いつからと聞かれたら、初めから、と答える。本当は最初はちゃんのことはなんともない、主とだけ思っていた。そこからきちんと僕の意識は変えられていくのだけれど、彼女を守りたい存在として想い始めた、その境目が僕には未だに分からない。
だから、いつからと聞かれたら、初めから、と答える。
例えるなら、日の入りのように欠かすことなく。天の錦のように途切れることなく、海水のように枯れることなく。すべては初めから、続いていたことだった。
「主、文だよ」
日々が過ぎるごとに欠かさず、彼女へと届く畳まれた紙。それは後から思えば僕を臆病にさえさせた紙だった。
誰からとは言わずに差し出すと、主は桜の花びらを舞わせるような笑みでそれを受け取る。
「恋文かな」なんてちゃかせないのは彼女が受け取るそれが紛うことなき、彼女の胸に存在を残す男からのものだからだ。僕は分かっている、執拗に届く文には微かな恋心が透けるほど薄く、忍ばされているということを。
「ありがとうございます、燭台切さん」
「前から聞いてみたかったんだけど、その文は誰からなのかな」
彼女が返しきれなくとも構わずに届く文。
毎日毎日、彼女を喜ばせるそれが何であるかは分かっていても、差出人がどんな人物であるか、近侍になったばかりの僕は知らなかったのだ。
ちゃんは恥ずかしがりながら教えてくれた。
「幼なじみです、わたしの。故郷が同じの男の子。わたしに比べればとても普通でまともな方で、でも普通よりずっと優しいひとなんですよ」
「ふうん……」
「こうやって手紙も毎日のように書いてくれて。特別なことが書いてあるわけじゃなのに、わたしを元気づけてくれるんです。言葉って、すごいです」
ちゃんはそう言うけれど、特別なことが書いていないというのは彼女の思い違いだ。
確かに、特別な物事は書いていないのだろう。だけどそこには特別な気持ちが乗っている。
「彼が大好きなんだね」
もちろん僕は「恋をしているんだね」という意味で口にした。文を受け取る様子を見れば、その幼なじみがただの友人とは言えない存在なのは明白だ。だけれどそこまでは、ちゃんには伝わらなかったらしい。
ちゃんは事も無げに、
「大好きです」
と、言う。ちゃんは言葉では大好きと言う。けれど口調の軽さは、決して恋心を肯定しなかった。
僕はそうなんだねと優しく言う。彼女の何をも指摘しないのは優しさのつもりだった。
その文が届く度、顔も名も知らない誰かは、文字のみでちゃんの心をここではない場所へ連れていってしまう。
その時は、刀の僕は領分を弁えようだなんて思っていた。主の恋模様なんかに顔をつっこむべきでないと言い聞かせ、僕はただまなざしを送っていた。同じ人間から、途切れることの無い透き通るような愛情を向けられているちゃんへ、まなざしを。
庭ではよく咲いていた花が枯れ、また別の花が盛りを迎えていた。
「主、文だよ」
誰からとは言わずに差し出すと、主はぎこちない笑みでそれを受け取る。
「ありがとうございます、燭台切さん」
少し手を止めて、深呼吸をくりかえしてからちゃんは手紙を広げた。
文面を負うまなざしは初め、緊張に強ばっていた。けれど次第に優しい、愛おしむ色合いになっていく。そして読み終わった時には彼女の目には涙とたっぷりの光が溜まっている。それが悲しさゆえの涙だというのは表情を見ればすぐ分かることだ。
「何か、良くないことでも書いてあったのかい?」
「……いえ、いつも通りでした」
僕に表情を見られたくなかったようで、ちゃんは答えながら顔を背ける。そして再度表情を見せてくれた時にはちゃんは涙をこらえきって、微笑んでいた。
「いつも通り。なんでもない現代のお話ばかりです」
町の景色、古いお店、新しいお店、新発売の菓子、流行の不可思議な娯楽、しばらく会えていない人物の噂話、身近な人たちの近況、近所の人なつっこい犬。
それらを"なんでもない"とちゃんは称す。けれどそのなんでもないものたちは、この本丸では手に入らないものばかりだ。
そして極めつけは、手紙の差出人は毎回のようにちゃんに文面で囁く。
「また、早く帰って来い、って?」
