朝っぱらに風呂の栓を抜いたのは、午後を思ってのことだった。
 残り湯の中に手を入れ、栓を探り当てると私はそれを引き抜いた。水圧のため少し苦労したが、一度隙間が出来てしまえばせき止めていたものが一斉になだれて抜けた。ひとつの穴目掛け、水がこうこうと、渦になって流れていく。何かを啜る音にも聞こえる渦の声を聞きながら、目を閉じると、水気を多分にはらんだ空気が鼻孔を優しくくすぐった。浴室の壁の向こうでは、刀剣男士の会話のやりとりが、遠い喧噪に聞こえた。
 数分待てば残り湯はすべて流れて、涸れた浴槽が残った。そこに在るのは、空っぽだ。内側に残った水気も、午後のまろやかな光に照らされ、その内に蒸発していくだろう。

「………」

 私はその空っぽに見入った。すると心のざわめきが次第に感覚を無くしていく。不安がおさまったり、解消されるのではなく、感知できないものになる、無かったことにされていく。
 空っぽ。恐らく私を表すのに一番ふさわしい言葉。そこから何も生まれやしないどころか、何も無いから他から求め、ねだり、奪うしかない虚ろ。何も無いことが在る、欠落したことを証明する傷跡。私の本質。

「主殿」

 男らしい太い声に急に意識を引き戻される。

「ここで何をしている」

 慌てた際に手に持っていた栓を落としてしまう。慌てて拾おうとするも、その指を惑わしすり抜けて、風呂場の床を跳ねて転がっていってしまった。
 声の主は浴室へと入ってきた。彼の、肉の厚い足の裏がひたひたと床の水を打った。やはりその声にふさわしい、厚くも綺麗な爪をしたたくましい指が、栓を拾い上げた。
 私が落としてしまった風呂の栓も、彼の指につままれるとひとつの飴玉のように小さい。いつもの勇ましい彼でも、眉を下げ、赤い隈取りの目尻まで下げられると、相応の痛切さが匂ってくる。

「すまない。驚かせるつもりでは」

 彼にしては情けない表情で、山伏国広は謝罪した。

 午後の浴場で山伏国広と対面するとは。
 その事柄にも私は驚きを抱いていた。浴場で対面したことが意外なのでは無い、山伏国広と対面したことが、意外な出来事で、どこか笑いさえ誘う組み合わせだとすら思う。
 彼は質実剛健の太刀として剣を振るうが、その他ではたびたび山篭もりの許可を乞いにやってくる。今日もまた修行への許可を求められるかと思いきや、そうでは無いらしい。山伏国広も目を瞬かせて、私と出くわしたことを驚いている様子だった。

「ありがとう」

 そうひとつ礼を言うと、山伏国広は一瞬虚を突かれたように固まった。私が彼の手の中に視線を落とすとやっと、風呂の栓のことを言われているのだと気付く。

「あ、ああ、いや……。拙僧が落とさせたものだからな」

 どうしたのだろう、山伏国広は。不思議に思いながら、手の中の栓を拾い上げようと手を伸ばす。私の爪の先が彼の皮をかすめた、と途端に山伏の手がびくりと跳ねた。栓はまたも浴室の床をころころと転がった。

「大丈夫?」
「す、すまない……」

 何が何やら分からない。山伏国広はまたも謝ると唇を噛みしめ黙ってしまった。彼は戦いにおいても、日々の良いことにも悪いことにも惑う様子を見せない、そういう男のはずだ。
 幸いにも風呂の栓は私の足下へと転がってきたので、私は着物の袂を押さえてそれを拾い上げた。彼の手にはひとくちの菓子のようであった栓は、私の手であれば丸く太った栗の実ほどに見えた。
 風呂の栓から彼へと視線を滑らせると、山伏国広は「主殿、気分が優れぬのか」と聞いてきた。これもまた意外な質問だった。私の目においては、山伏国広こそいつもと調子が違う。体調不良か、もしくは私が彼の気分を害してしまったように思える。

「……、そう見える?」
「拙僧には気が塞いでるよう見える」

 言い当てられ、私は肩をすくめた。気分は悪くない、何か特別身体の調子が悪いわけでも無い。ただ不安が重苦しく私にまとわりついて、思考も雲に覆われたように鈍いものになっていた。
 図星だったのが顔にも出たらしい。山伏国広は、あの、彼特有の笑い声をあげた。

「ーーカッカッカッカ!」

 腹から出るその笑い声は浴場内を縦横無尽に反射して、びりびりと鼓膜を震わせた。
 たった一回の笑い声にも、邪悪なものも吹き飛ばすかのような迫力があり、一種のまじないにも思えた。そう、山伏国広の笑い声はまじないの一面があるように私は思う。
 彼はおかしな出来事があるから笑うのでは無い。むしろ苦境の時、気まずさが生じた時こそ彼は笑い声を上げるのだ。

