Cream : カラフル
筆先をおまっすぐに降ろして肘ごと手を引く。現代に残るも、教養としてしか習わなかった筆の扱いにも最近ようやく慣れてきて、墨の香りが心地良いと感じるくらいだ。
その内、一本一本の線を引くことが楽しくなってくる。今日は調子が良いらしい。筆がのってきて、楽しく書き物を続けていた。
ただ、楽しいからって集中しすぎたらしい。
「ねえ」
そう声をかけられて、私は初めて彼がすぐ横に来ていたことに気づく。
「加州くん」
びっくりし過ぎて、正座のまま少し畳から浮き上がってしまったかも。そう思ったけれど、加州くんは特に気にした様子は無く、目を細めている。
「大丈夫ー? だいぶ怖い顔してたけど」
「………」
怖い顔と言われて再び驚いた。私はただ筆先が自分の指先のように動くのが楽しくて集中していただけだ。周りが全く見えていないくらい真剣になっていたのが怖い表情に見えたのかもしれない。
そんな風に見えたんだ、と思うと少し気落ちするけれど、大丈夫と聞かれれば大丈夫。心身共に健康で何も悪いところが無いので私は頷いた。
「うん」
「……それって大丈夫って意味?」
「うん」
「そ」
「………」
加州清光。彼を前にすると私はほんの少し身構えてしまう。彼のことが苦手だったり嫌いな訳じゃない。むしろ刀剣としての働きには支えられ、心の内では頼りに思っている。
ただ反射的に緊張を覚えるのは、私の至らなさで加州くんを怒らせたりすることがこれまであったからだ。一回や二回じゃない。何度もだ。
元々人付き合いが上手でない方であったけれど、私の不器用さで、加州くんには今まで何度不快な思いをさせたのか。次こそはうまくやらなければと意気込めば意気込むほど、加州くんとの仲がこじれていく感覚が私にはあった。
私は何度も失敗してきたというのに、今もこうして近くにきて話しかけてくれるのだから、加州君はとても良い人だなと思う。
「あのさ、今、良い?」
「うん」
加州くんが私に何かを言おうとしている。せめて誠実に向き合いたい。私は筆を筆置きに置いて、姿勢も、彼に向かって座り直した。
彼は一度髪を触って、ひとつ長い息を吐き出してから切り出した。
「主がさ、あまり多くのことを言わない人だってのは俺も分かってる。だけど、俺としてはちょっとでもいいなとか、可愛いとか思ったら伝えて欲しいんだよねー。言葉にしなきゃ分からないことってあるでしょ?」
「……、うん」
「俺のこと褒める練習をしてみるの、どーかなって」
彼が放った言葉は、飲み込むのに少々時間を要した。誰かを褒めることに練習が必要だなんて考えたことも無かったからだ。考えたことも無ければ聞いたことも無い。けれど、加州くんの提案が頭の中で砕けていくにつれ、私は納得して言った。
戦術や戦略的なことならまだしも、自分の考えや想いを伝えることが苦手なのは自覚していた。誰かを褒める練習は、私にこそ必要なものかもしれない。
自分に必要なものを見つけられたこと。それを見抜いてくれた加州くんに、加州くんの優しさに、私はふと胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「あくまで練習だから。ね、しよ!」
「うん」
「じゃあ俺が“かわいい”って言うから、真似して“かわいい”って返してよ」
なんだ、そんなことで良いのか。そう思ったけれど、事はやってみると考えたほど単純では無かった。
「“かわいい”」
「……、“かわいい”」
「もう一回。“かわいい”」
「“かわいい”」
なんだろうこれ。私はただ加州くんの真似をしてかわいいと口にしているだけなのに、口にする度に、何か、何かが変容していくのを感じる。
