布団に寝かされ、閉じた瞼の暗闇の中、枕元にぱたぱたと水の落ちる音。それだけなら何か茶でも垂れたのかと自分に言い訳もできたが、次にの涙ぐんだ声が降ってくれば俺も察してしまうのだ。さっきぱたぱたと言ったのは、涙の落ちた音だ。
「ねぇ、起きて……。どうしてなの、鶯丸……」
が泣いている。横たえられた俺の手をとると、頬ずりまでして目を覚ましてと懇願する。俺は目を閉じているからその顔を見ることはかなわない。
「手入れもいつもどおりきちんとしたのに。怪我は直ったのに……。何が足りないっていうの……」
手の甲が彼女の熱を持った涙でしっとりと濡れて、俺は気まずさを感じ始めた。
まさか彼女が泣くとまでは思わなかった。言えない。狸寝入りをしてるなんて。本当は何ともなく、すぐに目を覚ませるだなんて。言えない。
事の始まりは出陣前の会話だ。
「鶯丸ってなんでそうなの。いつも、いつも」
彼女の眼孔がぎらりと光って俺を見上げる。全く怖くないのは俺の方が背が高いのと、怒りの主が彼女だからだろう。
本日も、些細なことから言い合いが始まった。そもそも俺たちの間で言い合いは珍しいことじゃなかった。たいていは俺が何か、彼女のかんに障ることを言って、が見事に食ってかかるというのがお決まりの手順だった。
「"そう"とは一体何を差しているんだ?」
「貴女の全部よ、全部。いい加減で、無責任で。年長者としての自覚が無い!」
「1000年生きようが700年生きようが、関係ないだろう」
「300年の差はそんなに軽くありません!」
悪びれない俺の言いぐさにがどんどん激昂していくのも、お決まりとなった手順のひとつだった。
こんな、彼女とのちくりと棘のある言葉のやりとりが、俺はそう嫌いでは無かった。というのはどうしても離れがたい主人でありながら、実にからかいがいがある女なのだ。「ばか」とか「ばかじゃないの」とか言われるとの悪口に対する語彙のほどを知るようで、俺は笑んでしまう。それに俺をどうにかたしなめようと躍起になる様子や、言葉を言い尽くしてしまって悔しさに耳を真っ赤にするのを見るのが好きだった。
彼女はいちいちからかいに対する反応が大きく、おもしろいのだ。
怒っている姿がかわいいというのは、まだ彼女には言っていない。
仁王立ちされても欠片も怖くない。ふと気づいたのは、肘の手前にまでついた米粒だ。
「下手だなぁ」
手で握っているはずの米が、どうして肘まで行くんだ。の不器用さがまたそこから読みとれるようで、俺は笑ってしまいなが米粒を掬いとって食べた。
塩むすびなのだろう。ほんのりとした塩っけが舌に広がる。
ふと見るとは、首に青筋を浮かべていた。
「ま、また言った……! 下手って、また言った!」
そう言われて数分前を思い出す。やりとりの雲行きが怪しくなった、その発端はこれだった。茶でも飲むかと湯を沸かしに来れば、珍しく主が台所に立っている。何をしているのかと思えば、はせっせと握り飯を作っていた。
後ろからのぞき込むと、作った握り飯は大きさがひとつひとつ違うどころか、手にはまとめきれなかった米がまとわりついている。そのままで手を水につけたんだろう、水桶の中には随分たくさんの米粒が沈んでいる。もったいない。
だからつい、後ろから漏らした。「下手だな」と。
「下手だからって、そんなに気にすることじゃないだろう」
「また言った……! まあ、そうね。私が下手なのは事実だもの。それをわざわざ指摘されたからって怒ったりしないわよ。私が怒っているのは何度言っても直らない鶯丸のどうしようもない態度のことよ!」
「そうか」
つまりは日々のたまりにたまった不満が、下手だなという指摘で抑えきれなくなったらしい。これは思ったより、の怒りは深いかもしれない。
今度は手首についていた米粒を食べた。さっきよりは甘い。
「今度という今度は、改めて貰わないと」
「ああ、そうだな」
「……言っても聞かないなら、近侍を外すことも考えているから」
「そうか」
「自分の胸によく手を当てて考えて、反省してよね!」
は言い切ると素早く手を洗い、握り飯の乗った皿を持って言ってしまった。怒りで真っ赤な耳と、たすき掛けをした背中がせわしなく去っていってしまった。と思いきや、角から眉のつり上がった、しかしやはり怖くない顔を出して、が言う。
「出陣のこと、お忘れなく」
忘れていた。数刻後、資材集めと新入りたちの練度上げのための出陣が組まれていたのだった。
俺は部隊の六人目として配置につくと、今回の出陣、一時的に隊長となった物吉貞宗が俺の顔をのぞき込む。
「鶯丸さん、どうしたんですか?」