「主殿。何か、気に病むことがあるのであろう。だが主殿、どれだけ悩ましいことがあっても、一度手放し無心になれば自ずと……」
「無い」
「んん?」
「無い。気に病むことなんて」

 気に病むことが無ければ、悩ましいことも無い。むしろ私にはなんにも無いって考えながら、浴槽の底の"虚無"を見ていた。
 頭をもやつかせる憂鬱ならばある。けれど、もし気に病んでいるとしても、自分が何を気に病んでいるのか、分からない。悩ましいとしても、何に悩んでいるのかが、私には分からないのだ。ただ鬱々と、暗い心境がそこに在るだけ。
 そんなほの暗い心境を、誰かに、特に修行熱心なこの男に打ち明ける気にはなれず、私は会話を打ち切った、はずだった。

「そうか! 主殿は無心であったか!」
「無心……?」
「うむ、そうなれば合点が行く。風呂の底をのぞき込むその姿は相応に迫るものがあった」

 一瞬、ぽかんと口をあけてしまった。決して山伏国広にそう言われるほどのことは無い。

「私はただ、自分はどうしようも無いと思って……」
「おお! そうであったか! やはりここは主殿にとって、己と向き合う修行の場!」
「修行はしてない」

 そういうのじゃ無いんだけど。

「違うの」

 彼に変な誤解を抱かせまい。そう思えば語調は自然と強く、突き放すものになっていた。

「ひとりになりたかっただけ」

 そうだ。私はひとりになりたかった。
 本丸で孤独を味わうことはとても難しい。本丸には五十近くの刀剣男士がそれぞれの意志をもって活動している。私は日夜この本丸で寝泊まりし、住み込みで審神者としての役目を果たしているので、刀剣男士の在る空間と隔絶された現代社会へ帰ることは滅多に無い。
 疲れた、とは言葉にしたくない。私のような人間には、疲れたなどと愚痴をこぼしている暇などあっていいわけがない。だけど、心がぴくりとも動かない時がやってきている。そんな時に、全てを投げ出したくなる瞬間があるのだ。
 脱衣所の向こうまではなかなか、誰も追ってこないと知って、ここに誰にも告げずやってきたのだ。山伏国広だって、私がここにいることは知らずに入ってきた。

「……、そうであったか」
「うん……」
「ここに女人は主殿、ひとりだけだからなあ」
「そうね」

 乱は、私よりも可愛く愛嬌に溢れている。けれどあれはやはり男だ。

「皆、主が好きであるからなあ。しかしだからこそ、願うことがあるならば、率直に言えば良い。ひとりにして欲しいと」
「そういうことは苦手。私には……、高慢が過ぎる願いよ」
「そうであったか……。拙僧が、ひとつ高慢を言うなれば。全てとは言わぬが、拙僧と主殿、時々重なる部分があるな」
「……、え? 重なる……?」

 思わず聞き返してしまった。片や太い骨に筋肉をまとう刀の付喪神たる刀剣男士。片や着物を何枚か重ねてやっとまともに見られる、骨と薄皮、その上しかめっ面の人間の女だ。どこに重なる部分あるのだろうと思ったが、山伏国広の所感は確からしい。

「どうしようも無い"我"と向き合い、たまらなくなる。が、それでも向き合わんとする姿勢が、拙僧も同じなのである!」

 自信たっぷりに彼は言い切り、そしてカッカッカ、と笑い飛ばされてしまった。
 私は言葉も無かった。私と山伏国広は、全然違うと思う。けれど、どうしようもない自分に直面してしまい、それでも審神者という使命の重大さに全てを投げ捨てられない、という意味では彼の言葉は間違っていないのだ。

 彼のせいにはしたくないが、なんだか調子が狂ってしまった。毒気をぬかれて嘆息すると、山伏国広はその厚い手を差し出してくれた。

「主殿、拙僧に掴まるがよい」
「……どうして?」
「滑って転んでは危ないであろう」
「私のこと、老人みたいに扱うのね」
「老人のそれでは無い!」
「そう」

 まあ私は骨の脆弱さで言えば山伏国広よりは老人寄りであろう。私のものとはまるで違う男手に指を乗せる。と、彼は微かに体を硬くした。
 浴場の空気に急に緊張がこもる。

「……、何」
「すまない、主殿。拙僧、畑仕事が終わったばかりであった」
「ああ」

 確かに彼の爪の間には土が入り込んでいた。そして微かに風呂のじめっとした中に畑と、彼の汗の匂いを感じ取った。私はまたひっそり嘆息した。
 山伏国広もまた、唇を噛みながら「主殿の手を汚してしまった」とぼやいたが、何も気にするようなことは無い。私の手も綺麗では無い。紙ばかりを扱っていても案外、手は汚れるものなのだ。

「そう。畑当番を。それで風呂を見にきたの」

 ならば私は彼の身を労り、すぐに風呂を沸かそうではないか。わたしは彼の手を握ったまま、少し引いて浴槽へ近寄る。そして持っていた栓をまた、元の場所に填めた。
 注いだものをそこにせき止め、溜めておけるように、と。