ちゃん愛しさに、彼は何度も何度も文字にするのだ。会いたい、たまには顔が見たい、君と一緒に行きたい、声が聞きたい、懐かしくてたまらない、だから帰って来て。
「……本当に彼は優しいひとです」
苦し紛れで無く、取り繕ったわけじゃなく、ちゃんは本当にそうであるように純粋にそう口にする。優しいから、仕方がないとでも言うようだった。
胸の奥から言葉がこみ上げた。それを彼女にぶつけそうになって息を詰めた。感情任せの言葉を放つなんて、かっこわるいことをしたくなかった。
けれどちゃんが文を読み、顔を歪めるのはもう一度や二度じゃない。
「帰れないって、もう伝えてあるんだよね」
「はい、何度も書きました。それに審神者になる前にも教えたんですけどね」
「君の言う優しいひとは、君が今どんな気持ちなのか知っているのかな」
「さあ……。でも元気にやってるとは思っていますよ」
「それは君が文にそう書いたからだよね」
「………」
返事をせず、ちゃんは文を畳んだ。手の中の紙の束を見下ろす首筋に、暗い影が差している。
「ねえ。もし君が辛いなら、しばらく文を届けるのをやめようか。ちゃんが辛くなくなるまで、僕がきちんと預かっておくよ」
「……どうして?」
ちゃんは、文を受け取らない理由が分からないと言いたげにきょとんと首を傾げる。
「そんなことをしたら、返事が書けなくなります」
「書かなくたって良いよ」
文が伝える現代の物事がちゃんを苦しめているなら、ちゃんは文を受け取るべきじゃないのだ。
けれど意志のこもった目で、ちゃんは僕の案を否定した。
「……いいえ。文はきちんと読みます。出来る限り返事を書きます。だってこうして毎日文が届くのは、彼の優しさなんですから。彼はわたしを心配してくれてるんです」
「違うよ、彼は君が好きなんだろう。毎日文を送ってくるんだ、下心があるに決まってる。この文はね、彼の悪あがきなんだよ。この本丸から現代に帰らなくなった君を、手の届かない存在になった君をそれでも現代に繋ぎ止めたい、悪あがきだ」
とは、言えなかった。
「主、文だよ」
誰からとは言わずに差し出すと、主は眉を困らせて受け取る。僕はその表情を予想していたけれど、直接目の前にすると胸が痛む。それでも、自分が苦しむとしても文を望んでいるのは彼女なのだ。
「ありがとうございます、燭台切さん」
この時期にはもう僕は、手紙の送り主を敵と見なしていた。恋敵であると同時に、主を苦しめる敵だった。
それでも、彼女が受け取らないと言わない限り、僕はこの文を彼女に手渡すのみだ。だってそうじゃないとフェアじゃないだろう?
そして受け取ると言ったのはちゃんなのだから、僕は彼女の意志を尊重する。
はじめの頃、ちゃんはこの、折り畳まれた紙を、最上の贈り物のように受け取っていた。文から何か良い香りでもするのかい、と聞きそうになったことが何度もあった。まだ手紙を開かないうちから、あまりに瞳が色を持って潤むものだから。僕はその表情に惹かれてしまったのだろう。
けれどそれはもう取り返せない過去のこと。
「読まないのかい」
彼女は文を開こうともしなければ、返事もくれない。僕はふ、と小さく息を吐いてから、彼女の正面に座った。
顔をくしゃくしゃにした彼女にため息混じりに言った。
「またそんな顔をしているね」
どうやら手紙のみのやりとりは続きすぎたらしい。執拗に届く文に乗る恋心は、今や千切れそうだ。そして「大好きです」という言葉を戸惑い無く口にさせた、彼女の中にあった親愛も今は裂けそうになっている。
「文の中身はいつも通りかなのかな」
きっとまた飽きもせず、彼女の心を現代に誘うような文句ばかりが載っているのかと思いきや、ちゃんは首を横に振った。
ちょうど一週間前のことです、とちゃんは始めた。
「わたしが、わたしから急に、唐突に伝えました」
「……何を?」
「今まで思っていたことを伝えました。頑張って、率直に。
現代の話が楽しみな時もあれば、わたしを落ち込ませる日もあった。
わたしもいつだって帰りたい。おうちが懐かしい。だけど今はそれが出来ない身の上なのだから、どうかそれを思い出させないで欲しかった。
身勝手で言えなかったことを、きちんと書きました」
「……返事は?」
「帰りたいなら帰って来れば良いって。僕も会いたいからって言うんです。わたしはも、もう、無理だと思いまし、た」