新入りの物吉貞宗が部隊の隊長を努める。それは新入りがより多くの経験を得て、皆に追いつくためだ。反対にが言ったように年長者であり、本丸の古株である俺は見守り役だ。
鶯丸はもう充分強いから。そんな言いぐさで、は俺を近侍にしながらもこんな役回りばかりを言い渡す。
「ん? どうしたって、俺が何か変わったように見えるか?」
「そうですね。少し、遠くを見ているような……」
「ああ。さっき茶を飲みそびれてな」
「あっ、そうなんですね!」
「ああ」
「………」
俺に見守り役を任せる。それについては、良いのだ。彼女に呼ばれ願われ、それに応えたから俺もここへと顕現した。役目は果たしたい。
分かっていてもふと胸をよぎったのは、彼女が唇から放った棘。
『近侍を外すことも考えているから』
それが、俺の短いはずの後ろ髪を引っ張った。
何回かの出陣の結果、俺は中傷を負った。戦っているんだ。これくらいのことは珍しくない。
「鶯丸さん、大丈夫ですか!?」
「構わず進軍してくれ。これも役目だ」
確認を取りにきた物吉貞宗に、俺はそう答える。幾度も戦ってきたのだから感覚で分かる。これくらいでは折れる気がしない。
それに俺は負傷したが、若い衆が重い傷を負わずに済んでいるのだから、にとっては願った通りの結果だろう。
「次で最後か……。行くぞ!」
矢の次は投石が降ってきて、当たりどころが悪かったらしい。それで刀装がひとつ溶け落ちた。
そんなこんなでやれることはやって、負傷も受け入れ帰ったと言うのに。
報告のため馳せ参じれば、まだは小さな喧嘩を引きずって拗ねた様子だった。そっぽを向いて一言。
「……、帰ったんだ」
おかしい。俺はこんなことを、一人の女の言葉や態度を伺ってうじうじと気にするようなやつでは無かったと思ったのだが。その時は意外なくらいに胸につっかえるものがあった。
だから俺は仕返しをしたのだ。軽い気持ちだった。長時間の手入れが無事終わって全快しても、眠ったまま目覚めてやらないのは彼女へのちょっとした意趣返しだった。
そろそろ脱水症状を起こしてもおかしくないというくらい、は俺の傍らで泣き続けた。咽び泣きというほどでも無いが、声を殺してさめざめと泣き続けるのだ。
小さく、「どうして」「何が足りないの」「起きて」「鶯丸」。そんな言葉を繰り返しながら。俺の手を握りしめ、「ちゃんと、あったかいのに」とまで言う。
「悪い冗談だって、言いなさいよ……」
の言うとおり、俺が目を瞑ったままなのは冗談なのだが、まかさここまで感情を乱されるとは思わなかった。俺を取り巻く空気は重い。今更をからかったなどとは言い出しにくい状況になっていた。
ふとふすまを開け入ってきた誰かが「主」とを呼んだ。声からして三日月宗近のようだ。
「そこまで泣いてくれるな。刀の状態が良いのなら、問題は無かろう。もう少し待ってみてはどうだ」
「本当に状態が良いはずなら、鶯丸は問題無く目覚めてるはずよ。何か……、何か原因があるのよ」
「しかし……。鶯丸の顔色も良いし、俺には待てば自ずと目覚めそうにも見えるが」
「三日月。私にはそれはできない。放っておくなんて、無理」
こういう頑ななところが、彼女をからかう際に楽しさをくれるのだが。今は俺にまんまと騙されている様子が痛々しい。
また、どうしてなの、という問いが俺に降り懸かる。
「まあ、あまり思い詰めすぎんようにな。の身がもたんぞ」
ひょっとしたら三日月は俺の狸寝入りに気づいているのかもしれない。そう思ったのは三日月の口調はの悲しみに寄り添うものじゃなく、少し呆れ気味だからだ。
は相当取り乱しているらしい。苦笑気味の三日月にもは気づかない。
「思い詰めないってそんなの、どうやってするの……? いつも飄々としている鶯丸だからって楽観視して放っておいて、取り返しのつかない事態になったらって思うと、無理。怖くれできないよ……」
「……、程々に、な」
その言葉はに向けたのだろうか。それとも俺か。三日月は「俺は茶でもとってくるか」と言うと出ていってしまった。
部屋にふたりきりになると、のすすり泣きがいっそう際だつ。そして他に誰もいないことを良いことに、はぽつりぽつりと語り始めた。
「鶯丸、起きて……。あなたのことだから、なにも無かったみたいな顔して目を覚ますって信じてるからね……」
信じているというのは嘘だろう。信じているなら、なにもこんな風に泣くことも無い。
「無理をさせてごめんなさい」
いや、無理はしていない。負傷はしたものの、それは俺の役目だった。損な役回りかもしれないが、が俺を信頼してるから任せたんだろう、そうだろう?
