彼のたてる音は、例えば近づく足音からして、彼のたくましさを如実に伝えてくる。大きな足、ふくらはぎの筋肉などが思い浮かぶようだった。あと、瓶の中でたっぷりと入った酒がちゃぷんと揺れる音も聞こえる。
夜だと言うのに……。私は布団の中で息を吐いた。直に襲来するであろう次郎太刀に備えて。
障子が小気味良い音をたてて開く。見てはいけないと思いながら薄目をあけると、月夜を背景に次郎太刀さんが立っている。思いっきり部屋に流れ込んでくるようになった夜風に、ますます目が冴えた。
「おーい、ー?」
「………」
「どーせ起きてるんでしょー?」
「……急ぎの用件だけ。速やかに、どうぞ」
「急ぎじゃあないね。けど今、すぐの問題だねえ」
言うなり次郎太刀は、どかっと布団の横に座った。
「……この時間帯は私の部屋は入室禁止です」
「この次郎さんなら良いじゃないか。ねっ?」
「………」
どういう理屈なのか全く分からない。仕方なく起きあがった。この人がちょっかいかけてくる限り、眠ろうとしても眠れないだろう。
「あ〜、また疲れた顔してる」
「そうですか」
にしても今日も随分早く部屋に籠もったのにねぇ、と次郎太刀はぼやいた。
顔色に自覚は無い。不眠気味なのはいつものことだった。
ただ、私が夜によく眠れないこと。それを次郎太刀に知られてしまったのは、この本丸にきて指折りの失敗だった。
弱みにも思える部分は知られたくない部分であった。けれど酔った勢いで部屋に乗り込んできた次郎太刀を、回避する術は無かったな、とも思う。
秘密のひとつがばれた日。たぬき寝入りしている内に何をされるか分からない。枕元に彼が立った瞬間、そう思ってしまった私は起き上がり、彼を問いただしていた。
起きているとは思わなかった。次郎太刀は、納得混じりの落ち着いた声色でそう言ったのを覚えている。
「ほんと、相変わらずだねぇ。まぁ、飲め飲め」
「私お酒飲めないんです」
「あっはははは! 知ってる、知ってる!」
「………。私、寝たいんですが」
「ん〜、寝ればいいじゃない」
「………」
貴方がいるからますます眠る気分になれないんだ。私はふてくされた気持ちで布団を頭から被った。
布団で作った湿った暗闇の中で目を閉じる。完全な無意識にはなれないが、こうして息を潜めて体力を温存せねば明日も動くことはできないだろう。眠ろうと思ってもなかなか眠れない私には、こうしてせめて体と頭を休めることしかできない。
「………」
頭も体も休めたい。だから体を横たえ、目を閉じる。だというのに、頭は勝手に動き出す。考えて考えて、良い気持ち悪い気持ちもそこらじゅうから引っ張り出す。頭の中に存在する無数のタンスを引っ張り、箱を投げるようにして、ひっくり返す。
こんな散らかった頭の中、寝れやしない。いや、寝なければ。寝れやしない。寝なければ。寝なければ、寝なければ。眠れない!
