僕が五匹の虎を代わる代わるに撫でる。白い毛並みに僕の手が埋もれていく姿に、僕はあの人の手のひらを投影した。指の間からふわりと起きあがる虎たちの毛。きっと、僕の髪に一瞬埋もれるあの人の手も、こんな感じ。主様も僕のように白い手の持ち主だけれど、主様の手の方が、僕より少しももいろ。
 気づけば僕は目を閉じていた。はっとして周りを見る。辺りは人気の無い山道。道からは下の木々が見え、見晴らしは良いのに人間ひとり見えなくて、生き物といえば鳥の声がするばかり。目を向けてくるのは虎たちだけと知って安心して息を吐く。
 遠征の帰り道、足を止めた途端に主様を思い出した僕を、見ている人は誰もいない。

 虎がかわいそうになってしまって追い払えなくなるような僕だけれど、近頃は一人で遠征をこなすようになった。
 あの主様について、男士として戦うようになって、僕は少しだけ強くなった、と思う。
 主様に命じられる時はつい体が跳ねてしまい「すみません……」と謝ってしまうけれど、その命だって、相当運が悪くなく、僕が下手をしなければ、なんとかなる。以前よりずっと、そう思える僕になっていた。
 それに一人で遠征と言っても、僕は本当の一人では無い。虎たちがいる分、たった一人で出陣するとしても、僕は寂しくない、はずなのに。


「はあぁ……」


 本丸への道のりはまだ少しある。僕がここにいること、そして主様がここにいないことを思うと胸が縮こまる。主様は今頃、誰と何をしているのだろう。
 もう一度、虎の頭に埋もれた僕の指を見る。僕の頭を撫でる主様の手は、僕がこの体である限り見ることは無い。だけどきっと、僕のものより良い匂い。


「……よし、早く帰りましょう!」


 なるべく明るく虎たちに声をかけると、地面におのおの座り込んでいた虎たちが立ち上がった。主様は時刻通りに僕が帰ってくるものだと思って、待っているだろう。もし約束の時間に戻らなかったら、主様は僕を心配するだろうか。
 帰らなかった僕を尚待つ主様。心に僕を住まわせて主様はどんな顔をするか考えて、胸が辛くなる。
 とっくのとうに気づいていた。僕は、一人の遠征は虎たちのおかげで寂しいとは思わない。一人であることが一人勝手に僕の胸を追いつめているわけではない。主様が、ここにいないことが僕に在ったはずの自由を締め付けている。




 本丸の内に入れば、報告のためにも僕のためにも、一番に主様の元へ向かう。


「あのっ……!」


 思わずうわ擦ってしまった声をあげると、すでに近侍のお人が主様に声をかけていた。遠征の者が帰りました、と。

 ほとんどの音を立てずに出てきた主様。僕が出ていった時と寸分変わらない様子だ。その当たり前のことで、のどがいっぱいになる。つらさをせき止めていたものが外れてしまった気がした。


「おかえりなさい。結果を聞こうかと思ったのだけれど。全部、顔に出ているわね。目がぴかぴかしてる」
「そっ、それは……! す、すみません……」


 目がぴかぴかしている僕。それはすぐに思い浮かべることができた。今は僕の方が主様の色を飛び越えたももいろ、果ては茜色になってしまっているだろう。恥ずかしい。


「楽しかった?」
「えっ……?」
「もしかして五虎退は、遠征が好きなのかと思って」
「ち、違いますっ!」
「違うの?」
「すっ、……すみません……」


 遠征が好きなわけが無い。本丸と離れて、皆と離れて、主様から遠く放たれた場所で戦わなくてはいけない。
 主様に、僕が遠征を好きだと思われては困る。そうじゃないんだとちゃんと分かってもらいたい。けれど僕が主様に、戦の好き嫌いなんていうわがままな気持ちを伝えるなんて、自分勝手が過ぎる気がして言えない。
 情けないけれど目に涙が滲んできた。前より強くなれたと思った矢先だと言うのに、こらえきれそうにない。唇をかんで下を向くとそこに、ふわりと乗ったのは主様の手の感触。


「ぇ……」


 軽く上から押さえ、少し指先で髪を梳く。かすかに伝わってくる手のひらにある暖かさ。
 すぐに分かった。手の動きは、いつもの僕が「撫でてください」と願うとしてくれるものと全く一緒だ。今日はそれが、僕がお願いするよりも前に与えられた。
 主様はもう解っている。帰ってきたら一番に「撫でてください」と言う僕のことを。


「うう〜……っ」


 たまらなくて、僕は腕の中の虎を思いっきり抱きしめた。虎が、腕の中で首や手足をひねって暴れた。

 とっくのとうに気づいていた。遠く離れていても主様が、僕に在ったはずの自由を締め付けている。その気持ちは寂しさでは無く恋しさなのだとも。

 その気持ちが恋しさだと知った時も、今みたいな状況だった。僕は遠征から帰ってきて、また主様の元に戻ってこられたことが嬉しくてつい「撫でてください」とお願いをしたのだった。そしたらそれを主様はきちんと拾い上げて、僕の頭に触ってくれた。
 直に触れると、不思議なくらい主様の多くが僕に伝わってきた。この人の暖かさ、手の堅さ。そして夜霧のように立ちこめる、この人に巣食う凍えのようなもの。

 今も伝わってくる。主様という人間の生きている体温。かすかな脈の音。けれど拭えない、主様という人を足下からぐっしょりと濡らす塩水の気配。指先からただの優しい人ではないと知ってしまったからこそ、単純さから遠くかけ離れた貴女だからこそ、僕はこの人に恋しさを、好きを複雑にしたような気持ちを知ってしまったんだ。