「出陣だけのことじゃない。ずっと私の近侍として、頑張ってくれた。のんびりやのあなたには合わない仕事がたくさんあったと思うのに、無理強いしてきて、ごめんなさい」
違う、という言葉がのどから突いて出そうになる。
無理強いなんていうのは、が勝手に考えたことだ。そして謝ってくれるな。俺はいつしか望んで彼女の一番近くに在ったのだ。
「今朝のこと、ごめんね。あなたを手入れしている時間に考えてたんだよ。私、どんな言葉で謝ったらいいんだろうって。私が我慢を知らないから私たちすぐに言い合いしちゃうけれど、ずっと鶯丸に伝えなきゃって思ってたんだよ。感謝は、かたちにしなくちゃって……」
急にの涙の量が増えたようだった。熱い滴が寄せられる頬を伝って、俺の肘まで濡らす。
「かたちにしたかったんだけどね、あなたみたいに、上手におにぎり作れなかったよ……」
「………」
ようやく合点がいった。どうして下手くそを指摘したくらいであんなに怒るのかと思っていたんだ。気付けば俺は目を開けていて、視界いっぱいにみっともないの泣き顔が広がっていた。鼻をすすりながら、呆然とが俺を呼ぶ。
「う、ぐいすまる……?」
「そうだったのか」
「鶯丸、大丈夫なの? どこか変なところは……?」
「無い」
驚いた表情のままは固まっているが、目にたまった涙がなお、ぽろぽろと落ちるた。
「の手入れは完璧だった。だが、お前の握り飯が食べたい」
「つ、作ってくるね……! すぐに!」
涙を拭いながらは部屋を駆け足で出ていき、少しすると言葉通りに握り飯を作ってきた。握り飯の腕前は数日で良くなるはずが無い。やはり形が不揃いなそれがみっつ、皿の上に並んでいる。
いや、形が不揃いだからこそ彼女の手製だとよくわかり、俺はすぐにそれをほおばった。とたんに塩と米の甘さが口の中に広がる。
「美味しいじゃないか! ああ、良い塩梅だ!」
べた褒めすると、やっと泣き腫らした顔に笑顔が浮かんだ。物言わぬ照れ笑いが梅の花が咲くように愛らしい。
「鶯丸が何ともなくて良かった……」
伝えるようではなく思わずこぼしたように言ったそれは、の本心なのだろう。あれだけ枕元で泣かれ、腕全体を涙で濡らされたのだ。意地っ張りな彼女の久しく覗くことがなかった本心を見たようで、俺も自然と優しい気持ちになっていた。
赤くなった目をこすりながらが言う。
「そういえばね、鶯丸。台所に言ったら三日月がいてね」
「ああ。茶を入れにいっていたな」
「………。それで三日月が、鶯丸は起きたか? って言うのよ。でね、三日月が、こうも言ったの。起きたのなら、鶯丸に俺がどうして台所にいるか聞いて見ろって」
「ああ? 茶を入れに、だろ?」
「ねえ。三日月がこの部屋にいたのは、鶯丸が意識不明だった時だけのはずなんだけど。どうしてそれを知ってるの?」
「………」
「鶯丸、あなた、私の手入れは完璧だったって言ったよね。ならどうして目を覚まさなかったの」
「………」
まだぐずっていたの目元から涙の気配が引いていく。そのすっ、という音が聞こえるようだった。
「とりあえず吐かれても困るから。それ、ちゃんと食べきったら、覚えてろよ」
「………」
さっきのしおらしいはどこに行ったんだ。瞬きの間に別人に変わったのかと思うくらいドスのきいた声が下っ腹に響く。
皿に乗った握り飯はあとふたつ。ひとつはが手に取って口に入れる。
「下手くそ」
それは握り飯の腕前か、それとも俺の隠し事に対する詰めの甘さか。かみ砕いた米が舌に甘みを振りまいている。枕もとにぱたぱたと水が落ちる音。今度それはの涙じゃなく、俺の冷や汗だった。