私に復唱させるためだと分かっているのに加州くんが「かわいい」と言えば、普段向けられることの無い言葉を吸い込んで、耳の後ろがざわついた。
ただ真似をすれば良いんだ。そう言い聞かせて唇を動かして「かわいい」と返せば、声が意図しない色になって私から出ていく。
「可愛いよ」
「かわいいよ」
「可愛い!」
「かわ、いい」
私と彼の間に満ちる「かわいい」の言葉。曲がりなりにも私は女で、彼は男の姿をしていて、その二人がかわいいと言い合っている。この空間はちょっと異常だ。そう思う脳も次第に痺れていく。
「かわいい」
私がそう言うと、加州くんも「へへ」と笑う。それがまた気恥ずかしさを加速させた。そして、燃えそうに体が熱くなって、加州くんに「かわいい」と告げる事がそう楽なことじゃないと気づく。
恥ずかしい気持ちでいっぱいいっぱいになっている私に気づかず、加州くんは次の段階へと私を導く。
「じゃあ、次。俺のどんなところが可愛い?」
加州くんの、どんなところが可愛いか。問いかけられて、ふと思い出したものは幼い手で撫でたふわふわだった。手入れの行き届いた毛並み。胸が締め付けられるような懐かしさ。加州くんに似たあの子を思いだし、自然と言葉に出る。
「おばあちゃんちに、昔いた、猫みたい」
赤い首輪をしたあの子は日常を閉じこめたような三毛猫だった。瞳の、丸い水晶体が透き通っていて綺麗で、あの子の光彩の色を私は未だに覚えている。
一番よく見かけたのは塀の上で気ままにしっぽを揺らしている姿だ。私が近寄ると静かに降りてきて、にゃあにゃあ鳴いた。
撫でてくれ思いっきり撫でてくれ、あなたの最大限の愛情で、今、愛してくれ。そう鳴くのだ。
その撫でる手の持ち主が、本当は誰でも良いくせに。
あ、と思った時にはもう遅い。目の前加州くんからは笑顔がかき消え、口を尖らせている。やってしまったな。
「……、ごめん」
「謝んないでよ。……、あーあ」
「ごめん……」
「良いって」
そうは言うものの、私の発言でお互いの熱がさっと冷えてしまったのが分かった。
「じゃ。今度、少しでも俺のこと可愛いって思ったら、口にして伝えてよね」
それだけ言い残し、私の返事を受け取ることなく、加州くんは立って行ってしまった。
失敗した。その感情にくらくらと目眩がして、私は座ったまま動けない。
暗い気持ちが若い木を燃やした時の煙のようにやってきて、にわかに落ち込む。
あらぬ方角へ座ったまま動かない私が多分、何をしているのか意味不明だったんだろう。
「さん?」
気づけば大和守くんが来て、すっと私の正面に座った。さっきまで加州くんがいた位置に爽やかな水色が、赤く細い瞳があったところにつぶらで青い目の彼が座す。
「何かあったの?」
「ううん」
「今まで誰かいた?」
「……加州くん」
大和守くんは、ああって合点のいった顔をしてから苦笑いした。
「またあいつかぁ」
「うん。うまく、行かないね」
「あんまり考えすぎたらだめだよ」
そう、明るく言い放ち、大和守くんはちょっと歯を見せて笑った。
わたしはふと、思い出す。加州くんは猫だったけれど、大和守くんは、おばあちゃんが昔飼っていた犬に似ている。毛の短い中型犬。丸く黒い瞳で私を見上げて、そっと寄り添うように横に座る。一緒にお散歩しようかと提案すれば、尻尾を振ってついてきてくれる。優しいあの子に、大和守くんは似ている。
これを素直に言ってしまったら、大和守くんも良い気持ちしないかもしれない。猫を思い出すと言って、機嫌を損ねた加州くんのように。
加州くんに教えてもらったこと、大和守くん相手にはできる。本当に必要なのは加州くんと向き合った時だというのに。
不甲斐なさがぞっと背筋を覆った。けれど目の前の大和守くんに心配をかけたくなくて私は反射的に唇を噛んだ。