縁側に寝転がっていたところその視界に急に素足が入り込んだ。その色形、使い込みの薄い瑞々しい素肌ですぐのものだと分かるから俺は寝転がったまま主を見ていた。見たこと無い場所から見上げる主。腰から背筋の柔らかな線が俺からは見えたが、まあ特別な感想は無い。主は主だった。

 主は二枚の紙を持っていた。一枚は横に、一枚は空間を保ちつつ被せるように合わせている。横にした紙に、何かを乗せているようだ。
 そのまま裸足で、縁側から下りるので、「おいおい」と思わず起きあがってしまった。


「なんか履けば良いのに」
「………」


 にとって、草履を履くことも俺の声を聞くことも面倒らしい。一瞥するとかまうことなくすたすたと、そこらの植木に近づいていった。裸足で。

 紙が開かれるとそこにのっかっていたのは青虫だった。新芽より透き通る緑色の。ほんの小さなものだ。大方、部屋に入ってきたのを見つけ、二枚の紙で器用に外へつれてきたところらしい。はその青虫をペッ、ともう一枚の紙で掃いたのだった。青虫は突然の押し出しに簡単に負けて、茂みの中に落ちて同化してしまった。

 特に感慨も無かったようで、またすたすたと海は縁側に戻り、足についた土や小さな石を払っている。
 その一部始終を見ていた俺は、思わず口をぽかんと開けていた。


「……何?」
「いや、いろいろ」
「他には黙っておいてね」
「え?」
「裸足で出たこと。……やらなきゃよかった。私は良くても床を汚す」


 後悔するのかよ、俺と草履をめんどくさがったくせに。また口が開きっぱなしになる。
 はもう一度、俺に聞く。「何?」と。その顔は面倒そうで、やや不快そうだ。


「女の子なのに虫とか平気なんだなぁ」
「平気じゃない」
「平気そうに見えたぞ?」
「騒いでも良いこと無いから騒がなかっただけ。本当は嫌い」
「はぁ〜……」
「何」
「あんたさぁ、愛嬌が足らないってよく言われるだろ」
「言われる」


 そう答えるはうんざり顔で、だから何だ、とも言いたげだった。この反応がまた可愛くない。
 そんな俺の考えもは読みとって、じとりとした目つきで俺を見上げて早足で戻っていってしまった。首を伸ばして、部屋を少し覗くと、青虫を扱った紙を二枚ともくずかごに入れていた。何も書いていない綺麗な紙なのに。やっぱり平気じゃないんじゃないか。

 俺もまた呆れ顔でを見ていると、こっちを見るなというように障子が閉められた。ありゃりゃ。
 俺は仕方なくまた寝転んで、白い障子を穴が飽きそうなくらい見つめた。

 彼女のいつも通りの姿だ。他には当たりがもう少し柔らかい気もするが、俺の突っつき方がいけないのか、俺と話すはだいたいさっきの通りである。

 俺は、ぽかんと思う。あの日の面影、欠片も無いな、と。
 あの人の泣いた姿を見たのは、あの日っきりだ。




 あの日、と言っても、特別な何かがあった日では無い。だから“あの日”と呼ぶしかないんだが。
 俺にとってはつい先日のような感覚があるが、この本丸内で過ぎた時間を相対的に見て言うと、随分前のことだ。
 は成り立ての主だった。彼女は今よりもっと堅物で、恐らく様々なことに緊張をしていた。しかめ面よりは、責務を重大に感じているのか青い顔をしていることのが多かった時期。

 本丸は、俺の目から見ても上手く物事が回っていた。は着々と刀剣男士の仲間を増やし、資材集め、また消費の指示が的確だった。いつも考えごとに眉をしかめていたが下手に迷い悩む姿を俺は見たことが無かったし、戦績も良かったと思う。俺から見た限りだが、負けたような覚えは無い。
 ただ軽傷を負った記憶はいくらかある。彼女はそれぞれの練度を上げるために、軽傷までは折り込み済みで作戦を立てているようだった。だから入り立てだと傷も多い。けれどそれを経てしっかりと、皆戦力として数えられ、本丸での居場所を見つけていくようになるので、不満を持つものは誰もいなかった。と思う。

 彼女のやり方は間違っている。そう感じたことは、一度たりとも、誓って、無い。
 俺はなんとなく彼女が、緊張のさなかにありながら気丈に作戦を立て、本丸を統べていたことに感づいていた。だから「あんた、結構やり手だな」なんて気軽に耳打ちすることもあった。
 主は、俺の言葉で喜ぶことは無かった。手放しで刀の言葉など信じる人じゃ無かったんだ。ただ眉をしかめ、苦い顔をするだけだった。