愛らしい顔をくしゃくしゃに歪め、しゃくりあげ、大粒の涙を膝に落とす。
けれどちゃんは手の中の文を強く握りしめないようにして、未だに大切に持っている。その指先が僕を煽っていた。
「薄情だとは思うけれど、もうわたしのこと忘れてください、って。死んだものと思って欲しい、手紙ももう送らないでくださいと、書いたんです。思えば最初からこうすれば良かったんですよね」
わたしは死んじゃったことにすれば良かった。それを言うちゃんは涙の伝う頬で笑っていた。けれどすぐにふっと笑みは消えた。
彼女を好きだったのはいつからと聞かれたら、初めから、と答える。恋愛に切り替わった瞬間が分からなければ、出会った時から僕が彼女に抱いていた感情に果たして恋心まじりだったのかも、今では分からないからだ。
だけど、ひとつの境目はここだった。
僕はちゃんを助けなくちゃいけない。ちゃんをこのまま泣かせていてはいけない。
刀の領分なんて言葉を片づけて、僕はこの目の前の女の子を救いたいと思った。そして僕はこんな自分に、間違いを見いだせなかった。
「ちゃん、好きだよ」
「………」
「ずっと前からね」
幼なじみからの気持ちも気づかなかった彼女だ。僕のことも何も感づいてなかったちゃんは息まで止まってしまったみたいにかたまった。見開いた目から涙をぼろりとこぼす。
文を握りしめたままの君へ、僕はなるべく甘く言う。
「ね、僕を見なよ」
君が救われる方法はたったひとつ。この本丸で、きちんと満たされる。帰れない現代への誘いなんか目に入らないくらい、ここで生きることに満足する。
「僕に君を救わせて欲しいんだ」
僕なら、ちゃんを導ける。
「ちゃん、文だよ」
僕は今日もちゃんに毎日の文を届ける。ちゃんがまだ、いらないと言わないからだ。
本当は断ち切れないのだ、この娘は。現代社会においてきた、幼なじみの男のことを。そしてこの少女は、自分が死んだ人間のように扱われる覚悟も無い。
未だに文をやりとりし、自分で傷を広げているちゃんは、自分どころか彼のことも長く傷つけたいのだろうかと思う。
でも僕も、ひとのことは言えない。僕はちゃんを長く傷つけたいと思われても仕方が無いことをしている。
本当にちゃんを思うなら、言ってあげないといけない。
『君は返事を書くのをやめるべきだよ。本当に彼のことを思うならね。どれだけ言葉を尽くしても、返事がある限り、彼に希望を抱かせているようなものだ』って。
だけどそんなこと一言も伝えず、僕は彼女に文を手渡す。これを奪い去った方がちゃんのためになるんだろう。でも、恋敵としてフェアじゃない。
「ありがとうございます、光忠さん」
届いた文を、ちゃんはそのほとんどを苦しみながら読む。そしてやめておけばいいのに、文箱を取り出した。きっと涙をこぼしながら返事を書くのだろう。そんな姿を僕はもう何度も見てきた。
急に彼女に同情してしまい、僕は声を潜める。
「ちゃん」
「はい……」
「抱きしめてもいい?」
さっきまで曇っていた表情が一度停止して、それからぼっ、と音が聞こえそうなくらい顔を赤くする。
その様子が可愛くて僕はのどの奥で笑ってしまう。
「手を繋ぐだけにしておこうか」
僕はちゃんが嫌がることは決してしない。こうしてゆっくりと距離を縮めていく。時間はたっぷりあるのだから、焦ったりしない。
あの男はここにはたどり着けない。結局、彼は文を、言葉を送ることしか出来ない。だけど僕にはこの肉体がある。
ちゃんがさらに顔を赤くしながら、ぼそぼそ声で言う。
「だ、……」
「ん?」
「……だ、きしめるのも、大丈夫です……」
「ありがとう」
少女の体を抱きしめる。耳元で何度も名前を呼ぶ。僕の体温が全ての不安を塗り潰すようにと。
そして彼女がいつか文に書けば良い。僕のこと。一番近くにいるのが僕で、彼女に厳しくするのも優しくするのも僕で、彼女虚無を埋めるのは僕で。彼女の日常とは僕がいる景色のことで、帰る場所にいるのは僕。いいや、僕がいる場所にちゃんは帰るんだ。
燭台切光忠という刀剣男士がいつもちゃんの傍にいる。それがこの子もあの彼もすっかり分かったとき、僕は文を捨てるようになるのだろう。