急に息苦しさが迫り、私は布団を退け、起きあがる。肺に入り込んだ夜の冷たい空気が、頭の混雑を退け、同時に眠気も遠いところに持っていく。
「ああもう、体が強ばってるじゃないか」
布団に沿って横になっていた次郎太刀が、なおもお酒を煽りながら言った。
「眠れないなら寝なければ良い」
「そうはいきません」
「明日も戦があるから? 大丈夫、あたしがなんとかするって。この次郎さんを信じなさーい!」
次郎太刀の実力に信頼は置いている。彼は頼りになる大太刀だ。だが、それとはまた別に、私は私の最善を尽くさねばならない。
決心は堅い。けれど、急にせり上がったのは吐き気だった。睡眠不足で体調が崩れているのは分かっていた。それが今、はっきりとした吐き気となって私を襲う。
「う……」
「どうしたんだい?」
「気持ち、悪くて……」
「あらま。じゃあ、飲め!」
「吐きそうな人に飲ませるんですか」
「大丈夫だって。あたしが飲んでるのは、良いお酒だから。それもとびきりね」
「だめです。飲んでも、吐いちゃ、う」
「んじゃあ、お酒で胃を洗えば良いじゃない?」
なんて考え方だ。ありえない。酒飲みって恐ろしい。同じ人間とは思えない。いや次郎太刀は太刀であり、人間などでは無いのだけど。
いよいよせり上がる吐き気にうずくまると、その背中に熱いものが回った。堅く熱を持った、次郎太刀の手だった。私の背をさすり、肩を抱いて、落ち着くよう手のひらで促される。
「次郎さん」
「ん?」
「手、すごく熱い……」
「飲んでるからね〜ん。ほら、飲みな」
「ん、……」
お猪口の端が、私の唇をなぞった。最初に焼き物の冷たさが唇を押して、その後に冷たく甘い水気が唇にふれた。甘美と表現するのがふさわしい、果実と水の香りが広がると、ふと不思議なことに気分が楽になったのだ。
恵みをかき集めて何遍も漉したかのような甘い水。まだ口の中に入ってこないが、私が拒絶すれば、布団の染みになってしまうのかと思うと急に心惜しくなる。
これを味わえるのなら、飲んでしまいたいという思いに駆られた。その後すべて嘔吐してしまってもいいかと、思えた。投げやりな気持ちで、私は自ら口を開いた。そして次郎太刀の手から、苦手なはずであったお酒を飲み干した。
結論から言えば、私はその後、吐いたりはしなかった。一重に彼が言った通り、「良いお酒」だったのだ。
ただ酔わなかったわけでは無い。たったいっぱいで即座に前後不覚になるほど酔った。けれど気持ちよさ、その味の良さが先行し、私の頭を占める。ひとつのお猪口を使い、次郎太刀と私で代わる代わるに酒を口にする。結局その後、私は二杯を飲み下した。
「は〜。あんたって酔うとそんな顔なんだねぇ。……正直、あんまり酔ってるように見えないけど」
「酔ってますよ。ひどい、次郎さん。あんなにたくさん飲ませて」
「最初しか飲ませてないっての。でも良いじゃないか。さっきよりは随分楽そうだよ」
楽? 楽なんかじゃない。わたしは苦しい。体が熱くて、血がぎゅうぎゅう体を巡って苦しい。世界全部が、回ってるかのようだ。
自分の意識が切れるのも近いのが分かって、私は前後に振れてしまう首にどうにかしようともがきながら次郎太刀へと懇願した。
「あのあの。次郎さん」
「なんだーい」
「あの、次郎太刀さん。明日、日の出には起こしてくらさいね」
「そんなのもうすぐじゃないか。食事に起こすよ」
「だめ。日の出です」
「そうかい?」
「日の出です〜……」
食事では遅すぎる。絶対に日の出だ。主としてはそれがふさわしい。なるべく早く起きる。主人としてはそれがふさわしい。鶯丸や石切丸はさすがに朝が早すぎてかなわないが。
「んじゃあ、おやすみ」
そう声をかけ、私はまた熱く凶刃な腕に布団へと横にさせられる。もう体に力は入らなかった。骨抜きと表現しても良いかもしれない。自身の熱さゆえに冷たい布団が気持ち良い。
にしても今、次郎太刀はおやすみと言っただろうか。私、寝るのだろうか。意識が途切れるのか寝るのが検討もつかない。
もう覚醒してはいられない。それだけが事実だ。私は降参するように、自分を、意識を手放した。
その後。結局私は午時、つまり太陽が一番高くなった頃まで眠りこけることとなった。普段は寝たとしてもすぐ目が覚めてしまうのに、寝過ごすのは何年ぶりだろうか。寝すぎたせいかお酒のせいか、頭が痛い。
「………」
起きあがれない。もちろん頭に走る痛みのせいもある。庭に差す光が明らかに午後のものであることから目を背けたいのもある。今出ていったら皆は私になんて言うのだろう。遅かったね、とか、よく寝ていたね、とか言われるのは私にはとんでもなく恥ずかしい。
そしてなによりも、次郎太刀だ。あいつ、私を裏切った。日の出にも、食事にも起こさないでほったらかしなんて。
布団の中で顔が赤くなったり青くなったり忙しい私だが、随分と体が楽になった。その事実を前に、次郎太刀を責めたりできないからまた、布団の中でひとり身悶えるのだ。