 そう俺だって彼女をいくらか誉めたり労ったりしたというのに、その言葉を主が受け入れたのは刀剣男士の誰でもなく政府だった。
 あの日、主は一通の文を受け取った。そこに偶然俺は居合わせた、というか気楽に寝転がっていて、とこんのすけのやりとりが見えたのだ。は具合が悪そうにしながらもこんのすけと二言三言交わしていた。今までよりも一層青い顔をしていたその時点で俺はが直にぶっ倒れるのではないかと心配になり、起き上がり、とりあえず近くにあぐらかいて座った。

 近づくと、俺はあることに気づいた。この人は震えていた。外はよく晴れているので寒いわけではなさそうだった。俺も寒くは無かった。過度に緊張しているようだった。文がカサカサと揺れていた。


『それでは、また』
『はい』


 こんのすけがぴょんと飛んで視界から出ていったかと思えば消えていた。はひとつふたつ息を吐いてから握りしめていた文を開き始めた。彼女が震え、のどが大げさに唾を飲み下している。


『大丈夫か?』


 どう見ても大丈夫じゃなさそうだが、そう聞いていた。


『あ、お、御手杵……』


 はその時俺がいたことにようやく気づいたらしかった。丸く、瞬きを忘れた目で、俺を見る。


『へ、平気……』
『そうは見えないけどな』
『………』
『俺が読もうか、それ? あんたが目の当たりにしたら泡吹いて倒れちまいそうだ』


 は目を泳がし、たっぷり逡巡してから、俺に文を差し出した。無言で、両手で掴んだ文を突き出す。


『おう、貰うぞ』


 その時、彼女の手に触れたのはがちがちに固まった指が文を離してくれなさそうだったから。また、少しでも安心して欲しかったからだ。
 俺は、がなぜここまで青い顔をしているのかその訳を知らない。多分誰もこの人が何を抱えているのかを知らないのだろう。だからこそ今は人間の己を少し信じてみて、触れてみたのだ。体があるってそういうことだろ。指を解かせずらしてから俺は文を引き抜いた。


『読んで、良いんだよな』


 はきりきりと張りつめた様子で頷いた。彼女の骨の悲鳴が聞こえてくるんじゃないかと思えた。そんな顔するなよ、と言いたかった。こっちまで緊張が移ってしまう。でも俺がしっかりしてやらなきゃなと思い直し、自分のことは自分で沈めて文を開いた。


『………』
『お、御手杵?』
『なんだこりゃ』
『戦績。私の』


 それは見れば分かる。文の最初に堂々と「戦績」と書いてあるし、その後に続くのも至極まっとうな戦の合計数、勝ち数負け数、勝率、消費資材などなど、そしてそれに対する評価なのか「判定」という項目もあり。実に戦績表らしいし、どっからどう見ても戦績表だ。
 こんなものに、は、俺の主は血の気を無くしているのか。悪い意味で予想外だった。


『えーと、読むな』
『……、ぃ』


 多分「おねがい」って言ったんだろうなぁ。なんだかな。取り直して俺は、上から順に戦績を読み上げていった。

 そこに書いてある政府から告知されたの評価は、さすが俺の主と言いたくなるぐらい、良いものだった。
 勝率などは俺が思っていた通りの負け無し。様々な項目に対して設けられた判定も、優良、優良、良、優良……。そんな具合だ。

 最後には、なんだか書いた人間の血の感じない、そっけない文言が添えてある。
 これも読むか? とに聞くとやはり消え入りそうな声で「おねがい」のような声がした。


『合計二十一の項目中、十九の項目で優良判定が出ました。他の二項目は良判定ですが、特に戦闘の質に関する項目では、いわゆるB勝利の獲得率が見込みやや高いこと、相対的にいわゆるS勝利の数が少ないことに今後注意して下さい。
 総合判定は優良。今回の成績を踏まえまして希望の場合は資材が特別報酬として支給されます。また自陣拡張の相談が可能となり……』


 途中で俺は読み上げるのをやめてしまった。続けられなくなってしまったのだ。


『えっ、ちょ……。なんで泣いてる、んだ……?』


 彼女がもういっぱいいっぱいの様子だったことは、俺から見ても明白で分かっていた。いつか彼女の限界が来るんだろうと内心でその日を計っていた。けれど、今俺が読み上げた戦績のどこに、彼女の緊張の糸を切る要素があったのだろう。
 だがは泣いていた。唇に噛みちぎりそうなほど歯を立てて、大粒の涙を流していた。


