例えば、野原で草を食んでいた野うさぎが身に起こるであろう危険を察知して、耳をぴくりと動かす。そして体毛の下の足のバネを見せつける速度で走り出す。野生の動物らしさを見せる。その瞬間の彼女はまさにそれだった。
一番隊の安否を心配するあまり、何も手をつかないからと主は、かすかな緊張感の混じる面もちで目を閉じていた。外を見るのにも飽きて、俺が睫の数でも数えていた時だった。
主は急に顔を上げた。
それから何か口ごもりながら、「何」「どういうこと」そんな譫言を漏らした。何を察知したのか、何が彼女に訪れたのかまったく見えないまま、さっ、という音が聞こえそうなくらい性急に主の顔は血の気をなくしていった。そして最後に、
「大和守くん……!」
あいつの名前を悲鳴の声色で呼んで、服のすそを強く強く握った。
主は青白い顔で立ち上がると、すぐに座敷を飛び出していった。空室の手入れ部屋を確認し、道具を取りそろえる。その手は小刻みに震えていて、道具がかたかた鳴った。
主の様子を察知した他の奴らが顔をのぞかせても、主には俺や皆が見えていないようだった。
「主、どうしたんだ?」
「本隊が、道中で」
「何かあったのか?」
「………」
何かを見ようとして何も見てとれていない瞳。今の彼女がひどい混乱状態にあるのはすぐに見てとれた。口下手だからではなく、状況を表す言葉が出てこないようだ。
この人がこんなに取り乱すのは初めてで、ひょっとしたらこのまま倒れてしまうんじゃないかと思えた。
「とりあえず、落ち着けって——」
主の肩に添えようとした手は、空を切った。彼女が、門の方へと走り出したから。
そう、自らの命のために走り出した野うさぎみたいに、主とは思えない速さで走り出した。
一瞬出遅れて追いかけると、ちょうど今回の一番隊の面々が本丸に帰還し、主が重傷のアイツに、大和守やすさだに飛びつくところだった。
俺はおかしな気持ちでその光景を見ていた。馴染みのあいつが珍しいくらいの大怪我を負ったことへ、動揺する気持ちはあった。だが一方で命のあるまま帰ってきた。それに主は顔色は悪いけれど意識はしっかりしているようだった。必死にあいつの状態を確かめながら手入れ部屋と導く。そのの諦めたところなどかけらも無い様子に、「きっと大丈夫だ」と思えた。
他の一番隊の面々は、怪我などが浅い割に暗い面もちだ。何があったんだろう。イヤな気配が俺を足下からのどもとまで飲み込もうとしている。けれど、のどから上は妙なくらいさっぱりとした気分に包まれていた。
あんな主を見たのは初めてだった。あそこまで取り乱したのも、あんなに早く走っていってしまうのも。
大和守安定により大きく動かされている主を見ることなら、二回目だった。
もう空の色を見ているしかできないと不意に思うような、さっぱりとした諦めが、俺を包んでいた。