右足のかかとが靴ずれを起こしていた。せっかく買った靴なのに。いや分かっている新しい靴だからこそまだ私の足に、もしくは私の足が靴に馴染んでいないからお互いがぶつかりあって皮が剥けてしまったのだ。私のこれからみたいだと思った。クリアしなければならない課題は山ほどあるものの私が大学を卒業する日がとうとうモラトリアムから追い出される日が今では薄ぼんやりと見えてきていて、それは蜃気楼みたく揺らいでいるくせして私を急かしている。一番外側の薄い皮がなくなってしまった場所に雨の空気がいやに染みた。雨だというのに私に傘は無かった。けれど私の時間は押していた。友達と約束をしていて電車に乗りたい、行かなければいけない場所がある。
傘もなしに突っ切るには雨は大粒だ。大学の分棟の玄関口。行くか傘をどうにか調達するべきか迷いながら少し遅れるかもとスタンプを友人に送ろうとした時だった。私を追い越していく白い影。視界の端っこを通り過ぎていった。はっと顔を上げると鶴丸だった。もう彼は軒先から抜け出していてずぶずぶと上から濡れていく白いシャツ。彼は何事も無かったように歩いて出て行く。何事も、雨も私も無かったかのように、堂々と濡れていく背中。
結婚するか。友人関係でしかなかったのにそんな冗談を言われて、やっぱり酷く浮いた言葉にお互いどこか距離の取り方が分からなくなり。結局、そんな言葉をお互い無かったことにして結びなおしたつもりだった私と鶴丸の友人関係はあの後自然消滅を迎えた。
何か喧嘩したわけじゃない、きっと飲みに行こうと言われたらなんだかんだ集まれると思うし突然の馬鹿な提案にのっかってみるくらいの友情は私の中には残っている。けれどお互いに誘わないだけ。なんとなく鶴丸は巻き込めないポジションにひょろりと立っているひとになってしまったのだ。
私から関わる意欲をなくしていき、それとは関係なく鶴丸は鶴丸で徐々に別のお気に入りを見つけるようになっていった。結局鶴丸が私に興味を持っていてくれたから。暇つぶしに構ってくれていたから成り立っていた関係だったと知った。彼はもう私に飽きてしまったのだろう。私はまだ鶴丸に飽きたりなんかしていない、今も友達でふとした瞬間戻れるんじゃないかとひとつまみの希望を捨てきれないでいる。けどまあ鶴丸は、私の住むワンルームの攻略も、とうに終えてしまったことだし。しょうがないことなのかなと自分に言い聞かせている。だから鶴丸が無言かつ無感動で私を追い抜いていったのもしょうがないことなのだ。
鶴丸の背中は雨が弾けたことによる霧の向こうに消えてしまった。私はようやく覚悟を決めて鞄を頭にセッティングした。
大丈夫、カバンは布製で高いやつじゃない。大事な書類はファイルに入っている。いざ出陣と一歩踏みだそうとした時だった。雨の霧の向こうから鶴丸が戻ってきた。それだけじゃなくちゃんと私を見ていて、なぜか駆け足になっている。
「あ、危なかった!」
ずぶぬれの鶴丸は分棟の玄関口にたどり着くと、あっけらかんとそう言った。危なかったもなにも、鶴丸はスニーカーまでじっとりと濡れていて手遅れに見える。
でもその危なかったの妙に明るい言い方が、ああ鶴丸だなと思えて苦い気持ちになる。話したのいつぶりだ。
「間に合ってよかった。これ、君にだ」
息を整えながらも差し出されたのはビニ傘だった。鶴丸は手ぶらで出ていったというのに。さっきの鶴丸は、私に、ビニ傘を取りに行った? 自分だって傘が無いくせに?