『な、なあ、泣く要素あったか? あんたすごい誉められてるぜ?』
『う、っく……』
『ほら、見ろよ。優良、優良、優良。優良ばっかりだ』


 俺はあくまで慰めのつもりで、文の中身を目前に突き立てたのだが、それがだめ押しになったのか、はついに声を上げて泣き始めた。

 号泣というよりは慟哭だった。悲しみによる凄惨な泣き姿というよりは、積年解消されずに育った彼女の怒りとも憎しみとも呼べそうな傷が、獣となって声を上げている。そんな気がした。「わあ」なのか「ああ」なのか、俺には区別のつかない音。声や言葉などでは無い。だからこそ、獣みたいだと思った。

 喉を踏み潰したような泣き声。が腹を抱えた後、歯を食いしばったものに変わったかと思いきや、今度はのたうちまわり、畳に爪が立てられる音がした。


『おいおい。なんでそんなに泣くんだよ……』


 俺はすっかり慌ててしまっていた。こんな風に泣く人と思っていなかったのだ。今の今まで、一度たりとも激しい感情を見せられたことが無かったのに、今の主は抱えていたものを鮮烈に弾けさせている。
 何か縋るものが欲しかったんだろう。はその内に、柱に手を這わせて、そこに体を預けた。そしてゆっくりと上体を起こしていった。
 俺は少し、なんだよ、と思った。ここには俺がいるのに、木の柱に頼るのか。細くて長いものってことなら俺もそう変わらないだろ。そう思って、柱からを引き離し、俺の肩に触らせた。縋れるものなら何でも良かったんだろう、はそのまま俺に枝垂(しだ)れかかった。

 の体は幼子みたいに熱かった。頭から湯気でも出てるのかと思ったし、髪はぼさぼさになって、の顔の涙の跡に絡みついていた。
 その頃には声が、泣き声の範疇に収まるものになっていた。少し子供みたいだったが、獣よりは人間になっていた。
 俺に触れ始めてから落ち着いてきたのが少し優越感を生んだ。


『俺を親でも恋人でも、何とでも思ってくれ』


 慰めのつもりでそういうと、は息を詰まらせ始めた。苦しみを噛み殺さんとして赤く充血してく目に、すぐに失言だったと分かった。なので俺はすぐに訂正した。


『あーやっぱり、ただの天下三名槍の一本と思ってくれ』


 弱さを見せ、体を火照らせて俺に枝垂れかかった様子。それを見たやつはいくらかいた。何事かと部屋をのぞきにきた奴や、たまたま通りがかった奴。俺が口パクで「あ、と、で、な」と伝えると、皆場を読んで足音を消して去っていった。

 あんなにも激しく泣いたというのに、が泣き止むのは思ったより早かった。本当に涙が収まったというよりは、彼女の胆力で引っ込め、いつもの彼女に押し戻したという印象だった。俺はらしいな、と思った。

 出してしまったものを補給するためか、はその後水をたっぷり飲んだ。飲み干した後の彼女に、俺は不思議に思ったことをぶつけてみた。


『なぁ。審神者にとってそんなに成績って大きいものなのか?』


 は潰れかかりの声でつまりながらも答えた。


『どう、だろう。ただ私は、政府に“優良”と言われること、待ち望んで、た……』
『じゃああれ、待ち望んでたものが出てきて嬉しくて泣いていたのか』
『……そう、ね』
『なぁんだ。そうだったのか』


 嬉しくて、嬉しくて泣いていたのか。本当に? まあ本人が言うんだから、全くの嘘でも無いだろう。
 戦の勝ち負けが、この人の内面に大きく影響していると、俺は初めて実感した。


『俺また頑張るよ。そんなに嬉しがるんなら、気合い入れて勝ってこなきゃだな』


 彼女のためならば、加えて優良と呼ばれてこんなにも泣いて喜ぶんなら、槍としての本分、全うしがいがあるというものだ。それを聞いたは、ゆるく唇を噛んで目を細めた。涙の残滓がぽろっと一粒だけ落ちた。

 それから俺は、の泣いた姿を見た奴には俺から説明をしておいた。「はずっと戦績を気にして、思い悩んでいたみたいだ。それが優良だと分かって、安心して泣いていた」と。


 は、あの日はやたらかわいげがあった。獣みたいな泣き姿が愛らしいかと聞かれればそうではないが、俺の愛着が増したのは事実だった。

 あの日以降、は女だてらにふてぶてしくなったと思う。未だ“優良”は求めているようで、己の道を行っている感じがある。
 あの泣き姿はまた見たいと思うことが少しある。けれど、張りつめた表情、緊張に支配された表情も見ることがなくなった。なのであの人の、あんな内側のどろどろをもう見られることは無いんだろうなとも、俺は思うのだった。