自分は未だに、主について多くを知らない。主が両親から与えられた名を「」といい、現代生活においては実用性の薄い和服を着こなし、また歩き姿も美しく、だがお部屋では幼子のように足をだらけさせる事もある。常に考え事があるのか微かなしかめ面をしていることが多く、だが眼差しは澄んだ水のようにすずやかだ。一瞬見下ろすと、時を忘れるほどにすずやかだ。
そういった、自分から一方的に見た主というものについては話が揃っている。だが、何が主の根幹を成しているのか、過去になにがあったのか、どのような育ち方をされたのか。そういった事柄については一切知らない。自分は、主がなぜ主であるのか、という事を知らないのだ。
よき主人でいてくれる。一生懸命に皆を統べておられる。その姿を、自分は支えたいと思う。それだけで、不足は無かった。
主のは、青白い顔をして、日の出に起きる人だった。自分は主よりは少し早起きで、いつもぐるりと軽い掃き掃除をしている。
自分の前に、主は必ずいつもより一枚多く羽織り丸くした肩で現れる。朝もやの中で見るその人は、顔は一層白く見えた。唇のすぐ手前に小さくも、息が白く立ちのぼって消えゆくのを見ると妙に自分は安堵してしまう。この人は息をしている、と。
主の掃きなれた柔らかい草履の音。小さな歩幅で、夜冷えした地を歩くと、ある壁の前で立ち止まる。主の背丈に比べれば、大きな木の壁だ。一から四までの部隊、非番、内番、外出、などの項目に分けられ、その下に刀剣男士それぞれの名が書かれた木の札がかかっている。
かたんかたんと乾いた木の音がする。主がそのいくつかを外し、今日の内番を指定するために、それぞれの名が書かれた木の札を、選び、壁にかけてゆく。
馬当番の欄に二枚の札を選び出し、壁にひっかける。畑当番に二枚の札を、手合わせに二枚の札を、それぞれ選び出す。
木の札に手を伸ばす時、そして当番にかけ直す時、主は少しだけ背伸びをする。主の背丈では少し手を伸ばしただけでは、十分に届かないのだ。
精一杯に長くなろうとして骨張る腕。爪のかたち、その下のささくれ、寒さに熟れる指先。やや無理な体勢に、熟れて酒になりそうな柿に浸したかのような朱色の指先が、ふらふらと揺れる。男士の名が刻まれた札を、壁にかけようと。
自分が代わりかけるべきかとも思うが、自分は毎朝それを見送ってしまう。
早朝の主は張りつめた様子が一層近寄りがたいのと、その背伸びをする様子、そこに何かしら、自分が言葉にしがたいものを感じるのだ。恐らく、浅ましくも好んで愉しんでいるのだ。
朝一番のその仕事を終えると、主はまた草履を擦って歩き出す。『おはよう』と挨拶をされる。そして箒を持った自分と、一言二言、話す。話さないこともある。ごくたまに、『蜻蛉切、おはよう』と名も添えて挨拶されることもある。
『寒くはないの』
上から下まで見定められた後、そう聞かれたこともある。
だがそれは自分が主に聞きたかった言葉だった。肩のかたちが分からなくなるほど厚着をしているというのに、あかぎれそうな指の持ち主。一枚の足袋の下もまた、赤いのだろう。
自分は、一度これと決めた習慣をこなすことにそう苦労しない質の男であるが、落葉の季節から今日の今日まで、朝の掃き掃除を欠かさなかったのは一重に、主の姿を見られるからだった。
凍える主の姿、寒さに痛めつけられた指の色を見られるのは、朝のこの時間しか無い。
竹箒にひっかかる土ぼこりに、花びらがずいぶん入り混じるようになってきた。
不思議なものだ。つい先日「冬景色は飽きてきた」と主が小さくぼやいた。かと思うと連日暖かい日差しが続き、雪が溶け、池の水が目に見えて増え、そしてつぼみが膨らんだ。
早朝の本丸を包む空気も柔らかいものだ。
草履が地を擦る音がする。以前より軽やかて早い歩調で。
主は背と腕と指先を延ばし、かたかたんと本日の内番非番を決めていく。近侍となる一番隊隊長の札は動かされないのを、自分は横目で見てしまう。
「おはよう」
「おはようございます」
「随分、あたたかくなった」
それもまた、自分から主に言いたい言葉であった。
随分、あたたかくなった。主の指先の赤はだいぶ、柔らかい色だ。それを少し惜しいと思うことにより、自分の抱く想いが確信に変わる。主を支えたいという一方で、朝の主の姿に、自分は。
「以前より早く陽が昇っているはずなのに、寝過ごしそうになった」
ふ、と小さく息を吐く音が聞こえた。自分は笑んだ。この主が寝過ごしそうになったのは、自分には良い報せだ。
それから主は、いつぞやの用に自分を上から下へ、下から上へと見た。
「貴方の事、少し心配だったけどもう、安心して見ていられる」
主は、目を細めて、ただ涼やかな目元をきゅうと引き絞って、一枚薄着になってややかたちが認められる肩をすくめて、そう言った。
確かに自分は、朝であれ夜であれ、自分の格好を変えたことは無かった。このお方は自分を心配していたのか。自分の体は、貴女様に比べれば随分頑丈だと言うのに。暑さも寒さも感じはするが、自分の体に堪えるものでは無い。その自分へ、心を砕いておられた。
さん、と心の内で呼んでみる。
その言葉はまだ口から出したことが無い。
自分は主の多くを知らない。その名を口に出した時の感触すら。だが知らないことの多さは、あの方を好いてしまう事の障害にはならなかった。
むしろ心の内を、ふと知ってしまった時の落差こそが恐ろしい。愚かしい恋である。知らないことだらけが良いだなんて。自分も、そう思う。