「ありがたいけど。鶴丸が使った方が良いんじゃないの」
もう手遅れかもしれないけれど、だからといってひとつの傘を鶴丸から奪えやしない。
「聞いて驚け。俺は構内に無数の置き傘ポイントを持っていてな。その数は無限に等しい」
「………」
「無限は言い過ぎだな。まあ4本くらいは余裕がある」
4本と無限一緒くたにするとは恐れ入る。それに無限に近いくらいあるのならなぜ分棟には無かったのと、なんだか自慢げな彼に聞いてやりたい。
「持っていってくれ。今、傘が必要なのは君だ。礼はそうだな、俺にまた驚きをくれよ」
私は、どうしたら良いか一切分からなくなっていた。覚悟は思わぬ方向から崩された。濡れたって良かった、友達の前で少し恥ずかしいかっこうを晒すくらいなら耐えられる。意図せず離れてしまった鶴丸に優しくされることの方が理解しきれないしその混乱を耐えきることの方が辛い。雨水が鶴丸の全身に滴っている。特にその鎖骨にまでかかる髪が濡れて、白さが眼に痛い。
「……また驚きを、って。私そんなに鶴丸を驚かせた覚え無いよ」
「まさか無自覚だったのか? こりゃあ驚いたぜ」
「………」
「ほらな。君は俺にとっちゃ胸をはらはらさせるものが塊になって生きているようなもんなんだ」
だから、心配になって結婚しようなんて言ったの。そうやって聞きそうになった。いいや聞いてしまえ。きっと物事に追われているうちにわたしは大人になる。そしてどうせ別々の社会で生きていくことになるんだから。
「ね、鶴丸。アレだけど」
「アレ?」
前まではアレで通じていたのにね。私はつい、苦笑いをした。
「鶴丸が結婚するかって言ったやつのことだよ」
「……、……」
「ずいぶん昔の話でごめん。忘れようかなって言ったの私だけど、忘れてなくてごめん」
「いや、良いんだ」
そうは言うものの鶴丸の声はか細くて雨の中では聞こえづらくて、どうやら動揺しまくっている。
「重要なのは忘れるか否かじゃあない、君が気にしないでいるかってことだったん、だか、ら……」
「……あのね、忘れてないどころじゃなかったよ。ずっと覚えていたし、私は助けられてたよ、鶴丸に。鶴丸のあの言葉に」
「………」
「突然言われてすごく驚いて、びびっちゃったけど、でも嬉しかったよ」
それから、今までのことを伝えると、鶴丸が眼をまんまるくして、感情が言葉にならないでいる姿はとても滑稽だった。
「あの言葉のせいで、ずっと胸の中に鶴丸がいた」
「辛いことあったとき、ミスしちゃって本当に自分が嫌いになったとき、鶴丸のこと思い出した。だめだめな私を知っているくせに鶴丸は人生ずっと一緒でも良いかって一瞬でも思ってくれたんだなって。ひとり、だめだめな私を真剣に心配してくれたヤツがいたって。そう思うと、勝手に鶴丸のこと、強い強い味方みたいに、ヒーローみたいに感じてた」
「くじけそうな時でも、もしかしたら鶴丸が助けてくれるかもしれないなって考えてた。ううん、本当の助けを求めてたわけじゃないの、最後に逃げられる場所があるってだけで、頑張れたから」
「あんまり関わり無かったくせに、心の中でずっと鶴丸を利用してたんだよ、わたし。ごめんなさい、ずるくて」
「ねえ、あの日、愛情をくれてありがとう」
ハンバーグを焦がした私を哀れんだ鶴丸の視線。あれは愛情だったのだと思う。あれだけ私の中に静かに流れ続け、私を安心をくれたのだから。
結婚するかって言い出したのは鶴丸だった。だけどいつの間にか想いは逆転したのだろう。身勝手に心の中に相手を飼って、理想を抱いて、影響されて、苦しくなったりもして。伝えたのは長い長い片思いのそれだった。
私は鶴丸から傘を奪い取った。大好きな心の支えが私のために持ってきたという傘が、欲しかった。鶴丸自身が濡れているせいで持ち手まで冷たく濡れている。
「助けに来てくれてありがとう」
「ま、待ってくれ!」
冷たい手が私の手首を捕まえた。傘と玄関口の狭間で、私と鶴丸、両方の手首から先が濡れていく。
「ひとつ言わせてくれ。俺は、君が大好きなんだが」
「………」
「そんな大好きな君の中に、俺が存在できていたなんて、幸せだ」
私は思った。彼を人生の長きに渡って困らせ心配させるとしても、また彼を幸せにできることも可能だと言うのなら、私は鶴丸のそばで生きても許されるのかもしれない。
ああ幸せだ幸せだって繰り返し言ってへにゃへにゃ鶴丸が笑ってくれるから、私は彼の人生を貰ってみたいなんて欲張りを止める術を失うのだ。