朝は少しだけ遅く起きる。サラリーマンの旦那さんが奥さんに頼まれてゴミ片手にマンションを出ていくのに代わって、私がむっくり起きあがる。
朝一番の水分補給に、昨日の残りであるペットボトルのミルクティーを飲む。どろっとしたものが胃をなだれ落ちていくのを感じながら、いつもの部屋着にパーカーを羽織る。我が家のゴミを手に取って、寝ぼけ眼で外に出る。
「………」
朝の空気は冷たい。でもなんだか昨日よりはあったかい。手で髪を撫でつけながら私はエレベーターではなく、階段で、地上へと降りていった。
わざわざ階段を使うのは、運動不足を解消するためというよりは、こうでもしないと目が覚めないから。それに下っていく途中で一期さんたちの部屋から漏れ出る、朝の音を聞くことが出来る。
「ほら、しっかり目ぇ覚まさないとこぼすぞ」
「うう……」
「あ、一兄! 今日夜に雨降るって!」
「大丈夫か? 貸してみろよ」
「あ、今日テスト? 大丈夫、なんとかなるって」
「味噌汁のおかわりを飲むひとは、いませんか!」
「ふぁあ……、んん……」
あんなに良い子たちばかりが集まってる一期さんの部屋でも、朝だけは少し騒がしい。
「今日の買い物当番誰? 牛乳切れちまった!」
「一兄、向こうの部屋の戸締まり、確認してきました」
「弁当が出来た。とりに来い」
「この靴下は誰のだい」
「今日はトイレットペーパーの特売日たい!」
目をこすりながらその声たちとすれ違い、私はカン、カン、と階段を下っていった。
マンションを一歩出て振り返る。一期さんたち兄弟に貸した部屋の辺りを見ると、ベランダにはもう洗濯物がかかっている。
はためくたくさんの衣服と、ベランダに干せるだけの布団。それを見上げてようやく私は気がついた。ベランダのその奥に広がる青色。
今日はよく晴れている。
ゴミを捨てて、その周辺を軽く掃きそうじをする。ゴミ捨て場を綺麗に保つため、というよりは苦情対策のためだ。
誰かに文句を言われる前に、私からそっと身を引いて、目立たなく生きる。それが自分を守る術だと、知っている。
「はっ……、くしゅ」
今朝は、寒くも、昨日よりはあったかいと思ったのだけど、肩が冷えてきた。早く部屋に戻ろう。かじかむ指でほうきとちりとりを元の場所に片づけようとした時だった。
「おはようございます」
「………」
そのひとがくれたのは朝の挨拶。だから私もただ、朝の挨拶を返せば良いだけなのに、とっさにそうは出来なかった。原因は明確で、挨拶の主が一期さんだから。柔らかなその声を受け取る準備の無かった私は、おはようございますの言葉も忘れて立ちすくんでしまった。
握りしめたちりとりの柄が、古びたプラスチックが、かたい。
「お……、おはよう、ございます」
ようやく返事を絞り出すたものの、一期さんの肩から上を見上げることは出来なかった。朝のわたしは髪の毛もひどいと思うし、まだ顔も洗ってないし、昨日と同じパーカーをただ羽織っただけだし。
なのに顔を見る勇気が無い視界には、一期さんのすっきりとした肩や、綺麗に洗濯済みなんだろうなと思わせる清潔感漂う袖口が見えた。
「いってきます、さん」
どうしてそれだけの言葉なのに、毒みたいにわたしの心臓を揺らすのだろう。朝に弱いわたしは指先や考え方には感覚が戻りきらないのに、心臓だけは走ったあとみたいに暴れている。
言葉の通り、一期さんは軽やかな足取りで行ってしまった。たぶん、大学へ。
足音が消えてからしばらくしても、私は何か痛みでも堪えるようにそこから動けなかった。
寒さがさっきよりも強く体を染める。私はひとつ深呼吸をしてから、箒をちりとりを片づけ、エレベーターで部屋に戻った。薄暗い自室。そういえばカーテンを閉めたままだと気づいて、引っ張った。
そこには空色。一期さんの髪のような色が広がっていた。
晴れているのは分かっていた。マンションの外から一期さんのお部屋の洗濯物を見上げた時に気づかされた。けれど、今日はなんと良く晴れていることだろう。くっきりとしたコントラストの雲が少量だけ浮かんでいる。
「………」
おはようございます。って、言えば良かった。せめて、返事できれば良かった。朝からもう、だめだめな私は、失意のまま二度寝したのだった。
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おまけ。台詞の割り振り
「ほら、しっかり目ぇ覚まさないとこぼすぞ」やげん
「うう……」ごこちゃん
「あ、一兄! 今日夜に雨降るって!」乱
「大丈夫か? 貸してみろよ」厚
「あーそういや今日テスト……」ずお
「味噌汁のおかわりを飲むひとは、いませんか!」前田
「ふぁあ……、んん……」秋田
「今日の買い物当番誰? 牛乳切れちまった!」後藤
「一兄、向こうの部屋の戸締まり、確認してきました」ひらの
「弁当が出来た。とりに来い」ほねばみ
「この靴下は誰のだい」一期
「今日はトイレットペーパーの特売日たい!」博多