泣きやむから……もう、勘違いしない、で」

 こんなを俺は初めて見た。涸れそうな声で、懇願している。いやに強い力で着物を掴んで、俺へと縋る。

「ね、ねえ、本当? 私の、ことす、すす、好きって」
「ほ、本当だ」

 嘘なんかじゃない。嘘で、嫁入り前の娘に手をつけられるほどタチの悪いやつじゃない。むしろ君に限り、俺は途方もない不器用だ。

「わっわた、しも。好き」
「は……」

 瞬間、耳の中でうるさかった雨の音が全部消えた。その静寂の中、がまた言った。「ずっと、鶴丸が、好きだった」。

「大嫌いなんて、嘘。思い通りにいかないからって、すねただけ。鶴丸が何も気付かないで、私と光忠がお似合いだって言う、し。鶴丸のことで落ち込んでるのに全部光忠絡みだって、き、決めつけるから。私はずっと、っ鶴丸ばかりなのに……!」

 泣きやむって言ったくせに、いっそうはたくさんの涙を流す。しゃくりあげるのを抑えきれないのか、むしろそれはどんどん酷くなっていく。それでもは俺を離してくれない。

「鶴丸が、わ、私の気持ちなんて、知らなくて当然だけどっ、でも鶴丸に友達だ友達だって言われる度、辛かった……! でもぎくしゃくしてるより、距離を取られるよりいいやって、友達になれただけ良かったなって言い聞かせて諦めてたのに、鶴丸は光忠と両思いなんだなってほんと軽く、言うし」

 決して軽い気持ちで言ったわけじゃない。それどころか、君が光忠と通じ合っているんだと思っただけで頭の中は真っ白になっていた。
 かっこわるい俺を知られないように繕った。その表情がどうやらを傷つけていたと、ようやく俺は知る。

「そこまでされたらもう、思うじゃない。脈なしなんだな、って。私、失恋したんだって……っ。毎日泣いて、それも気付かれないように過ごして、辛かったのに苦しかったのに、まだ、鶴丸のこと嫌いになれなくて、友達でもなんでも良いからそばにいてほしいとしか、思えなくて」
「………」
「やっぱり好きで、わたし、鶴丸が、好きで……」
「う、嘘だろ?」

 情けないことに、やっと出てきた言葉がそれだった。

「それこそ、本当か……?」

 きみが俺を好き、だって?
 先ほど言われた言葉が全く理解できていないのに、はまだ続ける。俺が耳を疑うような言葉ばかりを並べる。

「嘘じゃ、ない」
「い、いつから」
「さいしょから……」

 目を見開く俺に、は涙ながらにちゃんと答えにしてくれた。

「一目惚れだよ……」

 涙ながらに、どこか悔しそうに唇を噛みしめそう伝えられれば、ようやく俺も思えた。信じられそうにも無いきみの告白を、信じても大丈夫かもしれない、と。

 俺は随分遠回りして、自分の中のなんとも言えない感情が恋心だと気付いた。そして今、やっと互いに気持ちは同じだと知った。
 でも、この本丸中、一番に幸せなのは俺だろう。だって俺は目の当たりにしている。きみの一言で、世界の全ての色が塗り変わっていく驚きを。記憶の中のきみも、これからのことも、そして目の前のという存在も。愛しさが全てのものごとの角度を変えて、そこに優しい表情が現れる。

 きみが俺に一目惚れしたって言うのなら。それならあの日、目を反らした時、俺がきみを苦手だという感情を抱いた時にはもうは。

「そうか」
「………」
、俺も実は、一目惚れだ」

 彼女の両手が、涙を拭うことに使わないで、俺を捕まえることだけに使われている。代わりに俺が頬に手を伸ばすと、それはすんなりと受け入れられる。あたたかな水に指先が濡れていって、やっと実感が湧いた。
 きみは、俺が嫌いじゃないし、どうやら心の、特別な場所にいることを許してくれているらしいという実感が。

「な、なあ。ここで泣くか?」

 俺の胸へおいで、とは気恥ずかしくて言えなくて、ぎこちなく手を広げてみる。するともたつきながらきみが手を伸ばすから、引き寄せて、もう離さないと伝えるように強く抱きしめた。
 それからきみは俺の胸で随分泣いた。俺は大粒の涙で濡れて、きみの泣き声で耳を満たして、そして新しい出来事をひとつ知った。文句なんてひとつも無い。これを、幸せと呼ぶんだ。